具体だけでは世界は成立しない。抽象とのバランス、そして交互に行き交うしかにゃー。

答え、つまり具体的な何かを求める人は多い時代だと思うが、さてそれはいつからだろうか?紀元前くらいじゃないか(笑)
というわけで、抽象的なつまり本質的なと思うのだけど、それは受けづらい。なぜかといえば、それは自分で考える、つまり抽象的な概念、考えといっていいが、自分で具体化しないといけないからだ。
例えば「状況によっては一旦引いてみるのも大事」というのも、なにか言っているようでいってない。例えば、今すぐ決めなきゃと思ったり、焦って事をし損なうのであれば、なりそうならばだけど、冷静になるみたいなことだ。ではそれはどのタイミングで?いつ?どういうときに?何をそれに当てはめたらいい?は、書かれてない。
自分で考える前提があり、その答えらしき具体論は、具体といっていいがないのだ。抽象的とはそういうことだ。
では、その抽象を煙たがる人がいたり、それは意味がない価値がないとまではないが、それを求めてない人もいる。が、ちょっと待てよと、今それじゃないという意見も十分ありえるが、流石に考えてない、考えないだけで、具体は流石にまずくないか?
そんなことをふと思ったので書いてみたいと思う。
具体と抽象のみんな大好きな話
あえていっているが、具体と抽象が好きなみんな(笑)はいいとしてそうでない人にはうざったくてしょうがないのだろう。が、読者諸賢はそれを見たくて来るのだからまあいいのだろう。ありがとうございますと。
シゴクリ的にいえば、起業やビジネスの仕方みたいなのを具体的に教えてくださいと、抽象的に教えてくださいというのがあるとすると、まあ前者しかない。具体が欲しいのだ。なぜか、それはその人のビジネスレベルによるのだけど、経験値といっていい、分からないからだ。抽象論とは、ある種経験値があり、考えられる、中級者向けとなる。これは違和感がない。
故にこうなる。
- 具体が欲しい、具体論が欲しい。細かい事例が欲しい。そういう人は、経験値が浅い。
- 抽象やまとめや整理が欲しい。そういう人は経験値が中級者以上。
仮に中級者で具体例が欲しい場合は、その人のレベル以上、上級レベルでそういうことがあるかもしれない。となると、
- 自分が経験していないものは、具体的な例が欲しい。イメージができないから。
- 逆に言えば、経験していたりするものを、あえて例示することもない。認識共有程度で良い
となりそうだ。だから、自分の経験値レベルによって、未満なら例は不要で、具体は省ける。しかし、より高いものなら想像ができないので、細かい事例がないとしんどくなる。
ところで前書いた気がするが、学習とは具体から入るとある。知らないものは分からないのでどうしていいか分からない。
ピアノの練習をするとしよう。音が鳴るのはどれで、どう押すと、指で押すのだけど、しかも足ではなく手の指だ!というところからまず習う必要がある。楽譜の読み方もあるし、どう引くとスムーズになるかなどもある。簡単にはいかないがそれが練習であり、演奏だ。そして学習だ。
この時、先生や講師はまずこれをやってみてください。基本のメロディーや指の動きを練習するしかない。特に、両手であれば左手と右手が一緒に動くわけで、それを動かしながらできるかどうかは・・・結構切り離しとして大事だと思うし、基本なのだろう。
そうやって、具体例を示し、やってみる。習うしかない。言葉でいってもしょうがないし、言ってもいいけど、手を動かして「ドレミファソラシド」だけやってもしょうがないけど、練習するしかない。
というわけで、ここで明確なのは、具体例がある状況、それを示唆して欲しい場合は、
- その具体例を経験したことがない、未知である。分からないので、それを示して欲しい
- 自分のレベルより高い話なので、まず示さないと分からない。
間違ってもではないが、その例は分かるのだが、前提確認として示すは採用や面談ではない限り、立場やコミュニケーション次第ということだが、あまりなさそうだ。
とはいえ、相手になにか伝えるときに具体的に示す必要がある。何を言いたいかが細かい場合はその具体をさらに掘っていく必要があるからだ。それを出せるかどうか、言えるかどうかもあるので、具体例を伝える、より具体的に伝えるシーンというのもあるかもしれない。上では学習に限っているが、実はそうでもない。
