分かりやすいという罠はあるかも

分かりやすさの罠みたいなのがあると思っている。
わかりやすければいい、というシンプルな主張は、ちょっと分かりづらいなら「考えない」ということになるからだ。
実際に、学校でいえば、学校のように誰もが学んで、点数をつけてなんていう環境は社会にはない。いや、あるとしても特殊だろう。つまり、特殊環境にいてはある種の非特殊、つまり、普通が学べないのだ。
分かりやすいものに触れていると、わかりにくい耐性がないというか、免疫がない。故に、分かりづらいものが来たときに「弾く」のだ。弾く事自体は悪くないが、すべての人が「分かりやすい」のか、分かりやすく伝えるのか?というと、それはないだろう。
現に、ここまで今読んでいてどこまであなたはこの主張が伝わっているだろうか?
分かりやすいならいいわけでもない、分かりやすいならいいというのみの捉え方は足元をすくわれるわけだ。
もちろん、「わかりにくい」方が良いというわけではない。ただ実践では、分かりやすい、わかりにくいが混在するし、どちらもある。
そういう状態にあるからこそ、分かりやすいとか、分かりづらいがある。その中でどう相手が言いたいことを探ったり、コミュニケーションしていくことになるのだと思うわけだ。
結局これは伝えるからこそ生まれることともいえる。分かるとか分からないは自分だけでは完結しない。他者がいる。自分だけで生きている人はいないはずで、社会に生きるならこの伝える、伝わらない、分かる、分からないがある。
そういうものを「だから、こうだ」でなく、そういう状態を楽しんでみるというのも大事な気がする。自分が気持ち良いコミュニケーションだけではないし、逆に気持ちが良くないコミュニケーションだけでもない。色々探っていくのが良さそうだ。
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