遊ぶは創るでもある。遊び中に創る要素はかなり大きい。遊び自体を創ることで、楽しさが多分増す。

「遊ぶ」という言葉で世界を捉え直すと、全てが学びになるという感じがしてます。で、「作る」「創る」がそこに入ってくるというか。
世界を「遊び」で捉え直している人は、世界が「遊び」に見えるので、「遊んでいる」ので、とてもストレスフルか、または自分がやりやすい形に変換しているというか。だから、色々と「創る」のですね。創ることをしないと、自由度や裁量が生まれないからと言ってもいい。
そのあたりを少し書いてみます。
遊ぶの中につくるという行為があるのかも
遊びは、世界への介入とそのフィードバックみたいなことを前書きました。これだけだとなんか偉そうですが、まあなんかやると反応がある、それが楽しいよね。それが遊びではないかということでした。
説明に使った絵がこちらです。

観察してもいいし、介入してもいいしというところです。
ところで、「創る」とは、ある材料から違うものをとか、または全く違うものをとか、または組み合わせといってもいいかなと。料理でカレーをつくるとしたら、じゃがいもや肉を炒めて、ルーを入れてって感じで仕上げますよね。
まさにつくるとは、何かを生み出すわけですが、この「遊び」に似ているなと。
原材料を、つまりじゃがいもをそのままでなく、切ったり炒めたりが、まさに世界の変化です。そういうと大げさですが、実際にじゃがいもをそのまま置いていても何も生まれない。肉も炒めて火を通さないとお腹を壊しますよね。あとルウを入れて変えないとカレーとしては食べられないですよね。肉野菜炒めにはなりそうですけどね。
変化とは、出来た料理そのものであり、それを味わうといってもいいと。
ということで、つくる=遊ぶ、でもあるんじゃないかと思ったわけです。
「遊び」で消費orつくるを選べるのが良い
遊ぶというときに、カラオケだ、テーマパークだという既存の施設へいき、遊ぶというのはまあ良いわけですよ。それがだめとは言わない。しかし、実際に細かいところでは、カラオケでどう遊ぶかは別ですよね。
例えば、カラオケでメドレーをしてみんなで回して歌っていく。当然カラオケをみんな歌いたいならいいのですが、歌いたくない付き合いできているなら嫌ですよね。という意味でも社会性として、遊びたいかどうか。そのカラオケ遊びが適切かどうかも見られるわけですね。
つまり、カラオケ→カラオケでの実際の遊びは別で、カラオケをしたい仲間でいくのと、カラオケをしたくないが付き合ってもいい仲間でいくのも違う。カラオケ遊びといっても色々あるわけです。
当たり前かもしれないのですが、そういうときに「カラオケ」自体は一つの入口でしかないと。例えば、遊びとはややずれるのですが「そこでご飯を食べるのが良い」というのもあるわけです。個室でわいわい気の置けない仲間と語り合うのは居酒屋だけではないですからね。それも遊びですよね。誰かが歌っているときに、人生の重たい話をしていくのもなんか良くないですか?(笑)
カラオケ自体を敵ということはなく、具体的な遊びは別に「つくる」必要がある。そのつくりが甘いと「カラオケいって歌を選んで歌う」という作業みたいになる。これはまあ面白くないというか、飽きるわけですね。一回はいいけど、「あの人とカラオケへいくと、歌を聴かせられるだけで面白みがない」となる。
これは別にお酒を飲む、ご飯を食べるという「遊び」でも、「あの人は毎回同じ話しかしない」とかになるとまあ面白くないのではないかと。僕は少なくともいやなので行かないですよ(笑)
そうやって、施設なり、エンタメスポットというのが遊びを保証してくれそうですが、実は意外にないんですね。花のテーマパークみたいなものとか、動物園とかでもいいし、なんでもいい。そこへいけばなんとかなるはなくて。
象をみて楽しいかは別で、象を見て話したり、どう思うかとか、象をどのタイミングでみるか。好きな動物はいるか。デートではないですが、そうやって考えたり巡らすのが面白いわけです。と僕は考えています。少なくとも同じように動物園にいっても楽しみ方は全然違うわけですよ。というか違うから「遊び」なんですね。同じようであってもですね。観察の仕方も違いますし。
消費とは、既にあるコンテンツを味わうというか、利用する感じです。動物園がそれに近い。しかし、動物園でどう楽しむかということは、自分でつくる必要がある。誰もが最初からできないので、まずは動物園へいったり、または近い体験をする必要がある。少なくとも水族館なり、美術館なり、コンテンツは違うのですが、一定の時間を使い、鑑賞をしたり、体験をしたり、そして理解を深めたり、は似ていると僕は思ってます。
世の中に消費だけならつまらなくて、つくる、まさに遊びですが要素があるから面白いのではないかなって話です。
遊んでいる人は作っているともいえる
写真、イラスト、マンガ、動画、映像、ゲームなんでもいいですが、つくる人は遊んでいるわけです。当然そのコンテンツをつくるまでは時間がかかるので、遊んでいるから楽とかではなく、遊びとしてその嗜好品をつくるという感じが近い。
故にそのコンテンツを利用する人は、嗜好品に浸るわけですが、その浸るだけをやって真の意味で作らないと、やはり面白さってなかなか薄れてしまうと。例えば、マンガを読む人が料理をつくることで、バランスを取るみたいな感じです。別にマンガとか料理とかは何でも良くて、どういうレベルでも規模でも、時間でも関係なくですね。
100:0で、消費する側です!ということはないということですし、クリエイターも0:100でつくるだけでマンガを読むことはないとかもなさそうかなと。多分ですけどね。
遊んでいるとは、つくるがはみ出すというか、染み出すという感じが近いとも言えるというか。だから、遊んでいるとは結構良い状態なんですね。作っていると言わなくてもいいというか、遊んでいるから、つくるしできるし、生まれるというか。
仕事で遊べるし、世界を遊びに変換することはできるはず
一つの提案として、つまらないことがあったとして例えば仕事が面白くないとします。そうしたら「仕事で遊ぶ」といってみる。ではこの時何が起きるか?
