言っているから出来るわけじゃない

言葉で言うから、それが出来ているという証拠にはならないという話です。

世俗的(笑)にいえば、「盛る」というのもあるし、「できるできない」境界線みたいな話になります。また認知として、本当に出来ると思っているが、実際はできないこともあるわけで、これらの不可思議さこそ、人らしいなと僕は思います。

今回は、言っている、出来るというところについてズレを感じていくというわりとどうでもいい話です(笑)

企画はできる?できない?

企画というスキル(才能でなく)は獲得可能です。それで、この企画って何かというと、総合的なスキルですが、現状認識、どうなりたいか、イメージを描いてそのギャップを埋める解決策やアイデアを出して実行して、そして検証してみたいな持続性が問われるやつです。

これを一文で読んですっと頭に入る、そういうことだよねという人は企画は出来ると思います。逆に、それぞれの工程が見えないか統合されてないと、「えーと、お客さんを集める集客」がどうとかって話になって止まります。

実際に出来るかどうかの判断として、この企画ほど曖昧なものはないです。評価が難しいのは、その総合性であって、例えば文章を書くのも、企画を立てて、どういう構成にして読者が誰か、どういう特徴やポイントがあるか、読み手がどうなっていることを目指すのか、その記事や文章の目的は何か、媒体や自分であれば強みを生かしているか、まあ色々ですよね。

これを項目ごとに分けて、細分化して、評価ポイントをつけて、「5点です」とかやって総合的に良いものが企画として優れているかというと、すごく怪しい話です。そういうこともあるけれど、そうでもないかもしれない。

そうやって企画自体が曖昧で、かつ評価する人もいないと、廃れるというよりも、良くわからない世界となっていくという感じがします。

実際企画の定義はかなり難しいです。といえるかどうかだけでもやっているかどうかが分かります。簡単だという人も、難しくて出来ないという人もどちらも怪しいとして(笑)なんとも曖昧なんですね。

あなたは企画ができるか?という時に、そのまま「できるかどうか」を答えていますか?それは結構悪手で、そもそも自分で定義してここならできる出来ないを言ったほうがまだ建設的になると。

そもそも総合的なスキルであるので、さらに細かい点だけ見ると全く期待値が異なると。そんなことはよくあります。さらに、何を企画するかです。分野や経験によっては、まあ精度が悪いことになりますから、そのあたりを考えると、「企画できる?」とか「企画がどうという」話はそもそも非常に注意深く聴くし、答えていけないとすら思います(笑)

出来るとか出来ないも、出来るといったところで何が出来るか。出来ないというところで何が出来ないか。そのズレ、イメージ、ギャップ、可視化されてないところが曖昧というのがありそうです。

これは企画が出来るということでなく、あらゆるスキルの証明もそうですね。PCが出来る、イラストレーターが出来る、漫画が掛ける、歌が歌える、英語ができる。どれもふわっとしていますよね。PCが出来るという言葉は、PCの解像度、つまり興味や関心、専門性があればあるほど「使わない」わけです。仮に専門性がある人が、相手の力量をみて「PCが出来る」という言葉を使うのはものすごく適切です。能力値が高い人ほど、降りて来たり、別の第三の場で話すことが上手いからですね。

できないという謙虚さ

できないとか、自信がないというと、謙虚になる文化がまだまだ日本にはありそうです。なのですが、できない→ならば無理しても意味ないですよねとなりますし、自信がない→ならば自信がある人にお願いする(笑)というだけで、謙虚さっているのかなというところです。とはいえ、ふてぶてしいのもどうかですが、ビッグマウスと思ってもそれほどでもないので、謙虚な人ほどビッグマウスでいいかもしれないです。

謙虚で構えていると、「あの人は謙虚だから」といって評価されるかというと、これはかなり怪しい。場による、企業やどういうところにいるかによりそうです。なので適切な振る舞いとも言えないと感じます。

他に、何か贈る時に「つまらぬものですが」という枕詞がありますが、まあ若い人はしないですよね。年代がバレるところで、こういう言葉をつけずにどうするか?が問われます。例えば、「自分が食べて美味しかったので、喜んでもらえると思って贈ります」といえばいい。ものすごくシンプルですが、人によっては押し付けとなる(笑)まあなかなか面倒くさいですよね。素直に受け取れない人ほど、実は謙虚かもしれません。

それで、仕事において謙虚さが大事なんて真に受けてしまって、「企画ができない」とか思っていると、または「口に出す」ことで、そのような認識になりがちです。ここは洗脳(笑)してもらって「自分は企画がこのようにできるのだ」というところを、その謙虚さ→ビッグマウスにしてもらってやればいいと。

あとはエイヤというか、やってみてどうか、または自分が少し背伸びすればいいというところで、成長になります。それが逆に簡単なら、まあそれはそれでいいと。

とはいえ、これもやりすぎ、塩梅の話で、あまりに背伸びしたり、成長痛だ!とかやっていると疲れてしまうので、人それぞれかつ塩梅よくという話になります。まあそんな結論がある話でもないので。

常に言葉と実態はずれる

今回の主張はここです。結局できるといっても、できないといってもなんでもそうですが、発言はずれるわけです。自分が思っていることを言葉にしても、ここでまさに言葉にしているのは、僕が考えたことをそのまま言葉にしているのですが、その瞬間にずれていくのですね。

自分ですらそうなので、人の言葉はまさに「よくそれで通じるな」というレベルですよね。そこまでいえば、出来る出来ないなんてさらに分かりづらいですよね。その人を観察していても「良くわからない」なんてあるし、その人になってもわからない(笑)

