何かをさせるという意識が崩壊をもたらす

とくに依頼をするとか、仕事をお願いするとかが分かりやすいでしょうか。例えば、「この仕事は誰かにやらせておけばいい」みたいな、やや見下す(本人が自覚しないケースも多い)イメージです。

結論的にこれをやると、やられる側は「やらせてもらっている下僕」みたいになりますし、当然それに感謝というよりも「そういうものだ」みたいな謎の刷り込みとなります。健全であるとは、ここに対話や対等な関係性があることですが、資本主義的にいってお金という首根っこを掴まれていたら何も言えんみたいなのが大きく影響していそうです。

その二者の関係生がボロボロで終わればまだいいのですが、社会とは結局は集団性です。よって、その連鎖はどんどん広がります。仮にこれが良くないと思えばそこで鎮圧される(笑)わけですが、実は「やらせておけばいい」と考える人は他にも同じような考えの人が集まり強固になります。逆もまた受けである「そうなっているのだ」と考える人がいれば成り立ちますよね?

一つの抜け道として「誰かにはさせる」が「そうでないところではそう振る舞わない」みたいなある種のサイコパスというか、二重人格(人は多層や多様な人格があって然るべきですけど、ここでは悪い意味で)的な振る舞いになります。つまり、振る舞いを大きく変えるということです。これをするとどうなるか?まあ疲れますし、下手をすれば壊れます。メンタルが壊れるとは、正常な暮らしが出来ないといっていいわけです。正常とはピンとはった糸のような何かでなく、調整やバランスが取れて動けるみたいなことです。バランスと考えていい。それがなくなって、誰かにはさせておけばいい、しかし別の人には「お願いをする」。ある種の中間管理職的といいますか、権威に弱く上には従うが、弱いものには強い(笑)という典型的な立ち回りといえるでしょう。

この手の人がどうなるかは、先に書いたように壊れるか、維持できないのですが、あくどいことを考えればですけど、受けとなる奴隷というと言葉が強いですけど見つけては鴨にしてということを繰り返します。ある種ウィルスといってもいい感じですよね。

何かをさせておけばいいではなく

では退避としてはどうかというと、ここを読んでいる人はそういう人たちではないでしょう。むしろ、仮にそういう立場でもどうすればいいかを考えられる人達だと思っています。

例えば、させておけばいいではなく、対話がまずあります。対話とは、わりと簡単に言えますが実は結構難しいです。

対話ファシリテーションという本がありますが、それでは「なぜ」と問わずに「相手の考えを導き出す」ことを示しています。

させている相手に対して、なんでこうなったんでしょうね?と客観的、冷静に問える、そしてその応答がある、またはフラットに話して問題を考えられるというのは「夢」でなく、ふつうにあり得ます。その時の状態は対話といえます。これには心理的安全という、何を言っても(罵倒とかではなく(笑))、意見として述べても大丈夫だということですね。そういう状態がなければまず始まりません。

これはもっといえば、信頼です。相手を信頼していたり、どういうことをやるといいか、喜んでくれたり、怒られるとかも含めてある程度、コミュニケーションが出来て見えているともいえます。

ここで当たり前ですが、「誰かにさせておけばいい」なんていうことを言う人は、その人に対して「対話」的な態度を取るかということです。取らないですよね(笑)ある種モノ扱いですから。寂しいですが、そうなります。

逆に対話的な態度ということをとっている人はこれは起こり得ないといえるし、杞憂ともなりえます。まあ対話的態度を取っているから絶対安心みたいなことではもちろんなく、関係性が変われば変わることもありますから。

上・下関係なく対話できるかどうか

これは自分が上で下の人にどうかって話ではないんです。

つまり、あなたよりも社会的に偉い人だとか、地位が上とか、何か著名な人だろうがなんだろうが、その態度を取る必要性があります。これは、シビアなことではないんです。

なぜなら、対話をしているときに、相手の立場って考えてもそれに迎合することはないですから。1人の人として接する。その態度って変えられないし、変わらない。で、理想とはいえ、コレに対して偏見とか思い込みとかバイアスがあって態度が変わるのかなと。格好が汚ければちょっとなーとかなりますよね。そんなものです。

その時も、出来る限り、無理せずですけど、対話をすると。というのと、ここでいう上下関係なくというのはほぼ一緒です。

だから、下に対してさせている人が、上に媚びへつらうという人がいたとして、その持続性って怪しいんですね。対話的ではないので、まあ見透かされていると。なぜそれができるかは、地位、権力、お金とかなんかのタメでしょう。純粋な欲もあるけど、それならば強欲ということにもなりえる(笑)それだけですね。

なので、対話とはどちらの方向にも必要で、それをやっていないと、使い分けが厳しくて崩壊するっていうのが主旨となります。

つぎはぎのごまかしは本質ではない

本質思考というのがあるとすると、こういうとき表面のつぎはぎでごまかすことを嫌います。理想論になりがちですが、対話って理想ではなくて、出来ることですからね。それをどう日常に入れていくかどうかとなります。

それで対話の可能性=それで全てが変わるとかよくなるとか、バラ色ではないんですけど、少なくとも人間らしい何かというのがあるとすると、それはある種の運動となります。

自分が対話がある社会の方が良いと思ったらそれを支持してもらって、そういう振る舞いをしたり、時には広めたりがいいのではないかと。そう思わないならそうしなければいいと。これも対話がいいか悪いかだけの対立ではないですから、対話が不要なケースもありますから。

ただ、この人と人との関係において対話が不要ってめちゃくちゃ寂しいなと。感覚的なことですけど、まあ切ないというか、なんか人間扱いされてないってことなんですよね。

なのでそういう方とか人はまあシャットダウンするわけですし、それって言動から分かるのでバレバレなんですよね。僕自身もそういってごまかすこともできる(笑)のですが、そんな策を講じてかますほどの罠を張ってもなにも得られないので、面倒だなと。

このある種の面倒臭さ、つまり対話をしていってそこでやったほうがいいじゃんみたいなものを感じる人は一定数いるのかなと。それでシンプルにまあなるべく相手を傷つけずにフラットに行くということを練習していって今のようになっていったのかなと僕は考えています。

逆にいえば、上に弱く下に強い人はそれがルールやある種のマインドセットとしてハックしているともいえます。それによれば人をないがしろにしてまあ相当嫌われるわけですが、一部の上の人には気に入られるのでしょう(笑)それが快感になるのかもしれませんが、そういう原理的な構造って人という点では同じなんですよね。でもまあ苦しいというか、それで得られるのが、権威、名誉、お金、権力などですから、そのリターンとしてそれが見合っているんでしょう。僕は見合わないというか、寂しいと思うので選んでないし、選ばないともいえます。

そういうのこそが生き方や信条とも言えます。

もちろん、この対話かそうではないか、二択ってことではなく、一つ取り上げるとすると、「させておけばいい」と使役する側の意識から色々言えるぞということでした。

筆者プロフィール

シゴトクリエイター 大橋 弘宜
シゴトクリエイター 大橋 弘宜
「シゴクリ」運営者。アイデアの力でお客様に貢献するゼロイチ大好きアイデアマン。ビジネスアイデア相談実績等は200超を超える。好きな言葉は三方良し。詳しい自己紹介仕事実績も合わせてご覧ください。お仕事メニューお問い合わせはお気軽にどうぞ。

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