- より具体的に伝えないといけない場合、その具体度が足りない場合はより具体的にという話になる
学習なら未体験や知らない場合は具体例を示す必要があるし、コミュニケーションでより伝えたいものがあれば具体的に示す必要がある(相手が望むなら)ということだ。
では、この具体が常に良いのか?というとそうでもない。
抽象はまとめや整理、理解を示すことに使える
学習としては、抽象としてまとめられるということは、ピアノはこうやってやればいいのだとある程度具体をやったあとで「なるほど、左手の動きと切り離すことが大事なのはわかりました」といってもできないなら意味がなく、ある程度できたからだ。
できた人が「両手同時ではなく、片手ずつ動かせるのが大事」というのを伝えたり、自分で理解するために抽象があるといっていい。それを「切り離すための練習がこうで、こういうのが大事で、、、」といっていたらまとまらないからだ。これは地味だがものすごく大事だ。言葉や情報の圧縮といってもいい。逆に具体はそれを解凍、展開できるといっていい。
最初は学習であれば具体から入り最後に抽象。そして分からない部分をさらに具体で戻してを繰り返すことになる。
次に、コミュニケーションだ。具体例を詰めていってもいいが、具体で相手が分かればいいが、具体だと細かすぎて分からない例もある。ピアノの専門的な話をされてもピアノを弾いてない人にはさっぱり分からないからだ。で、そこで抽象化、つまり専門性が高くなくても、「練習するのが大事なんですよ」といえばそれだけで良い。骨子はそこだからだ。当然細かい具体例を言った上で補うまとめが理想だが、伝えたいのは「具体的なピアノにおける専門性」「ピアノにおける練習の細かいやり方」であるかどうかだ。
それであれば具体的に走ればいいし、できるだけ具体化する必要がある。
しかし、抽象的で事足りる、むしろ抽象でなければいけないケースはそうやって骨子を伝える時だ。「練習が大事」ならそういえばいい。またはそのために具体例を示してもいいがあまり意味がない、少なくとも時間は無駄になりそうだ。
同時に理解をしているならば、具体例を示せると思いがちだが、抽象でまとめられないのも困る。少なくともどちらもいるわけだが、具体的に示して相手が「?」なら、具体的にはいえない。簡単にしたり、抽象化して和らげる、ざっくり伝えることになる。それだけだ。
一方で、相手が「ですね、ここは?」と食いついて来るならさらに細かな話ができる。それができないなら、具体的な話ができる。
具体度、または抽象度のレベル感が問題となる
つまり、具体例だから分かりやすいとか、抽象だから分かり辛いはかなり手前の話となる。手前とは本質的ではないということだ。
具体的だから分かりやすいは、自分が分かる専門的な話においてだけど、シンプルにいえば、具体的過ぎても枝葉過ぎると良くない。伝えたいのはなにか?があるわけで、そこがなければ意味がない。
抽象的だからいいというのでもない。実際は具体的でない、という批判が多い気がするので抽象が嫌われるのは悲しいが、それは抽象が悪いのでなく、単にその人の説明が「レベル感」があってないだけだ。そして、具体的経験不足か、抽象的にまとめる不足か、結局理解度や実践不足となり、勉強不足で大体は終わるのだと思う。だから、駄目でなく勉強したり考えていくことが大事じゃないかとなる。
抽象的でまとめた気になったり本質を言ったっぽいとか、あとは伝わった風なのも困るわけで、そこをどう捉えていくか。
ここで問題は、具体的にといってもどの程度具体的かどうか、抽象的でもいいもどこまでいいか。相手によるわけだ。少なくとも自分と相手によって、具体レベル1とか3とか5とかがあって、絶対的な指標があるわけではない。ないのだ。相対的だ。
僕が具体的だなと思ってもそれは相手からすると抽象的だったとか、逆にこちらが抽象的だなと思っても十分具体的ですねとなるケースもあり得る。
そして、完璧に具体度、抽象度がばっちりというかハマって伝わることはほぼないし、常に不足や過剰があるというか。そこをお互い補足して整理するからコミュニケーションが出来るのだろうと思う。そこが難しいのだけど。
具体論を求める人は何を求めているのか?
