面白さファーストで学ぶ

ここでいう設計とは、計画といってもいいんですが、多分戦略の方がしっくり来る。つまり、計画=仮想過ぎるというのが僕の中ではあって、もちろん計画を実行に落とし込んでやり切った人ならそこまではない。

ただ計画といった途端、その遵守がゴールとなり、大胆に変えていくことはまずできない。計画通りという言葉が好きな人は多分計画を守るのが好きであって、そのゴールを達成するのがどうとはなってないはずだ。ゴールを達成するということが狙いなら、計画を守ることは枝葉になるからだ。

矛盾が入るが、学ぶためには設計なり戦略が必要。ただその設計時点で、その戦略性がなかったり、作れなかったりする。そこで、ある種精神性が問われて、エイヤ!で作るか、または試行錯誤で乗り切るか、色々と考えられるが、それらもやはり枝葉でしかない。もっともなポイントは意外かもしれないが、「楽しむ」とか「面白い」とかと思えること、感じること。これがないとやはりきついと感じた話。

自己啓発っぽい感じで学ぶことについて書いてみました。

学ぶ理由は自分で作る

学ばない理由はないというのがわりと半分くらいはあったわけで、そのデータから考えると自分で学んでいる、理由があるという人は少ない。一方で学んでいるけど理由と言われるとなんだろう?ということになるんだけど、哲学的な意味でもそうでなくも、面白いから学ぶ、楽しいから学ぶがないと辛い。義務でやっているのは自分が落とし込んだ義務ならいいけど、プレッシャーやストレスで点としてはいいんだけど、線や面と伸ばしていくと切れるか構築できないと思っている。

学びたいという欲求はマズロー的にも色々あった上でのものだろうけど、一方で学べる環境にいて学ばないのもなんともというところを感じる。結局ある程度学ばないとまずいぞというところと、学べるというある種の精神性の豊かさがあってはじめて学び続けられるんじゃないかと感じてきている。

学ぶ理由なんてあってもなくても学ぶならいいのだけど、わりとサボりがちなわけで。ならば環境でカバーする。学べるならそのまま持続出来る支援やサポート環境で少しケアする。余裕があれば誰かをケアして持続可能性、とくに自分が教えることで学びは定着するのは明確なので厭わずそうしてみる。そういうやり方が求められると思う。

完璧な設計はない

このブログで言っているのは、完璧なことはないし、正解はない。だから、思考しなくていいのでなく、その上でじゃあどこまで言えるのだろうか、どこまで疑問が潰せるか、または分からない状態まで見えるのかというところに尽きる。

よって、設計、戦略、計画なんでもいいけど、学びのやり方でこうしたらいいということは提示しづらい。僕のやり方も間違っている可能性がある。

よくあるのは資格試験で暗記的に行って取った資格があるが、それが期待値レベルで使えることはまずない。しかし、「お金」と一緒で、その「資格」における信頼が社会的にあれば機能する。勉强をしたことはアピール出来る程度の期待値でも「ない」人よりは出来る。しかし、このレベル感をどう捉えるか、感じるかは人次第だ。ナンセンスだと思えば取らなくても良い、と思っていても資格手当が会社から出るから取るというのもあるだろう、また資格必須ならば会社員なら義務的であるのでそれはやる必要があるだろう、転職するなど自分が何かしたいときに役立つ可能性はあるが、よくあるのはそういう転職時には資格のことなんて忘れているはずだ(笑)

ここでいう学びは社会人が中長期で学んでいくという、ある種の人生戦略となる。この言葉は重いようだが、実は每日の積み重ねでしかない。そうなると、別に寝ててもいいし、仕事だけしていてもいいし、プライベートを充実させればいいしと「何かしていればいい」ということに逃げても良い。逃げてもいいのだけど、結局カウンターとしてつまり反作用として「このままでいいのだっけ?」という問いがふつふつと湧いてくる。湧いてこないなら多分大丈夫(笑)なので、そのまま継続すればいい。

そうなった時にどうすればいいか?では割と遅くて、その前にやっておけるのが多分学びだと思う。ある種保険的であるが、保険みたいな確率論よりも、もっと主体的かつ精神的に楽しいとか、面白いとかで使えるのが学びだと僕は思う。

そういう学んでいくことを大事にする以上に、人生戦略なのでもっといえば、何を成し遂げたいのかみたいなこと。または成し遂げたくないことでもいい(笑)思考を自由にしていくと、とらわれる自分が認知できるし、悲観的になれば自分の能力不足を感じるはずだ。一方でポジティブにいえば、願ったことは出来るともいえるので、やはりポジティブでいつつ、その上で冷静に考え、メタ認知していくことで、人生を切り拓くのが自分としてはしっくり来る。