だから、学習とは、真似ることで、かつそこから自分に問い直して、最近だと本質直観ですよね、そういう感じで自分に入れてそこから考えて自分ならこうするよね、という繰り返しでしかないと。

この哲学っぽいですが、感覚がないと、常に言葉に翻弄されたり、または言葉でない空気に翻弄されたり、なんか慌てちゃうのかなと感じました。

そして、大事なことですが、言葉でいうということで、「嘘を付きたい」から「言葉」でごまかすということはあまりないですよね。というか認識が出来ないといっていい。「僕は小説家になりたいんですよ」というのは嘘ですが、意図的かどうか、白い嘘かどうか黒い嘘かなんてわからない。仮に白いから許されるなんてこともなくて、というか許されるどうかの基準もかなりふわっとしています。

もっといえば、僕が「小説家になりたい」というのが嘘かどうかの検証を誰がするかです。客観的な事実として、「每日小説を書いている」からなりたいかは分からない。結局本人も分からない(笑)

残るのは、感情が要らないとかでなく、行動の蓄積と、結局は「確からしさ」という、自分が自分として「こういうのが自分っぽいな」というニュートラルに近い、自然状態でしかないと僕は考えています。だから、自分へのこだわりが強いというのを格好いいということはなくて、こだわりがそこまでない方が僕は僕らしいとすら思うんですね。

もちろん、何も興味や関心がないとかでなく、対話や雑談から生み出していくとか、そっちのほうが好きみたいなニュアンスです。

それで、言葉として言っていること、可視化された全てのことは、常に言ったそばからズレていきます。況や、自分の他のことも、他人のことも、ましては分かりづらいスキルの証明、出来る出来ないなんてまあ無理なんですよね。

そこに何かしら気付いた人が資格という証明に走るのですが、そういう証明がある=できるというのは「なくならない」考えですが、これもまた実技経験があるかどうか、話がまた複雑になりますし、実技をしたからやれるとか、仕事でやったから出来るなんていうことも証明しづらい。だからこそ、なんとなくマッチングとして、イメージを対話ですり合わせて「確からしい」かどうかだけなんだろうなと、そう考えてしまえばかなり楽じゃないですか?そうでもないですかね?(笑)

盛ったもの勝ちなのか?

最近全く勝ち組負け組という言葉を見なくなったのですが、まだ使っている人や書く人はいるんでしょうかね?あまり意味がない言葉だと思います。何において勝ちか、負けか。定義して使えるかどうか。または意味なく使っているだけというほうが多そうです。

言葉が実態を表さないのではないかというところで、盛るという言葉を冒頭に書きました。例えばあるスキルがないのに、「できますよ」と盛る。読んだ人は「盛っているかも」と差し引いてかんがえる(笑)ので、盛っても、盛りが見えるとすると、無駄な形で、むしろ、「盛り損」として、盛ったということが分かるだけで、何も変わらないので「あー盛る」という心理がどうなるかです。

盛っても話を通したい、有利にしたいって思われてそういう人がいいのだということなのか、盛った時点で終わりなのか。これも一対一というか、相手次第なだけですね。

錯覚資産という概念でいえば、ある程度盛った方がそこで「謙虚」な人より、「元気」だから、じゃお願いというのもありそうです。ただ、ここで力を出しきれないとか、結局盛ったものと現状ギャップで成長したくないなら、盛り分がロスになるので、やはり辛いです。だから、盛るだけ成長思考があれば、相関としてありだけど、そうでないなら単に盛ってよりダメージを食らうだけかなと思います。

だからこそ、成長という部分、自分がどうすると心地よいか、またはよりフローやゾーンなどに入れるか、パフォーマンスを出せるのか。それを知り尽くしている、または知ろうとして「自分の土俵」に持ってこれるかだけかなと。

自分の土俵に持ってこれるかどうかを基準にすれば、多分それはファシリテーションとか、対話とか、あまりしなくても、勝手に自己成長できる人かなと思いますね。

おわりに

結論ないのですが、言葉と実態はずれているというところを押さえておいて、なぜずれるのかという本質は人間らしい(笑)というところをさらに押さえればまあブレるというか、妙な方向に行きづらいかなと。

例えば嘘をついたり、盛ったり、自分をより大きく見せる。とても人間らしいので、それが見透かされる人の前ではやりづらいというかやれないんですね。見透かされないからこそのパフォーマンス、太宰治の人間失格でいえば「道化」みたいな概念だったかと思いますが(笑)そういうのって、本人が道化だと思ってやっていてもしっかり認識していない=道化以下でも以上でもないというか、そんなのがありそうです。

正しい認識、適切な認識ということで、バチッとRGBのようにある数値である程度の色が出せるみたいな、スキルマップなんてなくて、あってもそれを評価するところでは使える(資格とか勉強時間とか実績とか)のですが、全てで使えるわけではない。

ここまで分かると、どういう人や場で自分を見せるとか、どこで強みを出したほうが得というと微妙ですが、いい感じになるかってことになるかなと思います。

筆者プロフィール

シゴトクリエイター 大橋 弘宜
シゴトクリエイター 大橋 弘宜
「シゴクリ」運営者。アイデアの力でお客様に貢献するゼロイチ大好きアイデアマン。ビジネスアイデア相談実績等は200超を超える。好きな言葉は三方良し。詳しい自己紹介仕事実績も合わせてご覧ください。お仕事メニューお問い合わせはお気軽にどうぞ。

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