お金との付き合い方から生き方を考える話

以前、儲けると稼ぐの違いという記事を書きました。

この記事の結論は、言葉の定義はそこまで気にせず、そもそも仕事なりビジネスなりでやることって人のためになることだからこそ、結果的にお金が返ってくるという結論でした。というのは今も変わらないのですが、これってブレやすい話です。

資本主義経済を否定や批判をして次の突破口を描けるかというところで大きく出ると、結構辛いものもありそうです。では、シフトダウンとしてギアを抑えてやれるかどうか。この減少時代にどうしていくかってまあ誰も答えはないんですね。

とはいえ、少なくともこのままでいいやとか、誰かが考えてくれるでしょとか、意欲的に考えてなにかやらないのは怠惰ではないかとか考えつつあります(笑)

哲学っぽくなるかもしれませんが、お金を稼ぐことあたりからどう生きていくか考えてみましょう。

ただ稼ぎたい、儲けたい人の話

そういう方がいるんですね。ギラギラしていいじゃないかというわけでなく(笑)とにかくやりたいことがあるからお金が欲しいという話です。僕じゃないですよ(笑)

その方の主張は端的にいえばこうです。「自分がやりたいことがある。それはお金がかかる。そのお金を早く集めたい」

分からないでもないのですが、まずツッコミとして、そのやりたいことが社会、つまり誰かのためにならないなら、完全に自分のやりたいことで完結します。

つまり、山を買いたいとかってあるとしてこれは誰のためにでもなく、自分で小屋を立ててDIY(ちなみに土地に建造物を立てられるかって法律で規程があるかもなので、出来るかどうかは調べてみてください)したいんだとか。ありそうですけど、そのためにお金が欲しいのだと。

これも分かるんですけど、問題はそのために、自分で稼いでとか働いて得たお金でならまあ「変わった趣味だよね」で終わるのでしょうが、そのお金を誰かから集める場合です。

分かりやすいのがクラウドファンディングですよね。これお金を集められるツールと思っちゃうと色々ミスリードですね。そうでなく、あくまでその人のやることを応援したい=共感があって知っている人でもそこでやっと「それならお金を出してもいいか」となるわけです。そんな甘いものではないってそれだけですね。

上の方は、共感が1mmもないように感じられました(笑)実際にそのようなプロジェクトは、批判されるならまだしも、そもそもなんでやるのかが言語化されない。これってアートに近いです。表現として「俺はこれをやるのだ」というとき、アートならまあそういう表現自体の理由や意味なんて必要ないというか、理屈ではないのがアートです。クライアントの依頼で描きましたはアーティストがやったとしてもそれはビジネスであり仕事です。アート作品はその作品への働きかけが、衝動であったり、計算していてもそれは作品のためであるといえそうです。というか僕はそう考えているだけってことなんですけどね。

共感とはなにか。感動でもいいし、心が動くといってもいい。そういうことが掲げるものになければ人は来ない、集まらない、お金は当然集まらないだけです。

長くなりましたが、そういうお金が欲しいです!という人にお金を出す人は物好きですが、まあいなくないかもしれませんが、レアでしょう。僕はあっても出さないわけですが、まあそういう人が多いでしょう。

この話はどこか遠い話ならいいのですが、意外にやっちゃいがちなことです。自分が困っている、人は助けるべきだ、そうしないのは社会が悪い。まあ本当に教育や格差みたいなものは社会で是正したほうがいいし、そうしていくことがグッドだと思いますし、そういう社会にしていきたいですね。今回はそういう社会的にどうということでなく、個人のやりたいことは個人がやると、それはいいけれど、共感なきところではきついというか難しいという話でした。

ただ、これがですね、プロセスエコノミーというか、自分の絵の描いているところを見てーというような枠組みで考えれば全く違ってきます。実際はそういう見せ方を変えればいいだけかもしれないのですが、こういう見せることでの価値があるとしても、その価値を分かるファンや読者やユーザーがついていなければこれも絵に描いた餅ですよね。つまり、どこまで実践して地味にやっているかが問われます。このあたり信頼という話になってきて、その人が問われるわけですね。プロセスエコノミー=オンラインサロンみたいなことでもないので、それは含まれるとしても、けんすうさんの記事が分かりやすいので気になる人は読んでみてください。「プロセス・エコノミー」が来そうな予感です