人生戦略だからこそ、僕の戦略はあなたのそれではない、ことが多いし、その違いを楽しめることが多分かなり重要だと思う。むしろ、自分にあった戦略をくれくれ君している限り、何も見いだせない。いわゆる、そういう自分にピッタリなものは誰ももたらしてくれないのだが、それを求めてしまうとハマってしまってしまう。答えはないのだ。ないからこそ、考えるのだし、その考えがどうかも自分で判断する。

これはある種練習でありトレーニングでしかなく、プロ級に上手い人もいるが、それが数値化されるわけでなく、ある種の人はそれを職業とするが誰もそうできるわけでもなくするわけでもない。自分のことは自分というのも結構しんどいので、だからプロがいるわけで。とはいえ、誰もがプロに頼むわけでもない。だから多くの人は自分で考えるところに行くと思うのだけど、そうせず正解を求めてしまうとハマってわりと時間が勿体ない感じがする。ただなんでも遠回りといって解釈できるわけだから、自分をただ否定するのも面白くないから、自分をいい感じで肯定していったほうがいい。

学びをしない道はありえるのか

戦略以前に、そもそも学ばないことはありえるのか?というところを考えてみたい。答えはないのだが、僕はないと思う。

一方で学ばなくてもいわゆる社会人になるまでのストックでなぜか生きようとする人がいる。これはさすがにいないと思うが、もっといえば社会人になって少し勉強して、または仕事をしてそれでやろうという考えだ。やろうとは、その知識や経験でなんとかしようということであって、自分がやりたいことをやるために何かしようということではない。

端的にいえば保守性といえる。保守とは自分がやってきたやり方にこだわったり、そのやり方が良いので守るという定義とする。それはまあ確かに新しいことを学ぶとか、やったことないことをやるのはストレスだ。しかし、苦痛というのはそれが変化しないことであって、学ぶ時は分からないが、後で楽しくなるということもある。それが楽しいとか、ある種の別のことと紐づくこともある。だから楽しいのだとも言えるのだけど。

学びを終えたという人の顔は暗い。明日何が学べるのか、面白いことがあるのか、楽しいことがあるのかという視点になりえないからだ。それ以前に、ビクビクしてしまう。つまり明日自分は仕事を続けられるのだろうかとか、新たな脅威が来るのではないかとか。本人にしてみればとても深刻なことだろうが、一方でメタ認知をしたり、外から見れば滑稽ですらある。このような状態を回避するのは実は結構難しい。

そもそも学びをここでは強要する気はない。だから、やる気問題となってしまうからだ。やる気がないなら廃れていくのは怖いと僕も思う。一方でもっと補助線的なものや学ぶことによってこうなれるかもというイメージを描けるということが大事だと思うので、そういうことができないかと考える。

これがある種学びの設計や支援というもののイメージだ。でも、これは個人を想定すると個人個人に対しては非常に難しい。ある種の個別コーチングとコンサルなので馬鹿高い価格となってしまう。つまり一部の人しか受けられないものとなる。法人や企業向けもありだが、その場合の学びの規程が難しい。例えば動画でビジネスを学べるというような切り口があるとして、学びたい人はいいがそうでない人も多いわけで、選択肢を提示したところでどうなるか?ある種子どもと一緒で全て義務なら強制でGOできるが、義務ではないフリーダムだが、忖度や雰囲気で学ぶほどつまらないものはないだろう。

だから、会社が用意するのでなく(会社が用意してくれるのはマシだとは思うが)自分で考える必要があるのだと思う。もっといえば、個人が会社によってその学びを考える支援員みたいなのがいればいいのだが、そういう思考やアイデアになかなか行かないはずだ。なぜならそこまでやることもないと企業は思っているからだし、ここまでやれるとなると相当余裕があるか仕組みがガチっとしてないとやれない。問題はやったところで、「あそこはアカデミアだ、研究だ」みたいに、学べる場所として来てしまうのもありそうだからだ。これはイメージはいいが、ビジネスをしてない印象にもなりやすい。成長して屋台骨があればいいけど、という意味でビジネスと教育の相性の悪さをここでも感じてしまう。

結局は個人、つまりあなたがあなたなりに徒手空拳で色々やるのも良いし、誰かと議論するのもいいし、とりあえず色々試行錯誤するのが多分ベターというか、正解ではないし、もっといいやり方はありそうだけど、現状では最適かもしれないと感じる。それくらい学びはやったほうがいいしやらないといけない感があれど、どうもやろうとすると一気に冷めるというか学びなんだっけこれ?というものも多いからだ。

それは多分ビジネスと紐付けたり、マーケティングだったりと色々となんともな感じになってくるからだと思う。これらが即ち悪とは思わないが、倫理的にどうなのよというのはやはりあって、それも批判しづらいのは倫理もやはり社会における共通イメージでしかないからだ。昔やれだけど今できないなんてことで考えてもらえればいいだろう。

面白さファーストで突き抜ける

こういう言葉もどうなのかと思いつつ、楽しさや面白さファーストでいいと思っている。一方それだけではもちろん社会で生きるというところで、忖度(笑)が必要なこともある。ただそれも度合いの問題だろうということだ。

