抽象=曖昧であるわけではない

抽象ネタって本ブログでは結構扱っています。
立場としては、抽象と具体を往復することでアイデアが生まれたり、違う気づきが生まれる。よって、どちらも好むです。
僕はむしろ抽象大好きです。最近数学が面白いのだけど、アプローチが違っていたのではないかと思い始めているくらいです。これらはまた学習して整理していきたいと思います。期待せず(笑)
今回は、抽象という言葉が曖昧であるという位の意味合いであると、それは本質ではない、勿体ないという話をしてみます。
それって抽象的だからもっと具体的にいうと?
このフレーズってどっかでありそうです。例えば誰かが「世の中を良くしたい」といったら「具体的には?」ってやつですね。
この時確かに具体的な行動や言葉がないと分からないのは事実です。ですが、この時「抽象」である「世の中をよくする」という概念や表現が悪いとまでいくと、ちょっとやり過ぎだろうなというところです。
暗にですが、抽象=曖昧であるから良くないという概念、考え方の人はこれらを勘違いしているだろうと、僕は考えています。
乱暴にいえば「抽象的な言い回しは価値がないので、具体的に言ってよ」ということです。
あなたはどうですか?そういう立場ですか?それともやはり抽象は価値があるよなと思ったりしますか?
具体性では多くは説明しづらい
人間を除く動物がおそらく見たもので行動している、まさに具体や感覚の話ですが、見た通りや感じたとおりでうごくわけです。だから、見えない世界、宗教とか、組織とか、アイデアとかってものは生まれようがない。当然、巣の作り方を覚えるとかはあるのでしょうがちょっと違うと。
分かりやすいか分かりませんが(笑)あなたは起きて何をしたか?というところで、回答する時かなり抽象化されています。人によっては、歯磨きと言うでしょうし、出社というかもしれない。メガネを掛けるかもしれない。そういうのって「朝起きて」が何を示すかが示されてないからですが、これだけでもズレがあります。
1日の行動を教えてくださいも、端的に言わなければ、例えば24時間動画を見せられるようなものとすると、とてもつらいですよね。研究や調査ではなくて(笑)だからこそ、抽象は普通にあって、使っているんですよね。
ここで端的とか要約とか言ってるのですが、相手が言っていることを想像して、そのレベルや伝わるところで話をする。まさに省略化でありつつも、本質として「最も言いたいこと」「最も聴きたいこと」みたいなのがなにかを考えることにほかならないわけです。
会社の経営方針とかミッション・ビジョン、最近はパーパスとかですが、それってめちゃくちゃ抽象的ですよね。それが「自社の売上を色々上げていって、最終的には・・・」みたいな説明は具体的すぎるわけです。この抽象度というのか、具体度というのは実は正解も何もないのですが、抽象度が高い=分からないのでなく、抽象度があるからそこから具体化しやすい、または抽象に戻れるという感覚が僕にはあります。
抽象に戻るという意味が分かる時、その抽象そのものですが、そこは「曖昧」ではないんですね。むしろ、明確であると。当然抽象的といって、それが「曖昧性」を意図するなら分かりづらいですよ(笑)例えば「社会を面白くする」というのは僕のわりとミッションなのですが、曖昧じゃないですか。と僕も思うのですが、それがあるからこそ、その故に「こういう施策が具体的に打てる」というのが考えられると。
それは例えば「会話で誰かを笑わかす」というのがあるとすると、僕はそれに従っているといえるし、充足しているとも言えるわけです。
これが逆に「会話で誰かを笑わかす」のような具体的なものを並べていったとして、帰納的といえますが、「社会を面白くする」という抽象メッセージにつなげられるかは激しく疑問なわけです。出来る人は抽象度理解がある人ですが、具体だけで考えると、いわば動物的となっていて、全体像が見えないわけです。
これが、まさに具体性では説明がしづらい。全体像を示したり、まとめるところがないってことですね。
単体の抽象でなく展開される具体というセット
つまり、抽象のメッセージを見ても「何か固まったもの」でしかないんですよね。そこから「何か固まったもの」→「展開すると具体的にこういえる」とか、「具体的にこういえる」→「何か固められるもの」というところで、まとめられると。
もう一度いいます。何か固まったものというものだけを見て理解するのは困難ということです。それが抽象というものです。つまり、具体性や違う展開されたもの、関連したものとか、違う概念を持って成立するのかなと。これはどちらかというと理解の話ですが。
曖昧だと感じる人は、抽象メッセージ→具体展開というのが著しくないという認識です。だから、抽象を見て具体を想像できないので、「抽象的なものって分からんな」で終わるわけです。
ということを書いていて思ったのですが、具体的にしていく作業を否定しているわけでなく、抽象と具体はやはりセットであるべき、というか、そうでないと成立しづらい。どちらも大事という主張とつながっていくわけです。
そこにさらに、抽象でまとめられるので便利というわけですね。
学びも抽象的に抽出できるかどうか
右脳スケッチみたいなのをやりはじめてなるほどなと思ったのは、著者の教えが「描いていくと形を取ることができるようになるぞ」とおもったらほぼ卒業だそうです。これって始める前は良くわからなかったのですが、描いていくと「この物体はこう取れるかな」というところで、手を動かして得ていく感じがします。
つまり、「形を取ることができる」という一定の経験と知見を得ることで、自信につながっていくわけですね。これも、具体的なスケッチをしていくスケッチ行動やスケッチ活動というのがあって、そこを何度もやることで束ねて、ある種まとめのように「形を取るというのはこういうことか」とまとまったこと。それがまさに「形を取れるようになること」ということで抽象化できるわけです。
逆にいえば僕が「形を取ることができる」という感覚を得るには、具体的にはスケッチを何度もしていって練習していくことに他なりません。
そうやって具体的な行動から、学びとして抽象化するのがまさに学びといえるのですが、そこで具体や抽象を意識する人が意外に少ないかもしれません。
もっといえば、量と質があるとき、量は具体にひも付きやすく、質は抽象にひも付きやすいといえます。具体的な量だけではまとまらないので、質に転化するには抽象化する必要があると。逆に抽象的なことをいっていても、展開できないとほぼ孤立化するわけです。理念だけ言っていても本当に価値は生まれないですから、具体的な何かをどう入れていくかがポイントとなります。
おわりに
もっと乱暴にいえば、抽象をおろそかにする人は学びの仕方がうまくないともいえます。または学びの効率が著しく悪いかもしれません。まとめたり、要約したり、つまりこういうことであるというのを「圧縮」できない。そうすると、色々と不都合もあって、伝え方が効率的ではなかったり、全体像を示せなかったり=実際に見えてない時ってそうですけどね(笑)などです。
抽象を愛する人は読んでないかもしれませんが、具体が良いと考えすぎるのもまたどうかなというわけです。
抽象が価値がない、分かりづらい、曖昧であるという意味合いでしか使ってなければ学び方として点検のチャンスかもしれませんよ(笑)
筆者プロフィール

- 「シゴクリ」運営者。アイデアの力でお客様に貢献するゼロイチ大好きアイデアマン。ビジネスアイデア相談実績等は400超。好きな言葉は三方良し。詳しい自己紹介、仕事実績も合わせてご覧ください。お仕事メニューやお問い合わせはお気軽にどうぞ。
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