あえていえば、この方がプロセスエコノミー的な見せ方をできそうかは未知数ですが、多分きついのだろうと感じました。そもそも、自分主体の何かって人とのコミュニケーションが入ってないので、そこがメタ認知できているかということですね。つまり、人やユーザーに対して感心が向いてないのに自分がやりたいことだけを主張しても、それって「じゃあ勝手にやれば」となってしまう。このシンプルな点が分かっていてやるなら確信犯ですし、分からないなら学んだ上でどうできるかでしょうか。

お金を得て何に使うのか?

漁師とコンサルという話があります。これは寓話なのか誰が作ったかは僕も分かっていません。それは踏まえた上で、この話は、コンサルで成功した人が漁師向かって色々話しかける話です。

この話のオチはシンプルで、コンサルは追い求める時間の自由、のんびりして海を眺める自由、景色=夕日の美しさとか、鳥、魚と遊ぶとか、そういうことを最終的には求めています。しかし、漁師が既にそれを実現しているのに、船を拡大して取れる魚を増やしたり、会社を作って従業員を雇ったり、グローバル企業(笑)にしてという話で、最終的にはそれで悠々自適な暮らしをしよういうのが滑稽だというのが僕の解釈です。

これはわりと色々な話にあって、効率化への危惧とかもあります。今でも覚えているのは、水を畑にやるのに井戸からわざわざバケツをなげて引っ張るのでなく、滑車をつけてあげれば楽みたいな話があって。でも、それをやるとキリがない=効率化の際限がないってことでしょう、のでやらないのだと。

なにそれって思う方もいるかもしれません。でも、僕らはIT時代に生きたといっていいでしょう。とくにミレニアル世代くらいはがしっと分かっていて、IT入ってきて便利になったんだろうけど、わりとそれが普通にあるし、その前にバブル世代以前くらいとはかなり印象が違うと。ITをやれば3倍効率化できると、じゃあ8時間労働は3時間労働くらいになりますよね?というのはそうではない。他もITを入れるからみんな同じように動くし働かないと負けてしまうからですね(笑)

というわけで、残ったのはITを酷使して働き続ける仕組みでしたとさというのはわりと言い得て妙ですね。

僕はだからといって、共産主義や社会主義のように計画経済だーとかそういうことをしたいわけでもないです。というか失敗しているのだけど、じゃあ資本主義の富の分配はどうよって、まあ先進国にいていっているだけともなりそうですが、かなりツッコミどころがあるわけですね。

長くなりましたが、そういう感覚でいるとき、というか今の話がある程度分からないと「お金で何する?」ってのが見えないかもですが、そもそもお金で何するんですか?って聞きたい。先の人の話では、なにかすることがあるからお金が欲しいんですね。ではそのすることが、仮に家が欲しいとするじゃないですか。家ってまあ高いですよね(笑)そういうのをいきなり得られないなら自分で作るという選択肢はバカバカしくはないわけです。だから建築を勉強するとか、人の家を作るの手伝うとか、最初は犬小屋からでもいい。というのを「愚か」と思わずやれるかどうかなんじゃないか、それ次第じゃないかとすら最近は僕は考えています。

お金がほしいのではない。家が欲しいのだと。モノですよね。あとはサービスとか目に見えないもの。つまり学びがほしいとか、教養がほしい、知性とか(笑)あとはユーモア、それこそ足が速くなりたいとか、サッカー選手になりたいとか。これってお金で買えるのかどうか。まあプロになるにはエグいくらいのことやらないと駄目ですけど、それも楽しみがないなら苦行ですから、どう向き合えるかですよね。

お金で出来ること結構限られます。友達づくりの絵本があったような気がしますが(笑)確かにお金をあげるから友達になって!は明らかにやばいですよね。お金ではない。友達とはそういうものではない。それはレンタルフレンドですね。お金が欲しい「友達」はそれで友達になるんでしょうけど、つまらないでしょうね、どちらも。レンタルなんとかの構造がこれだけでも見えてきますよね。

