やりたいことは、効率の先には出てこない話

暇人という言葉を最近久しぶりに見た。そこに悪意はないので勝手にネタにしているだけだが、結構面白い言葉ではあるなと。
そこから転じて、結局、効率とか生産性とかいっていると、多分「やりたいこと」とか「意味があること」は生まれないのかなということを考えてみた。
目次
自分で使えば謙遜?、他人に使えば攻撃的
自分で使うケースは、僕はないのだけど、あるとするならば「暇人なもので、こんなことをしております」みたいに、時間がある、時間を使うことができる状態だ、これもバイアスがあるが、定年退職して時間があるとか(実際は生活もするし、移動もあるし、思ったより時間はないはずだ。むしろ、精神的にやりたいことがなければ苦痛ではある・・・という程度は考えておいたほうがいい気もするが、ここでは脱線するのでここまで)だ。
一方他人に対しては「暇人なんですね」は、かなりまずいだろう。これで「ええ、私は時間があっていいんですよ」といえる人は相当ツワモノだと思う。もちろん全ての人が否定的に捉えるわけではないが、言わない方が良いだろう。
言葉はそうやって誰に向けて使うかで意味が変わる。なかなか厄介だが、概念は常に変わるんだろうと。当然言い方や文脈もあるので、絶対ではない。
暇という言葉もなかなか難しいからだろうと思う。人はそういう状態というくらいで深い意味はなさそうだが、暇=時間があるというのか、暇=やることがないのか?で、「時間がある人」「やることがない人」では、大分意味が異なるだろう。
言い方としては「時間があるので」といえば終わりかもしれない。ただ「やることがないので」という意味で使っていればその通りなのだろう。難しい(笑)
暇と認識するものが異なる
いわゆる価値観の相違ということだが、先の話でいえば「人に対して暇人」ということがあるかはおいておいて、それはなんだろうかという話だ。
例えば、具体的には、空を眺めるのが好きという人がいて、一方で人と話すのが好きな人がいる。
お互いがわかり合えるかは分からないが、空を眺める人を、話すのが好きな人がいて、「空見てるなんて暇なんですね」となるとする。なぜか?空を眺める「価値」「意味」が、その方にはないからだ。逆もある。
空を眺める人が、ふと「話をしているなんて、空を眺めないなんて肥満なんですね」となる。なぜか?人と話すなんて、「意味」「価値」がないと思っているからだ。同じことを言っているのだけど。
価値と意味といってもいいが、自分が持っている「これいいなということ」に関するものが、異なるから生じているわけだ。
シンプルに、全てのものに意味を持ち、価値があるとは思えていない状況が僕にもある。また、全て無意味で、無価値とも思えてないところは、まずあるんだろう。多分。
そのうえで、お互いの行動や様子に対して価値を認められるのは結構難しい。
これは完全に消えることはないと思うので、この相違があるから「暇人すね」というのも消えない。当然そんなように相手に対して敵意というか、それを言うのは悪意か何か?嫌がらせかおいておいて、そういうことがなければ起きないと思う。
ということは、価値観の相違を踏まえて、そういう価値もあるよね。色々あっていいよねと思えないとこのズレは消えない。別に暇人から話を組み立てなくてもいいのだけど(笑)
あなたが散歩が好きとしよう。そして散歩が好きでもない、苦手とか、やりたくない人がいてその人からみれば「あなたは散歩なんてしているのは暇なのか?」となるわけだ。
人によって価値は異なる
対策とか対応とかではないのだけど、そもそも人によって明らかに価値は異なる。ということを把握していないか、考えてなければ自分が絶対か、または多数の人がやっていることが「価値」だと思うかもしれない。
例えばパラグライダーという遊びというか、スポーツというか、活動というか、がある。僕はやったことはないが、これを好きな人もいるだろう。僕は評価ができない。肯定も否定もしないが、それだけだ。
その上で、パラグライダーをやる人は暇なんだなと思うことはないし、考えたこともない。本当だ。ただ、パラグライダーの事故があるというニュースを見ると「危険なものをやるのだなあ」と思ったりする。だが、こういうのはトリックがあり、事故はあっても本当に稀なことがある。例えば、航空機事故はあるが、かなり率が低いはずだ。ちゃんと調べてないが、取り上げられ話題になると、確率、事故率などはあまり意識しない。不安だからだ。ここらへんはとても人間らしい感覚な気がする。
人への価値というか、人がやっていることに対しての評価になっているが、パラグライダーは正直どうでもいい。
どうでもいいとは、誤解がないようにいえば、パラグライダーが価値がないとか、意味がないという主張ではない。僕にとっては、取り立てて扱うべきことではないということだ。もっといえば、僕は他のことを価値や意味をおいているので、とくに評価もできない。楽しいならいいのでは?反社会でもないし、充実していていいのでは?素敵!と思っているということだ。伝わるだろうか?
