「ない」とは決して言ってはいけない

「ない」という言葉を使うと本当に無いと思ってしまうためです。
自己啓発みたいな話ですが、スピリチュアル的かもしれません。
とはいえ、これわりと大事かなと。
運が良いと思っている人は運が良い
面接などで、運が良いと思いますか?みたいなときに、それに対して運が良いと答えた人を選ぶ。バカバカしいかもしれませんが、わりとあるんじゃないかと思っています。
僕はちなみに、運が良い、と思っています(笑)
運が良いって言える人は、色々言えるのですが、運が良いとか悪いって客観評価なんてないんですよね。宝くじ当てないと「運が良い」わけではないですから。
つまり、自分の主観世界として、社会をどう見るか。それなりに何かしたり、何か試みているか。どちらかといえば間接的に、チャレンジしているか、自分の人生を生きているか、主体性があるか。
そういう問いかけの変換じゃないかなと思っています。実際はその話者によりけりでしょうが。
僕は運が良いと思っているので、運が良いことしか起こらない(笑)ちょっとあれ?って思っても、まあいいやと思える。そっちのほうがいいんじゃないかって思うんですね。
これスピリチュアルですが、そう思ったほうがいい、それくらいの話ですね。絶対で宗教として押し付けるわけではなく。
ない、と言わない方がいい
ないって例えば、運がない、とかそういうことです。
他にも、「仕事がない」とか「お金がない」とか、「健康でない」とか。そういうのって、単なる否定とか、もっと意味がない謙遜とか、謙虚ですよね、そういうのもありそうです。
なのですが、そこを譲ってもやっぱり「ある」といったほうがいい。心の中で「ない」という単語があったり、客観的に「ない」と思ってもですよ。でも、そこで「ない」とは口には言わない。
そういうのがめちゃくちゃ大事で、やせ我慢に見える(そもそもそれすら思われないほど、あると言えばいいのですが(笑))ところでも、そこを粘っていくと。
運が無いんですよーという人とあんまり付き合いたいと思わないだけで、その人がそう思うのは勝手ですよね。ただ、その人と付き合ってどうかみたいなところで、「運がある」という人の方が「面白そうだ」というところです。
それもあるのですが、「あるある」いってるほうが、増えていくので、「ないない」いっていると、本当になくなりますから。
ないことに集中する意味はなくて、あることに集中する。そっちではないかと。
できなさそうな仕事も「ある」といってやるべきか?
これは難しい問いかけです。ケースバイケースですが、基本「やれる」といったほうがチャンスは多くなります。
とはいえ無理してやってもしょうがない、できないものは出来ないですから、そこも「あるある」いっても無理なものは無理です。
だから、絶対的な答えはないのですが、「やれる可能性もある」くらいでどんどんいけばいいと。出来ないならまた修正する、改善すればいいという考えの方が僕は好きです。
そういう考えのほうが、運もあるし、仕事もある、ということになっていくのかなと。
もっとシンプルにいえば、単に現状認識が全てではなくて、社会は変化すると。その時、ある種の運で決まっているだけのこともあるし、たまたまということも多い。個人の努力では関係ないところも結構あるということと、社会の流れとかもあるので、運は大事だと。
そして、あるというチャンスがある、と考える方がチャンスは増えます。これもチャンスではないか?例えば、「仕事がない」時こそ、これは「自己投資して磨くチャンス」ともいえる。
これはポジティブ思考ですが、そうやって考えればそもそもないことがないし、ネガティブになることも少なくなるんです。ここで大事なのは、ネガティブを排除するとか、それになってはいけないなんて極端なことではないですよ。
どうしてもほっておけばネガティブになってしまう人もいるし、ポジティブってパワーがいる感じもありますから。
ただ、口でも、精神でも、運が良いと思っている人は運があるし、何かあるぞと思う人のほうが「ある」ので、出来る機会は増える。ごまかせとか、現実を見るなとは、別であることに留意してください(笑)
あるからこそ、特技や強みが見つかる
自分の強みとか特技とか、持ち味が見つからないってよくありそうな問いかけです。
この問いかけは前提として、今ないから未来もないのだ、みたいな感じしませんか?そんなことないわけですよ。
客観視した絶対的な即戦的に使えて誰もが驚く(笑)みたいなのはないだけで、「あーこれ好きかもな」「やってると色々忘れられていいな」とかってあるわけですよ。逆にそれがないというのも個性じゃないですか。それでいいじゃないですか、というところです。
実はこれは「ある」のに、「ない」と言っているだけ問題とも言えます。ないと思うからないのだ、あると思うからあるのだ。
西洋的な論理でいえば、Aか非Aみたいな感じの世界観になりがちですが、中動態とか、東洋的な見方だと、Aであり非Aでもあるみたいなことはざらにある、と僕も思います。どっちか?YESorNO?なんて分かりやすいことはない。どちらもある。どちらも含む。
それが曖昧と考える限り、実は全てにおいて特技や強みなんて明確な何かはないと思っていて、もっとふわっと、ゆるっと、どちらでもないものを大事にする。そう眼の前のことは何かなんて結構わからないからです。
あると思って生活をすると、その通りあるのだ。あるからこそ、あったみたいな。あるんだって思うから見つけられた。
確か人生の意義もそんなものです。問いかけとして、自分はこういうように生きてみたいのだと考えるから、その問いかけに対して生まれる。それがない、つまり「人生に意味はない」とない精神なら、やはりないのですよね。
理屈はそれくらいで、結局これは現状を楽しいとか、面白いとか、感覚でこれいいなーあれいいなとかワクワクしていれば、はまらない免疫があると思います。免疫をなくして、全て合理的とか、自分は駄目なんだとか、感覚が死ぬことを、うつ病といっていいのかなと思います。逆にそのケアは感覚が自然的に生き返ることですから。
おわりに
無理して「ある」を言い過ぎても問題ですけど、「ない」とすぐ言うのもどうかなと。煮え切らない態度になりそうですが、あるかないかで二択ってあまりなくて、これはこう考えられるというとき、すでに選択肢が3つ目となる。
そうやって柔軟に考えると、ない、をあえて選択することって実はレアなんじゃないかとすら思えます。
実はあるし、違う考えも、選択肢もある。それをないと思えばないけど、実はあるのだと思えばある。
悪用して妙な詐欺や勧誘には使わないようにというところです(笑)まあそんな人はここ読んでないからいいのですけどね。
というわけで、もし「自分は何もないぞ」とネガティブな感じがする人は、10回に1回でもいいので「あるんだ」といってみましょう。ガラッと変わるかもしれませんよ。
筆者プロフィール

- 「シゴクリ」運営者。アイデアの力でお客様に貢献するゼロイチ大好きアイデアマン。ビジネスアイデア相談実績等は400超。好きな言葉は三方良し。詳しい自己紹介、仕事実績も合わせてご覧ください。お仕事メニューやお問い合わせはお気軽にどうぞ。