考えない愚よりも、考えさせない恐ろしさか

考えることを意識することが最近多いのですが、「考えない」というのが愚かと思っても、むしろそれごと、根っこから「考えさせない」方がおろそしいなと感じた話です(笑)

考えるは苦か楽か

考えるということが僕は好きなので「苦」なわけないなと思ったのですが、どうも違うなと(笑)

世の中には考えるのを放棄する、それは考えた上ででもなく、鼻っから考えない人もいるわけです。そういう人を批判してどうというのは狙いではないです。

そもそもなぜ「考えない」かというと、考えるのが脳のエネルギーを使ってかなり「疲れる」んですね。肉体労働も疲れますが、こういった知的労働も疲れます。知的労働という響きで、何か「上から目線」という意図を感じる人ももしかしているかもしれませんが、特段それはないです。単に生産工程が違っているので、そもそも農家さんがいなければ何も食べられませんから。

考えること自体が苦とすると、それを放棄するかどうかはあおいておいて、そこから逃げるのが楽という感じですよね。

そうすると、楽という状態=考えないことで生きる、となり、これはこれで「楽」です。あえていえば「考えないこと」が常になるので、いちいちどうかを考えない。他人軸を否定しないのですが、「他人がこういったから」という判断は自分で考えないので超楽なわけです(笑)

問題はこれでうまくいく=とくに問題がないということ、なら話は早いですし、人類的な意味でもこういう自分で考えない作戦を立てるはずです。でもそうなっていないのは、むしろこうやって考えることを放棄すると単に騙されるとか、判断できない、知見となりづらいということがあるんじゃないかっていうことですね。

もちろん、考えたらすべて良いとか、考えないなら全て駄目みたいな話ではないです。

ここでは、考えるって多分疲れるし、しんどいので嫌われるのではないかなってことです。逆に考えるのが好きな人はどんどんそれをやると。まあなんでもそうですがよくあるパターンですよね。

メタ的な話も考えるのが好きでないと辛い

たまに「メタ」の話をします。メタとは、どこぞの会社名でなくて、一つ上のとか、より上位のという概念です。より客観視したといってもいいですが、やや異なりますかね。

例えば、僕は今ブログを書いていますが、「僕」と言わずに、「筆者」がというとややメタ的な印象です。さらに、「書き手である筆者」とすると、もしかして「共著者」がいたり、複数人で書いていることも示せます(実際はそんなことないですよ(笑))。さらにいえば、まるで自分ではないようにして、「ブログを書いている人」がいるとすると、誰だよ?となりますが、そうやって書いても「通る」わけですよね。

こうやってメタ的にすることで、選択や判断の余地、つまり含みですね、が入ることで、表現を増やすということが可能です。具体的なイメージでもそれはできるけど、余地を増やすというのはメタの面白さだと思います。

メタワールド的なものは小説でもある形式な気がします。物語を行き来したりとかですけど、ソフィーの世界という哲学小説はそういったメタ構造でなかなか面白いです。本は分厚いですが(笑)

フカヨミといってもいいですが、深く読むと誤読も多いですし、それが正解かどうかでなく考えをどう発展させたり、違う切り口とするかという感じですね。

メタ的なものは、エネルギーを使うので、現象Aに対してメタ化したものってなんだろうか?と考えるだけで、脳内エネルギーを使う気がします(笑)

それで、メタメタいってますが、こういうのを考えること自体が嫌でしょうがない、良くわからないという人は一定数いると思っていて、論理の世界でもなく、思考世界のパーツとか感覚の違いなのかなというところです。ずっとやっていると頭がおかしくなる気もします。

哲学っぽい話かもしれませんが、実はアイデア出しでもメタ化はめちゃくちゃ大事なので、このあたりうまく説明していってしっくり来るところは目指したいですね。

学生時代に考えたこと

実は学生時代から色々と考えていました。今でも学生時代から書いたブログを参照できるのですが、昔書いたことってどう扱うかというと、とくに扱ってないです(笑)