そうやって、お金ではない、金銭価値が保留されること、その関係性がどこにあるか。これがないと本当に「お金」がないと「何もできない」と思いがちです。だから、「お金があると何でも出来る」とすら思う。お金で出来ることは限られるのにも関わらずです。

僕が考えることや思考みたいなのをもしかしたら欲しい、ユーモアや笑いのセンスが欲しいって人がいるかもしれません(笑)そういう人はお金で買えるわけではない。まず自分で学んだりが必要ですし、お金ってそのために最低限の補足って感じですね。お金の使い方まで焦点がいかないので、お金があればいけると思ってしまうのは愚的でさえと思っています。

それこそが資本主義の罠かなと思ったり。お金を確かに価値として認めやすい社会ですが、それだけでいいのか?というのは大きな反省という感じがします。最近読んでる鎌倉投信の方の本もそこが大きな主張かと思います。つまり、お金を得られればいいというある種金融業の最強のロジックこそが崩れているといっていい。それは金融だけでなくて、先の方でいえば「お金が欲しい」前に、自分でお金でないことで何をやってどうしたいか。どういう人を巻き込めるのか。あと巻き込んでいるか。それがないと、金銭的に裕福な投資家も誰も動かないのだろうというわけです。まして裕福ではないなら、ファンとして応援するのもありですがそこにもならないわけです。

お金を得たい人は多い。それは貰えるなら嬉しいから。でも、それをどう使いたいか。老後のためにお金を貯めるって全否定はないですけど、その老後の前に今、またはそのまま老いた時にどう生きているかがほぼないのにというのは初心な感じがします。もちろん、何をしていいか分からないからお金を貯めておくは「あり」ですけど、誰もがそうなっているとは思わないので、もっと考えてお金貯める前に、お金をかけずにやれることをやると、そういう「お金を貯めなきゃ」呪縛からは解放されるんじゃないかなと感じました。

VUCAなんて前にとっくに正解がない時代になってる

VUCAという言葉が出てきたのは面白いですけど、一方でそれ以前にもっとダイレクトにこれこのままいかんだろうねーみたいなあのがあったわけです。というかそういう流れに敏感な人はすぐに何かをやっているし仕掛けたと。

僕なら以前色々なワークショップをやって働き方を考えたんですけど、周りが変わっていたかはおいておいて、なんかとてもいいじゃんと。自分なりの環境を踏まえてやり方が色々あって、それで生きているってエモいなあと。僕もその一人だと思っていますが(笑)一人ひとりの実践がいいなあと。楽しそうにまあ楽ではない部分はあるんでしょうけど、人生を生きているって感じがすると。これは理屈でもない、数値でもない、その人の充実感といっていい。それは誰とも比較できないと。

そういうVUCA感があって色々やっている人なら、何も普通こそ正解がないのですけど、正解があるに慣れるとまあ「正解がない」のが辛いこと辛いこと(笑)

【モリテツヤ・汽水空港1】鳥取に移住し「半農半本屋」。坂口恭平ら作家がイベントに指名という記事が面白く、ここで取り上げられているモリさんの生き方は著者曰くかなり人によって見方が割れるらしい。

僕はそういう生き方もあるだろうなと思ったり、もっとも僕がやるわけではないが、著者がある人から言われたというところで負け組だという言葉がある。ここでいう負け組とは、会社であったり勤めたり、そういうレールから外れてというところだろう。では勝ち組とは?というと、ここでは批判している「お金だけを考える」というところになる。

つまり、お金を得るだけでいい、お金のことを考えるだけでいいのだというのはかなりきつい話がある。だからこそそもそもそうならないように「これはまずいな」という人からどんどん変化しているのだと僕は考えている。という感覚で見るならば、上のモリさんは面白い。そしてそれ以上でも以下でもないと思った。