さて、たまに見聞きするのが「具体論が欲しい、抽象論はいらない」というフレーズだ。
分からないでもないのだが、それは具体的な「答え」に近いのだろうと思う。つまり何をしたらいいか。ビジネスであれば今は集客を強化したほうが良いなど。でもそれでは「抽象」だから、「SNS、具体的にはtiktokを使って広告を5万円分使ってそれでインプレッションを1万得られるので、そこから1割来て1000ユーザーのPVが得られる。そこで今回の話題となっているものを提示して」みたいな。
具体的に聞こえるが、適当に書いている。例だから。さてこれはほとんど答えだ。考えでもいいけど、考え方ではない。考え方とは「集客を強化する」という方向性だ。だから、SNSでなくてもいい。街頭でチラシを撒いてもいいからだ。やるかどうかはおいておいて。
ここでふと疑問に思うのが、ではSNS広告を使うのが「具体」であり「答え」とした時、それはAさんの意見でしかない。Bさんとして、それを受けた、アドバイスを求めた人はどうするのだろうか?「それはやりました。他のアイデアを」となるのだろうか。Bさんが考えてないことをAさんが出す保証はないし、とても難しいように思う。
答えを求めているから、もっとシビアになるのだろう。Aさんのやり方を真似てやってみて「うまくいかない」場合はどうするのだろうか?Aさんが責任を取るのだろうか。Bさんは何を考えているのだろうか?何をするのだろうか?と思ってしまう。少なくとも、そういうBさんと僕は仕事をしたいとは思わない。あなたはどうだろうか?
さらに、その答えをそのままやるのは愚かならば、答えを判断できるのだろうか。つまり、答えらしき広告を打つは、やって駄目だったからNGと決めつけたり、または既にやったことはアドバイスに含めないなど謎ルールを自分で生成している可能性が高い。また、Bさんが分からない、Aさん独自のやり方、これも適当な例だが「ある顧客は定期的に何かを買っている、それは独自で調べたところこういう傾向があった。それに対してこういうアプローチをしたら売れた」ということを再現できるかどうかはおいておいて、限りなく再現可能だったとする。
そういう面白いユニークなものを提示したところで、Aさんはそれを判断できるのだろうか?それこそ、SNS広告など自分で今までやったことと同レベルの施策としてしか判断できないのではないだろうか?つまり、Bさんのレベルが低いのだ。
Bさんのレベルが低いのであれば、発注者がということだ、その人に、Aさんという受注者やなにかアドバイスをする人が教えることになる。教える場合は「具体」だった。具体で示すのだが、それができるかはまた別だ。そして、酸っぱい葡萄?ではないが、Bさんはそれを理解したのだ、Aさんのやり方は分かっているという時に、具体例を示すよりも、抽象で言う必要がある。むしろ、それらの抽象化ができない、抽象論でいえないならば、理解をしていないことにもなる。
例えば「独自の工夫がいる」は確かに何も言ってないのだが、独自の工夫で実際に何かアイデアや具体例があればそれは意味が通る。一方で独自の工夫としか言わなければ確かに具体的ではないから、怒るというのも分からないでもない。
しかし、具体例を示せることと、それを相手が理解できることは別だ。そして、具体例という具体度の話であれば、いくらでも専門性が高ければ具体的になる。それこそTiktokで広告のクリエイティブの画像の位置がどうとかにはなるが、それは些末のように思えるがそれも可能だ。そして、抽象度も、ビジネスは気持ちが大事みたいなことになるわけで、顧客視点が!とかもそうだ。それもいくらでもいえる。
つまり、具体論、具体例を示す人は、おそらくこういうことがいえる。