ところで、人がやっていることに関してケチをつける意義は薄い。この展開というか、感覚において「時間を持て余した人は、実は話題がないので、誰かの悪口、または何かやっている人をネタにしていじる、下手をすると攻撃する」ということは有り得そうだ。よくない趣味だし行動だが、確かにありそうだ。
少なくとも自分が充実していれば、誰かを攻撃するとか、悪口とか、ここでいう「暇人だね」も攻撃だろう、などと言うことはない。また思うこともないから、何も思わないだろう。そう、その手の人に足りないのは、明確に充実なのだ。自分が充実していないから、誰かに対して攻撃してしまうのだ。
自分が充実するにはどうすればいいか?
ここでやっと、自分が充実するというところにたどり着く。それをどうすればいいかと?
おそらくだが、
- 自分が充実していない、暇があり、時間を持て余している
- やりたいこともないし、どうすればいいかわからない
- 何か充実してイキイキしているように見える人がいた、周りにいる
- その人を観察する、参考にしたいが、なぜかディスりぎみであいつはーと悪口っぽくなってしまう(不思議だがそうなのだろう)
- 自分が充実したいだけだが、似たような人と愚痴大会になってしまう
- それらで時間を使うことで、充実した時間はあまりなさそうでむなしい
みたいな悪いループにもなりそうだ。ここまであからさまではなくてもありそうかもと。
シンプルに矢印を自分に向ける必要がある。
やりたいことがあると、それをやるので、パラグライダーがどうとかどうでもいいはずだ。自分は旅が好きだから、どこかへ出かける。それで楽しいのだ。だから、「他人」が「パラグライダー」をやることはどうでもいいはずだ。関心というか、意識を向ける、外に向ける時間もなくなる。
一部の人は、そういう暇になると、どうでもいいことに意識が向くから、それを戒める意味で、自分を暇にしないという人もいるようだが、結構分かる気がする。暇自体は悪くはないのだが、暇→時間がある→良からぬ思考や考えや行動にでるということを警戒しているということだ。確かに。
自分がやりたいは、実は生産性とか有益とか、効率とかの延長にはない
では、充実とは自分がやりたいことをやるのだけど、見つからないという人は多そうだ。そういう罠というか術中に落ちている人は、不思議なのだろう。
ヒント程度だが、まさにこれは生産性とか、有益とか、効率とか、僕が比較的苦手な言葉にヒントがある(笑)
別に生産性を下げろとか、有益なことはするなとか、効率的でなくていいとか、そういう主張でもない。が、今書いていてそれくらいでもいいかもしれないと思っている。
つまり、あなたがやりたいことは、効率的とか無視しなさい、有益とかでなく無益でいい、生産性なんて考えるな、ということでいいのだ。
例えば、「花がきれいだ」を花を見て思った。素敵じゃないか。それでいい。
それだけだ。これをおそらく罠として「有益病」「生産性厨」「効率マン」みたいなこれは悪い意味で言っているが、である人はこう考えるのではないだろうか?
- 花がきれいと思ってもお金にはならないよね
- それで、何かメリットがあるの?私の?社会にとっても?
- きれいを効率よく味わうためにはどうすればいい?