フラットにみれば人はお金が得られないことで死ぬのではないかというのが怖いのだと思う。失業者となって勤めていたらお金が入ってくるのにそれがないので「口座からお金がどんどん減っていく」恐怖を体験したことがある人はどれくらいいるかとか、様々なお金にまつわる経験というのが人によって様々あるだろう。ここで思考停止とは、働いてお金を得ることが普通という感覚そのものにある。別に詐欺や犯罪をせよとかではなくて(笑)他にはないだろうか、今のシステムや仕組みが間違っているのではないか?こういう批判的な考えはまあ支配的な国やシステムではまっさきに潰されるものだろう(笑)だからこそ、そうならないようにするシステムをさらに考える。なんとも質が悪いと僕は思う。

そもそも会社勤めなんてかなりわずかな間で「洗脳」されたかもしれない、考え方だ。もっと疑ってもいいと思う。とはいえ、「荒野へ」(確かInto the Wild)みたいなお金を否定して自給自足で失敗して死ぬとかはやりすぎだと思うけれど、人は色々な考えがあるので、ちょっとした違いが気になって割り切れないのもある。例えば矛盾なんて僕もしまくってるけど、それがどこまで受け入れられるかは結構人次第だからだ。

上の記事で結論があるわけではないし、まあ簡単ではないというのが現実。一方で取り組みがうまくいくのも結果的にその人次第だからこそ、例えば田舎で暮らしてそれこそ半農半Xが全部いいとはなりづらいはずだろう。つまり今のサラリーマンはどうかはおいておいて、支配的な考え方として半農半Xがあれば、それを僕は批判するのだと思う。よって、組織を作り安定化するほうがいのでは?という動きをすると思う(笑)結局それは自分が既存のシステムに巻き込まれすぎるのはどうもなーというだけなんだと思う。あまり理由はないので、参考にはならないと思う。

ところで勝ち負けってなんだろう?小学生はすぐに競争をして勝ち負けを作る天才だ(笑)そんなノリで、年収がXXX万円は勝ち組とかくだらないことを言っているわけで、それを「くだらないね」で終わればいいし、くだらないねー面白いねー?とはならないかもしれないがそのノリで言っていればいい。けれど、そのノリが普通に受け入れられて価値観となるとちょっと話が違ってくる。「俺はXXX万円の年収だから勝ち組だよ、一緒にならない?」なんて恐ろしいセリフだが、そういうことを言っている人も結構いるかもしれないが、あまり友達にはなりたくないタイプだと思う。もちろん逆に「負け組」と揶揄して自虐感がありすぎるのもどうかと思う(笑)

結局そんな勝ち負けはないので、幻想として、ではそうなると次に何で人を見るのか?となるんだと思う。そこで思考停止して、人の見方とか、考え方なんてなくて、「えっと、わかんない」なんてなる人も意外にいるんじゃないかなと。ハシゴを外された状態で、考えられないか、色々と失ってしまったと。例えば楽しさで見てみたらいい。けど、その「楽しい」かどうかを誰かが言っていたから、僕が言っていたから正しいわけがない(笑)自分で考えてどうかでしかないからだ。

心の鎧を脱げるかどうか

僕の言葉では自分と向き合うかどうかくらいなんだけど、そういう感覚で居られる人が実は少ない気がしている。それくらい外野、つまり外の言葉でぐらついてしまって、また自分自体への興味関心を掘り起こせないというところもある。

僕は純粋に人への興味レベルが低いために、自分への興味も低くなるということになっているんじゃないかと考えている。つまり、純粋に人への興味ということが弱いという感じだ。

昔、友人が言っていた心の鎧の話がある。この話は要するに自分の内なる声を聞こうってことで、それを鎧で補強しているとやべーことになるかもよってことなんですね。やべーとは、自分がなにか分からんみたいなことですね(笑)そうすると、色々軸っぽいものがないので大変ということです。自分がどのように「はたらきたい」のか、わからなくなってきた方へという記事もほぼ同じことを言っているように解釈しました。こちらの記事では内側の声と外側の声というところで比較されてますね。

実際に僕が信頼する人は「じゃあ大橋君はどうしたいの?」を問いかけてくる人でした。今もそうですね。僕がどうしたいかをじっくり聞けない人、これは僕が他人の話を聞く場合は逆ですけど、結構しんどいわけです。その内なる声、心の声はどうせよといってるのか?鎧で保護しちゃうと当然聞こえなくなるんですよね。

