作業っぽい仕事と仕事っぽい作業

同じような、繰り返しのような、一個ずつは小さい細かいことみたいなものは作業になる。とはいえ、作業が悪というわけでもなく、その蓄積があるから成り立つ仕事、ビジネスとなる。

つまり切り取り方で、どこに目線と範囲を入れるかでしかないと。

仮説として、作業を仕事にするにはアイデアがいるのではないか。そして仕事が作業的なのは「アイデア」がないからではないか。つまり、この2要素を結び潤滑剤または調味料や原材料が「アイデア」ではないかというところを考えてみたい。

作業がアイデアで仕事になる

そう思っている。なんでだろうかを考える。

例えば、ある特定のタスクを10回こなすことが求められた。そうするときに、「これ面白くないっすね。3回で飽きる。じゃあ4回目以降面白くするにはどうすればいいか?」を考えるからではないか。

面白くするにはどうすればいいか。自分が飽きないのはどうすればいいか。これはふざけているとかでなく、何も考えずに感情を切ってマシーンと化して10回やるのもいい。でも、そういうのはどこかに無理が蓄積されて疲労も多くやはり微妙だ。あと、これは忍耐が問われる。そしてアイデアという意味ではなんだか「クリエイティブ」じゃないなと。つまり、創造性がないのだ。

タスクに創造性なんて要らないといえばそれで終わりなんだけど、そもそも全ての何かやる仕事っぽいもの、作業っぽいもの、問い合わせ対応、ブログを書く、アイデアを出す、企画を作る、ロゴを作成する、広報をする、なんでもいいのだけど、全て100%「面白い仕事」なんてことはない。

これは、僕が感じていてかつそう思っている。このブログも、「常に面白いです!」とかはない。同様に100%「作業としてやってて、つまんない」とかもない(笑)つまり、グラデーションであり、バランスであり、かつ、それらは変化する。あるときは面白さでいけるし、あるときはノリでいけるし、あるときは変化を加えたからいけるしみたいなことだ。

一方でこれらの何かしらの行為は、全て解像度の問題であるが、分からないし見えない。つまり自分は見えるが、他の人は見えない。ブラックボックスであることも多い。だからこそ、着手する何かに対して真剣に向き合うことが求められる。

今目の前のやること、タスクは作業か仕事かは関係ない。タスクとして何かやるのであれば「ちょっと乗らないな。では、どうすれば面白くやれるか?」というアイデアとして「逆立ちしてやるといい」ならそれをやればいい。バカバカしいと思ってやらないほうが創造性がない。1μミリでもありえるなら「判断スイッチ」をシャットダウンし「逆立ちしてやったら意外にやる気出た」とうそぶくくらいが欲しい。本当にやるか、うそぶくが問題でなく、どうすればいいのだろうかを目の前の、そうあなたの目の前の、今ナウ、やること!をどうするかという話だ。

企画書作成は仕事なのか、作業なのか?

企画書の定義がいるが、仮に計画書で、自動的に定型の何かを入れる、だけで出来るなら「作業」に近いだろう。毎回同じことをスライドに入れるならこれも作業だろう。

一方で企画書の中身として、概念として何を企画するか、アイデアはなにか、ターゲットに対してどうするかというのは「作業」ではないと考える。なぜかというと、毎回定型のテンプレート的な「思考スタイル」があったり癖があっても、それは毎回適用できないし、同じアウトプットではない。

社内向けの新規事業をやりたいけどまずは従業員がアイデアを出す環境を作れるかどうか。みたいな課題がある時、それに対して企画を考えるとする。誰にフォーカスを当てるかだけでも全く違う企画になる。社長や役員などなのか、既存事業に対して当てていくのか、それとも出島っぽくやるのか、それとも新卒など染まってない人向けなのか、今あるサークル活動をテコ入れするのか、外部パートナーなり何かを使うのかどうか。一個ずつそれぞれ違うアイデアと企画になっていく。

だから作業ではない。作業を下に見ておらず、水平の関係イメージでいくといいかも。左なら作業で、右なら仕事みたいな感じだ。

一方で「デザイン」するも作業っぽくやるなら、同じことを繰り返して、マクロなりアクションを使わない場合は作業だろう。マクロで一瞬でできるように考えるなら仕事っぽい。アイデアが、思考が入るからだ。

企画書のスライドを見栄えがいいようにするは「デザイン」なんだけど、それは装飾的デザインである。センス云々よりも、トレーニングが大きいと思うけど、それを機械的に色を塗るだけなら作業だろう。自分でそれを考えて意図を言える、そのイメージと合うなら仕事だろう。

何かを企てることは実はどこでも誰でもやっている。しかしそれを明文化したり、自分でなく人の何かとなると途端に減る。なんでだろうかと思うと、それはコミュニケーションもあるし、相手の立場や考慮することが多くなる。要は面倒くさいし手間がかかる。相手の事情なんて知らんがなで終わらせられるということであり、そうしないのは仕事だから(フィーをもらう、関係性があるなど)だろう。