- 抽象論をかざされて分からなかった経験がある。不毛だった
- 具体的にといっても、具体的な話ができなかった人がいた。経験値が低かった。
- そういうことに当たるのが不安である
なのだろう。ただこれはその人が悪くないみたいな感じもするので、あえていえば、
- 自分が理解出来ない話をされるのが不快だ。相手の言っていることが筋が良くても関係なく、自分が理解できるようにして欲しい
- 理解できるだけでなく、即実行であったり、効果があるやり方がよい。出ないものは要らない。
これをみると、高飛車だと思わないだろうか?自分が理解できないことは意味がないとは、ある種傲慢だと思う。自分が理解できないけど、価値があるものは一杯ある。または理解できる範囲で自分がやるしかないともいえるので、一生すれ違う可能性すらある。不快とは分からないでもないがそこを理解する意志や姿勢がなければ学習はできないと思う。
こういうのはある種コンプレックスはあるのだろう。フレームワークとかでもいい、それをかざしてきてさも知っているかのように言われたが、別にそれは知っているしとなって喧嘩ではないが、揉めるのかもしれない。まあそれはそれでありそうだ。
効果があり、すぐできることは、当たり前のように思うが求めすぎだと思う。そんな特効薬、万能薬はない。あればそれを誰も求めて買う。風邪なんて引かない(笑)食べて休むしかない。そういうのを抽象論といっていては何もできない。
そして一番怖いのは学ばないことだ。学べないといってもいい。答え、具体だけを探せばそれでもしかして何か進んだかもしれないが、自ら考えていない、ひたすらコピペしているのと一緒だ。レポートや資料はできたが、それをあなたが説明することはできない。なぜならコピペしたからだ。それは明らかだろう。
何を望むかは人次第だし、コピペして乗り切って来た人がどうなるかは分からない。ただ、まあそこで「ん?この人は考えてないね」となると、そこで信頼や何か任せようとはならないだろう。それだけだ。仮にそういう人は同じようにコピペする人達だけで生きるのだろうか?少なくとも自分より答えっぽいものがあるのを得ていないだろうか?
では、その答えらしきものを示されてそれが嘘や罠、偽りかどうかはどう判断するのだろうか?誰かの評価でそれを決める?☆5だから問題ない?というのも操作できそうだし、自分で決めてないことになる。それを一生続けるのだろうか?
おわりに
具体的に考えることを否定するのでなく、具体的には考えないといけない。
一方で抽象とはまとめでもあるし、整理してまとめて束ねることで使えるしそっちも大事だ。両方いる。
しかし、なぜか具体で分かりやすいものが流布してしまった。具体例がないと分からないのは確かに筆者とか伝える人の怠慢もありえるが、実際にそれを示していたら説明が長くなるのでしょうがないのではないか。だから全部そういう具体例がない説明が良いとも思わない。
分かるではないのだ。具体例では分かったつもりになるのだ。分かったけど?となるだけで、それは下手すると分かりづらい説明よりたちが悪い。
考えるとは、考え方とは元来そう分かるものではない。抽象的だからだ。
それらの面倒くさいがある中で、具体度、抽象度を見極めて適切に伝える、適切に学ぶしかない。地味だけどそういうことの繰り返しだ。
逆にこれを繰り返している人は、どこが具体的でないか、または具体的すぎるか、抽象度がないのか、抽象すぎるかなども説明できる。出来ない人はそれらを見ていないか関心がないか、本当に分からないのかもしれない。
実に面白い点だと思う。
筆者プロフィール

