鎧があるないみたいな二択は本質ではないです。そういうことを僕が言っているわけでもないです。まずメタ認知として鎧を意識しているかどうか。そして意識できるならちょっと内なる心の声も聞いてあげてくださいと。そうすることで自己対話が出来てもっといい感じになる、つまり受け入れられるんですね。これをなんというか分からないのですが、おそらくニュートラルであったり、ゾーンに入ったりとかそういう感じに近いと思います。かなりスピリチュアルというか精神性が高いかもしれないですね、人によっては。まあ別に何かに支配されるとかでなく、自分と向き合う時間って超大事ですから、やりすぎってあまりないかもですけど、閉じすぎもまあどうかってことですね。

鎧を脱いだからハッピーになれますみたいな宗教でもないです(笑)当然脱ぐ人というか、脱いだ自分を見せるというのはやったことない人は超怖いはずです。例えば人に気を遣って、どちらかといえば遣いすぎて、言葉を自分で言いたいことを全部伏せてきた人っているんですよね。その人が「私はこう思う」っていうのは革命に近いはずです。その時、革命を起こせってことではなくて、まあそれもありだけど、ちょっと入れてみる。言い方が人それぞれですよね、性格があるので。例えば「気分を悪くしたらごめんなさいね。私はこう思うんですよ、なぜなら」とか言ったらいい感じに伝わるかもしれないですよね。例えばで絶対的な正解でもないですよ(笑)

この心の鎧とか内なる話って、やってない人はまあ僕からすればつまらないです。つまらないとは、何に従ってるんだろうというところで、その人らしさが見えないからです。僕はその人らしさが見える人が好きなだけで、そういう人が色々とやるのを見たり応援したりするのが好きってことですね。僕もそのように生きていくというだけの話かもしれません。

どう生きたいかを説明すら必要ない

僕はこのように生きるのだ!と名言しないといけないなんてこともないです。そもそも意識であればそのままやればいいので、誰かに説明する意味がない。もっとも誰かと生きたいなら別です(笑)だから大抵孤独ではないからコミュニケーションとしてそこが求められますよね。

ただそんな難しい話でもないと。とはいえ、鎧でガチガチの人とか、そういう勝ち負けでしか見ない人はきついので、避けていくほうが無難ですよね。自分を守るというのも考えたほうがいいと。

その上で、僕は私はこのように生きるということって素敵なことなんですよね。なぜなら人って神はおいておいて(笑)基本生きる意味なんてないですから。これは刹那的に生きる人生が消化であるみたいなことではなく、自分で意味を見出すしかないと。生理的な繁殖とか、そういう生物学的なものはおいておいて、とくにお前はこれをやれってことにはなってない。少なくとも日本においては。まあ環境次第なんですけどね。

そうやって考えるととても「自由」なように感じます。その感覚がある人がお金がないから出来ないとかってかなり無理があるロジックですから、そもそも自由ではないと。だからこそ、色々な考えやルールに縛られているんですね。縛ろうとしてなくてもそう考えている。

実はもっと自由であり、気づかないときついですけど、実際は誰もあなたを縛ってないし、そうしようとも思ってなかった。まあ色々あるんですけど実際は、とはいえ基本はそうじゃないかなと考えています。

ここまで考えると明確なのは、あなたがあなたらしく生きること、心の声を聞いてそれを発動してみることが、多分幸せだったり、なんかあなたらしい生き方なんだろうなあと思ったりします。というか、僕はそういう人と一緒に生きたいしそういう人が周りにいるようにしています。それもささやかな僕の戦略かもしれませんね。

何かヒントになれば幸いです(笑)

筆者プロフィール

シゴトクリエイター 大橋 弘宜
シゴトクリエイター 大橋 弘宜
「シゴクリ」運営者。アイデアの力でお客様に貢献するゼロイチ大好きアイデアマン。ビジネスアイデア相談実績等は200超を超える。好きな言葉は三方良し。詳しい自己紹介仕事実績も合わせてご覧ください。お仕事メニューお問い合わせはお気軽にどうぞ。

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