ここでいいたいのは、何かしらイメージとして「企画」だから仕事であるとか、デザインだから仕事とか、そういう固定概念というところでないということ。

上の話に戻すと、目の前の何かが作業かどうか仕事かどうかって今のあなたが判断すること、または考えることであるので、人は関係ない。僕が作業みたいですねといっても、仕事ならばそれでいい。客観視できるのは「アイデア」があるかどうかというところだ。

よりタスクを簡単にできるように「アイデア」を考えて実践出来る人は、価値を上げている。楽しくやれるアイデアでもいい、しかも自分がでもいい、なぜならその時点で、アイデアと実践の段階でそうでない人を上回っているから。比較も意味がないが、それだけは確実だ。

そうできない人が、作業=仕事=タスク=我慢みたいなことになってしまうkらだ。ここまでひどくなくても、「楽しいこと」は仕事でなく趣味だという考えは別に良い。ただそれで押し付けてしまうのもどうかというところ。よって、「作業」に快楽を覚えてそれが出来る人はそれでいいし、「仕事」に苦痛を覚える人はそう「アイデア」がないほうが楽のはずだ。

作業と仕事の認識ミスマッチが生じる不幸

世の中はこのエラーというかミスマッチが溢れていると思う。

企画書作成が計画書を作り枚数が多い方がいいみたいな、地獄もありそうだ。お互い不幸であり、悲しいことになる。文字数は短くていいから簡単でしょというのも地獄だ。要約や骨子を簡単に言うのが力がいるからだ。コンセプトなんて普通は超短いわけで。キャッチコピーとかもそう。

これらの不幸は消えないと思う。

理由は簡単で、依頼する側はその苦労が分からないのと同時にそれをお金で買える=代替してもらえるからお金を出すという姿勢がある。もちろん、プロ依頼者が依頼というのもあるが、それはまあレアだろう。下請け構造みたいにもなりやすいかもしれない。

当然人はそれぞれのワールドで生きていて価値観も異なるので、習得出来る概念や理解、あとは性格とかもあるし、誰もが同じようではないという超重要なことがあるから、消えない。不幸にフォーカスをあてるか、幸福にあてるかってだけでもあるんだけど、良い風にしていくなら、このミスマッチ感を解消していくか、あったとしてもそれをケアしていく方向なんだろうけど、わりと難しめかも。

とはいえ、誰でも出来ることは価値が低くなる。作業性の高いタスクはやはり価値が低い。誰でも出来るので「あなた」に依頼しなくてもいいからだ。そうでないなら、価値が出る。ただ当然「逆立ちしながらご飯を食べられる」はなかなか高度な感じがするが、それって「必要としているか」という話になるだけ。ないなら、依頼とかはない。

アイデアとして、無重力状態に近いところでご飯を食べるみたいな訓練としては何かあるかもだが、そもそも無重力状態なので逆立ちしているとはいい難い。このあたりを真剣に考えて検証できるかどうかはわりと忍耐もあるし、面白いと心から思ってないと、他人に「何やってんの?」でわりと終わるので分かりやすい。

このミスマッチを埋めることはおいておいても、ある程度ミスやズレはあるものの、円滑にしていくということを考えるとどうなるか。

何か仕事をするとは、全ての定義をしていちいち確認していって、何か変わる度に確認となるので非常に大変だ。よって育てるとかもそうだけど、何かを一からまたやり直すとか、教え直すのは大変だからやりたがらない。だから既にコミュニケーションができる、知っている人とやりとりが楽となる。これはもう仕方がないことだろう。

これが既存客であるとか、知っている知り合いというアドバンテージなんだろう。本当これしかないと思う。いや他にあるかもしれないが。

コミュニケーションでケアしつつ、どうやっていくかということなんだろうなと僕は思う。でも、まあコミュニケーションでも無理ゲーはあるわけでそこはきちっと見極めると。そんなところが着地ですね。

アイデアをとりあえず入れていけばいいんじゃないか説

これは勝手にようこそ先輩でも書いたテーマでもある。つまり、自分が学んで面白いし学びを作れていくことで、それを仕事として対価を得つつ、さらに知り合いも学びも増えるイメージだ。

複利的なイメージなんだけど、実際に不動産や資産はお金という数値だから、そういう換算をあえてすれば、たとえばScrapboxのメモがどんどん増えること、その知見が貯まることは僕は同等だと思う。ブログ記事数でもいい。

当然その知見は「数値を+1するためにやっているわけでない」ことが前提。そういうのは、自分が面白いな、なんだこれという感覚トリガーにしてメモすればまず起こり得ない。他人の目を入れている時点でそれが発生するので、自己完結型の真空空間みたいなところを意識して「それでもやる?」というところが大事かもしれない。もちろん、やったことをドヤれるのも大事だし、モチベに適宜なりつつ、適当なところで折り合いをつけるのがいいかも。

何かをピックアップしたり調べるのは作業っぽいが、実はそれはこういう意味があるのではないかとか、面白い視点だなと気づいて何かのアイデアに活かすとか、そういうのが仕事っぽいということだろう。ぶっちゃけなんでもいえる。だから振られたものをわりと楽しんでやれると最強というのはこういう理由からだ。