有り体に言ってしまえば、これはちょっと病んでいると思う。ここまではいかなくても、近しい感覚があるかもしれない。例えば「こんなことして意味があるのかな?」という程度のつぶやきだ。
それはあると思う。僕にもある。ただ、ここで大事のは「自分が良いな」を否定しないことだ。くどいが反社会とか倫理的におかしいなら駄目だけども。そうなことは思ったより少ない。
「お米が美味しい」「クーラーが快適だ」「面白い文章だ」「知らなかった言葉だ」なんでもいいのだけど、それらは意味があるのだろうか?価値があるのだろうか?
価値といえば、自分か他人か社会か分からないが「何かいいな」と思えることで、どちらかというと「評価」があるものだ。役立ちそうと思われているのでもいい。幻想も多いがそこはおいておく。
意味といえば、自分が見い出せばそれでいい。なので、やりたいことは、実は価値でもいいのだけど、価値は多分評価がある生産性、メリット、効率みたいなことに紐づきやすい。だから、そっちじゃないかもしれない。
やや分かりづらいかもしれないが、まとめれば「自分にとって価値があること」=「自分がいいなと思えること」=「意味があること」でいいのだと思う。言葉の定義で変わるのだが、ここではやりたいことがやれて充実している(少なくとも暇を持て余して誰かを攻撃するということではない)ことを目指す場合だ。
もう一度いえば、「花がきれいだ」にメリットも効率性も何もない。あなたが思った、僕が思った、自分が思っただけだ。それだけだ。それでいい。それでOKするというか、認めて受け入れることだ。「それで楽しい」と、コンサマトリー=自己充足というところがポイントだ。それ以外でもない。
難しければ、「花がきれいだ」を誰かに説明しなきゃいけないのか?してもいいけど、する意味は文字通りあまりない。当然花がきれいだとおもった人同士は通じ合えるのでいってもいいと思うけども。「花がきれいだ」で稼ぐ必要があるのか?それをもっと広げたいなら花屋をやる、花でアートするとかそこはアイデアだけど、それは別問題だ。少なくとも「花がきれいだ」の瞬間、まさに自分でそれを受け入れて、感じるようにしていく必要がある。
少なくとも、やりたいことを見つけるとはそういう態度となる。
これを「小さな幸せを見つける」とか「自分だけの楽しみ」「自分なりの楽しみ」といってもいいし、全く同様だ。しかし、有益病にかかっていれば「有益ではない」と断られるだろう。
有益の旅は、終わりはないし、多分何もないだろう。なぜかといえば、「有益かどうか」を求める人は、有益性を自らでなく、人が持っている、他人のものさしや価値に準ずるからだ。それゆえに、自分が有益だと思う、ではなく、人が有益だと思うことを有益だと考えるのだろう。(この瞬間、自分が有益だと思うからは、実は有益といっているが、意味程度の言葉なので少し脱出できているように思えるが、その意識や姿勢があるかどうかだろう)
効率性を否定するわけではない
これも合わせて言わなければいけないが、効率性とか生産性を否定はしない。例えばAIで楽するということで、僕ならポッドキャストの文字起こしはAIにされているし、あとそれらを要約して一覧化するはAIを使っている。これらは生産性が上がるし、効率的だ。まともにやればかなり時間がかかるからだ。
効率的なことをするな!生産性を上げるな!有益なことをするな!ということではない(笑)やっている。
しかし、効率性のみ、生産性のみ、有益のみなら、それはとても彩りはない。なぜかそれだけなら物差しとしては、モノクロだ。生産性があるかどうかだけに思えないだろうか?つまんなくはないだろうか?僕はつまらない。
そこで、大いなる無駄といってもいいが、この言葉の使い方がわからない人は使わない方がいい程度の「難易度」が高い言葉だとも思いつつ。そういう自分が意味があることは他人にとって違うことが山程ある。逆も山程ある。でも、共通することもある。それらで例えば大変なことは効率をあげていいのではないか?となる。
そして、何度も書いてはないが、考えて提示しているのは「浮いた時間を何に使うか」問題だ。これは結局、極論ではありつつも、今回書いている「暇」と同じだ。つまり、暇が生まれるのだ。時間が生まれるのだ。