- 仕事でどう遊べるのか?
- 楽しめる、工夫できる要素は何か?
- 自分で裁量がある部分は何か?本当にないのか?
- 学んだり、成長できることはないのだろうか?
- 1日やると何がえられそうか?
みたいなことを考えて、自分がまさに「楽しい」というように、遊びを入れるしかないのですね。当然全ての仕事にこれが適用できるとは思ってないです。
偏見として、エンタメコンテンツは遊びで作れるみたいなものでなく、それは仕事なわけです。
例えば、ゲームとして、1日将棋をやっている人が、1日10回勝たないといけないとすると、それはそれでつまらなくなるわけです。または好んで将棋動画を見ていたのが、2時間見ないといけないとすると、2時間の義務となり、楽しめないわけです。つまらなくなるってことですね。
そうやってゲーム=遊び=面白いというのも、偏見なわけです。つまり、やり方を工夫すれば面白くなくすこともできる。
だからこそ、逆に、つまらないと思っていることが仮に仕事とかだとしたら、それを面白くすることは多分できるんですね。上の例でいえば、2時間動画を見るとか、10回勝つみたいなノルマではないものを設定すればいいんですね。
例えば、お客さんと話していて面白い言葉遣いはないか?(=言葉の遊び)とできませんか。例えば、資料の作り方で変わったデザインがないか?(=資料デザインやUI/UXの理解を深めるトレーニング)となりませんか?
こういったことは如何様にでもできるし作れるわけです。
会社に行くのも、対人トレーニングの練習になる。知らない人と話したり、他愛もない話をするということが練習になる。それでいいし、それがいいというか。
もちろんそこに仕事だからこうしなきゃいけないです、というのはあるとしても、それだけではないはずで。そこの裁量や自由度や遊びをどう入れていくかがポイントな無じゃないかと思った次第なわけです。
そして、こういった理解や見え方、世界の捉え方を誰かが勝手に、親切の押し売り(笑)みたいになるので教えてくれることはないんですね。だから、体験して理解して、考えていくしかない。この見方も僕が勝手に見ているだけであって、誰かに言われたわけではない。考察をどんどん生み出して売れ!と言われたらとっくに辞めているし、やらないんですね。これも面白いですね。
良く言われるのは仕事自体は好悪というか、好き嫌いとかではないんですね。それをどう感じるかの人次第だと。僕は単純作業や同じ繰り返しは苦手なのですが、そうではない人もいる。それだけです。そうやっていくと、自分が面白いと思えるようにしていくことは、わりと自分の人生を、ウェルビーイングとかですね、高めることにもなるし、巡り巡って良いプレイ?をすることで社会にも還元できる、ソーシャルリターンになるということになると。
カタカナでいえば、自己の遊び度を高めることで、ウェルビーイングを高め、ソーシャルリターンを高めるみたいな。何言っているか分からないですけどね(笑)
おわりに
一ついえることは、面白くない、つまらないという時は、自分がそう思っていることを否定しなくてもいいんですね。そう感じたのは確かだから。
でも、それは感情の問題かもしれない。他にできることはないだろうか?を探ってみる。それをある程度やって駄目ならもう去りましょう。限界だからです。
でも、そこまでのことって全くないわけではないのですが、多くはレアケースです。実は改善できたりもする。当然絶対ではないですよ。そういう試みや取り組みが大事ってことですね。
ぱっと見楽そうも、実はめちゃくちゃ水面下でやっていたりする一方で、めちゃくちゃ大変そうも実は全然やれてないから大変だったりということもあります。前者は見方を楽そうに見ているだけですが、後者は実はやれてないだけなのでやりましょうとかもある。分からないことだらけですね。
遊びはつくること、と捉えると、どんどん遊ぼうとはどんどん作ろう!ということでもある。作っていってできるならだしてみる。出さなくてもいいですけど。つくるを楽しんでいくと遊び続けることになるんじゃないかなと。
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