くどいけれど、人の話をメモしてくださいねみたいな命令(笑)が腹が立つなら、学んでそれを生かして自分に使おうと思えば意外に集中してかつ学べると思う。そう思える何もないならきっとつまらないし、もたない。あと時間がかかる。とはいえ、こういう視点をインストールするのも時間がかかるのも事実。作業っぽいことをやらないと見えないのもある。けれど、それを下積みとしてどこまでやるか、そもそも下で積むことが終わるかどうかも分からないわけで、つまり決まったレールがないならば、その瞬間に、今ここで!すぐに!(笑)やらないと何も起こらない。つまり、作業にアイデアは入れられないということだ。

最もある日突然出来ることもある。それは当然、一度は、そして潜在的も、違う形で正拳突きをしていただけであって、握力がいきなり生まれることはない。のと同様で、作業がいきなりアイデアが生まれて仕事になって、そこからビジネスになって成功した!みたいなのは後付にしかならない。編集して良いところを見せすぎているということだ。常に作業に苛立ちや楽をしたいという欲望、形にならないストレス、忍耐、良い結果がでない。そういうのが実際で、晴れやかな見せる、見える部分ってやはり氷山の一角という認識でいたほうが多分健全な気がする。

とはいえこれは苦労をしろという言葉でもなく、認識を持ってしてさあやってみてどうなるかだけであると。

作業っぽい仕事が出来れば多分最強。仕事っぽい作業は結構大変。なぜなら見た目は仕事だから。実際は作業でそれは自動化したり、もっと効率化できたりするがそれが分からないとか、放棄してしまったり、そういう作業=苦痛をやるのが仕事だと超辛い。が、多くあるのではないかと思ったりする。もちろん、全てのことが自動化できないし、人力もいる。ただ考えることをやめると、、、まあそこで詰むという感じがした。

見た目は関係ない。自分がどう感じたか、考えたかどうか。それで突っ走れない人もいるだろうけど、突っ走ることがいいとか悪いとかでなく、まず自然に=自分が思ったことを、そのまま真空空間に入れることを超おすすめしたい。これが出来る人や環境を持っている人はまあ機嫌が良い人なんだろうと思う。できてないと不機嫌なので、まあ周りに人が集まることはないという感じだろう。

見た目はどうでもいい。あの人作業しているよとか、タスクばっかやってんなでもいい。実はそこが仕事っぽさがあるのであれば。逆に仕事っぽい見栄えだけでやっているのも滑稽だろう。企画を考えたといっても、アイデアを吸い上げてほぼそのまま左から右へ、いや右から左か、をやっていたならそれはまあそのうちボロが出る。当事者ならまあバレるのを恐れるだけであり、アイデアをあげる側なら百姓一揆を狙っていくだけのことであり、そのバランスがどこまで持つかというところ。

価値はアイデアで判断する

面白いとか面白くないという主観の判断が正しいというところにはリンクしない。そのうえで、作業が面白いアイデアならやりたいし、つまらないと思えるアイデアの仕事ならやらない。つまり、アイデア基準で考えるほうがしっくりくる。

例えば、看板製作をしたいがその面白いアピールアイデアがないか。100個考えて欲しいといわれたとする。もっと詳細は欲しいけど仮に「看板アイデア面白そう」と思える何かがあればやるだろう。まあさすがに1つのアイデアの粒度が低い、または依頼主の理解レベルが低いなら不毛な「作業」になるのでやらない。

一方で、大手企業で新規商品アイデアが必要。企画を練ってくれないかみたいなところで、一見仕事っぽいけど、内実は「市場調査と題してコピペみたいな作業」だったらまあきつい。とはいえ、アイデアがあるかどうかなんだけど、「例えばこれこういう工夫をしたらそもそもこのタスクいらないのでは?」が通じる相手ならやるかもというところ。こういう問いかけをすると、そのまま終わることもある(笑)

アイデアというと分かりづらいのだけど、上の作業的なことも仕事的なことも、そもそもアイデアの余地があるのかなというのが「正しい」気がする。僕がやる意味があるかどうかという意味で。それなら他の人がいいっしょというのはそういうし、僕が出来るのはここまでですというのもはっきり言うからだ。

なぜそう考えるかは、お金を沢山回すみたいな感じの既存事業の計画性と完遂的なことはまあ僕は辛いというか、一瞬で飽きるからだ。世の中の影響力みたいなものの考え方が、そもそも力ありき、既存ありきだから好きでないってだけだと思う。それなら、ジャイアントキリングはやりすぎだけど、やはり鶏口となるも牛後となるなかれでいきたいし、燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんやではないけれど、小さいと見えるものの可能性を最大化する方が好きってだけかもですね(笑)

筆者プロフィール

シゴトクリエイター 大橋 弘宜
シゴトクリエイター 大橋 弘宜
「シゴクリ」運営者。アイデアの力でお客様に貢献するゼロイチ大好きアイデアマン。ビジネスアイデア相談実績等は200超を超える。好きな言葉は三方良し。詳しい自己紹介仕事実績も合わせてご覧ください。お仕事メニューお問い合わせはお気軽にどうぞ。

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