なにする?やりたいことは?とそこへ戻って来る。効率化の先には、この暇であり、意味ややりたいことがなにかとなる。そしてそれは「効率」的にも得られないし、効率の先にもない。効率をつめていくと、単になくなるか、ごくごくわずかな作業しか残ってこないと思う。やることは消えるのだ。
やることとかやりたいことは、そういう意味では対極といってもいい。意味がなさそうなこととか、それこそ「無駄」と思われることになる。
でも「花が綺麗だ」は無駄なのか?そこでお金を得られないなら無駄なのか?意味がないのか?を問える態度なのだろうと思う。無駄と切り捨てる人は正直僕にはわからないのだが、それで何が楽しいのか??となる。誤解がないようにいえば、「花」でないなら、何を楽しむのだろうかということだ。おそらく「効率化」することなのだろうが、「それは答え」ではない気がする。楽しいことがなく「不安があるから、避けたい」くらいかもしれない。
もちろんそういう病気が本当にあり、障害でもいいし、効率しか考えられない!はあるかもしれないが、多くは環境だと思う。周りに「こんなことやってる」「やってもいいのだ」がないのだろう。心理的安全といってもいい。
周りを見ればいいのかもしれない。「これやっている」というのを、極端に恐れたりして「花がきれいだ」といえないのは相当にまずい。またそれを「意味ない」も相当にまずい。
そこに彩りはないからだ。
自分が意味があることをやっていこう
ここでの意味も人にとっての価値とは限らない。そこに不安がある人は扁桃体(へんとうたい)、脳の一部で不安などだが、それだけではなさそう)を鍛えすぎかもしれない。もちろん不安センサーはあっていい。けど、効率的ではないから、価値がなさそうだから「不安」で反応しすぎても新しいことができない。
それこそ、「花がきれいだ」から、「写真撮ってみる」ことも「ん?意味ないな、価値がないだろ」といえば、全てのことをしなくなるとは思わないだろうか?これは怖い。
多分だけども100%無駄も多分できない。食べたり飲んだりは必要だし、それは生存の意味があるし価値がある。否定できないだろう。そして0%無駄=100%価値もないだろう、それはそれで人間のために最適な行動をさせられる調理ロボ(しかも休みがない)みたいな感じがする。そうではないだろう?
社会が、意味、とくに自分が意味があることに対して、寛容ではなくなってきたかもしれない。または、価値性ということを言い過ぎたかもしれない。例えば無駄な研究はするなは多分悪手で、研究自体が無駄性があるというか。だから、意味がある。研究は意味があり、無駄性がある、価値はその時点ではない。だから、価値は別なのだ。そういう性質だということを踏まえて許す(言い方は悪いので、それを受容するというほうがいいだろうか)必要がある。
これを借りるならば、研究活動、研究性のある動きを自分のプライベート、人生、一部にいれること。それができるならば、出来ているならば、充実度は多分高い。これがないと、乾いた、ドライな、AIのような、ロボっぽい、機械のように、効率しかなくなる。
それを望む人がいれば一興だが、僕はそんな社会を作りたくはないので意味性、無駄性、研究性みたいなことがあるほうが豊かだと思う。
教養も近いだろう。言葉の意味として、「歓心を買う」という言葉を知っていなくても生活できる。数学で「数列」を知らなくても生活はできる。もしかしたらお金は稼げる=仕事はできるかもしれない。けども、豊かさはそこの彩りだ。言葉なら表現でもいいし、数学など学問なら世界の探求や知恵だろう。それは純粋に僕は面白いと思う。別にアカデミックでありたいとか、その分野にいたいとかはないのだけども。
社会や世界がモノクロームならば、それはものさしが一つでそれはあなたの見方がそうなだけかもしれない。彩りがある人いる、彩りがある場があるなら、そこにいる人が彩りがある(まさに意味や無駄)があるからではないだろうか?
これはわりといい線かもしれない。
筆者プロフィール

- 「シゴクリ」運営者。アイデアの力でお客様に貢献するゼロイチ大好きアイデアマン。ビジネスアイデア採択実績数は474件。好きな言葉は三方良し。詳しい自己紹介、仕事実績も合わせてご覧ください。お仕事メニューやお問い合わせはお気軽にどうぞ。
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