ただ昔書いたログみたいなのがあると、「考え方それほど変わってない」とか、かなり偏見があったとか、そういう成長?過程がわかるのが面白いわけです。

そんなレベルで遊んでいる感じですね。

学生時代に考えたことで、ほぼその通りだったなというのは、考え方としてありますが、「考えたり実践したり」が足りないだけで、何か押し付ける人が多いということです。これはわりと色々な状況で言えます。要は我慢というか、口が先に出てしまって思考が足りてないってことですね。

我慢すればいいわけでもないですが、実践したことをそれこそある程度まとめないと血肉にならないってことです。シンプルな話ですが、出来ている人はやり続けるのでものすごく差がつくんですね。

ロボのように思考せず生きるのか

AIとかロボットとか話題が常にありますが、ロボット自体が考えるというとかなり怪しいというかあまりない世界です。なぜならロボットを人が扱う、サポートするという前提で作るからですね。

宿題が嫌だから宿題を答えてくれるロボがあるとします。嬉しい人はいそうですが、それだけ「馬鹿」になるので、そのロボットは闇取引(笑)されるだけで、表ではないでしょう。

世の中のルールを出し抜いてそこで突破するのは「悪賢い」という意味では評価できます。ただ「悪」なので、賢いって感じではないと。それが良い時もあるのですが、自分で考えるという力はつかないのでここでは賢くないんですね。

仮にこういう人が、宿題はロボにやらせて、他を考えたいのだ、なら「賢い」ですが、あまりこのパターンはない気がします。況やというところですが、そこでサボる人はそもそも考える前提の力が弱いだけということだからですね。

賢いならば、おそらく先に宿題を想定しておいて既に回答しておく、宿題すら出させないとかそういう感じですかね。伝わりますかね?

思考せずロボットとして生きる、思考なく誰かのやり方で生きる。まあ考えただけで蕁麻疹が出てきそうです。体調が悪くなります(笑)むしろ、カルト、ブラック企業などに相当するのはそうやって肉体を疲弊させる、思考を麻痺させるように言葉を浴びせ続ける。そうやって実質的には過度なストレスが生まれるのですが、これってまともじゃないですよね。

だからこそ、思考するには健康であり、かつご機嫌であり、ということが超重要です。これってロボットでなく人間の話です。

考えるを奪うというのを避ける

考えることを辞めるというのは、例えばスティーブ・ジョブズとかで、判断をしない、例えば同じ服装で、毎日それで服を選ぶなんてことをしない。なぜならそれでリソースを使わないから。

全然これはいいのですが、それくらい考えることがある人がやる話です。服を楽しみたい人には苦痛ですよね(笑)だからこれも何にリソースを、ここでは考えるリソースを割くかってことです。

逆に考えることをしないだけだと、単に全て何もメリハリがなく、淡々と生きる(笑)だけで、これは面白くないですよね。というか僕は面白くないって感じるだけですが。

考えるということが奪われるというか、させない仕事も、日常もそれがあるとまあストレスなのでそれを如何に避けていくか。

そうやって考える時間を取って考えると。それが僕の生き方なんだろうなとふと思ったわけです。

考えたら偉いとか、考えないと駄目だとかそんな単純な話ではないです。自分の中に入っていって考える方がいいかどうか。ならば考えて生きる道を、仮にそれがある程度辛いことがあっても、そっちがいいなと心から思いました。

言論の自由ってやつは軽く感じますが、めちゃくちゃ重いんですね。図書館の自由に関する宣言なんか見てみると痛感します。検閲に反対するんです。これが自由ですね。

そういう意味で図書館ってめちゃくちゃ大事なんですね。独裁者はまず知恵として、知識人や図書をなくしますから。時代が語ります。このあたり、かなり意識してもいいのかなと思います。

というわけで、考えていくことって楽しいよなあという話でした(笑)

記事を書いた人

シゴトクリエイター 大橋 弘宜
シゴトクリエイター 大橋 弘宜
ビジネスアイデアメディア「シゴクリ」運営者。まずアイデアを出すアイデアセッターであり、生まれてくるアイデアをビジネス化出来ないかを考え続け、手を動かすゼロイチ大好きアイデアマン。ビジネスアイデア相談やビジネス企画の実績多数あり。毎日生まれるアイデアから世のために貢献していくスタイルです。好きな言葉は三方良し。詳しい自己紹介仕事実績も合わせてご覧ください。お仕事メニューお問い合わせはお気軽にどうぞ。

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