つまり、面白さを貫いていればストレスがそもそもあまり発生しない。またそれにより学び定着は抜群だし、何より関わる人、それが仕事仲間であっても楽しさが伝染する。ニッチだろうがなんだろうがそれはどうでも良くて、まずあなたが楽しいこと、関わる人が楽しいこと、それによって、小地域、スモールな社会や周りが楽しくなる。それこそが価値があるし、エモいといっていい。

そうすると仕事にもポジティブになり、結果となってくる。もちろん、何も実績がないとか、何も勉強してない、何もアウトプットがない人が、「うまく自分だけ汗をかかず、簡単で楽に何かやれる立ち回り」を教えて下さいはまあありえないわけで、そうでなくこれをやったがどうか、こうしてみたらどうかということをやり続けること。それはある種の方法ではない。自分がこう考えたり、人がこういうから自分はこうだと思う。主張ではなくて、主張ですらないのだけど、自分が動いて体現すること。まさに行動となるのだけど、行動に力点を入れると、「行動できないからいいや」となる人がいるので、そうでなくて、自分が面白いことはこれ、だからこう生きる、くらいにシンプルなイメージ。

こういうイメージを持った上で、学んでいくとどうなるか。学びは自分が居るコミュニティだけではありえない。小さい社会にとどまっていて安穏としたいわけでもない。よって、外や面白い刺激を得つつ、全体的に最近のテーマでもあるが「社会の解像度を高める」ことをしていく。僕にとっての学びは結局ここになる。

今あえて「社会の解像度」といってるだけであって、僕の根本、やる気というよりも原動力は、社会がどうなっていくかに興味がある。ただ共同体がどうなるかというと、ちょっと分かりづらいので、ややミクロとして個人や人がどう感じるかのほうが好きだ。制度がどうだからというのもありだけど、多くはもっと個人の感覚の中で「非合理的」に処理されているからだ。

なぜ僕は学んでいるか

哲学的だが、以上のことから、色々と設計する、戦略を立てる、社会の解像度を上げる。それらは理由といってもいい。ただ、直感的には学んで楽しいから、面白いからというのがやはりある。

新たな人に会えば、そういう考え方があるのかと感動するし、または同じ考えであってもなるほどねーと感動する。知らないことのほうが多いが知らないことを知って「そうだったのか!」と思えるのも面白いし、楽しい。「ゲームをして負ければ」悔しいし、上達すれば嬉しい。

そういう每日のエモさの中で、学ぶとは多分人間らしいのだろうけど、入り込んでいる。だから学びを捨てると多分結構悲しいし、人生が寂しいという感じがしているので、学んでいくスタイルは変わらないし、そうやって生きてきた。

もっと学べばよりエモくなるともいえるし、もっと色々とやれることが増えたりする。そういう意味で学びは悪いことがない。あえていえば、色々と知ることで動けなくなるのかもしれないが、知ると動くは別だからそこはスルーしつつ、横断して飛び越えるというアイデアも不可能ではないだろう。

学生時から20年くらいたって、じゃあ学ぶってなんだ、学びたくなるのか?というか社会人の方が学ぶこと多いのではないか?みたいなことを昔考えていたがその通りだと思う。結局、学ばない人の言葉は軽く、また学ばなくていい=さぼってもいいみたいな感じになる。別に学び自体は修行でも苦行でもないからだ。間違えて学び=苦行とラーニングした人は苦行をしたくないので「学ばなくてい」といい、「学生時代に遊んでおきな」みたいなことを言ってしまう。ケースバイケースだが、社会人になって時間がないというのは、忖度や慮ってはいるが、ディスりと捉えれば「時間を作り出せない」というだけになる。その人や家族や周りというものに対するものも大きいが。

ではそういうことを考えていくとき、「周りが協力してくれないから時間がないです」というのはまあ現状としては分かるのだ。しかし、それで詰めていくと結局やれることをどこまでやるかとなる。この話はとてもシビアに聞こえる人とそうでない人に分かれると思う。自分が捻出した時間で学ぶ人は定着するだろうが、人から出してもらった時間はやはらい軽いとも言える。その重みもケースバイケースだが、認知した上でどこまで出来るか、人によって環境も全く違う。だけれど、そこでも学びはある種環境は平等ではないけれど、学ぶこと、学べることなどは常にある。学ぶ環境とかは異なるけど、学ぶ、知識や学問などは依然としてあって、それらはとても大事なことだ。

自分が学べないからといって、または学べる立場にいるからといって、どんな立場だからといって、それら巨人の肩を批判することはまあできないだろうし、むしろ立場的には後世であるならばそこから学んでさらに高めていく、そういう考えの方が僕は好きなだけなんだと思う。

筆者プロフィール

シゴトクリエイター 大橋 弘宜
シゴトクリエイター 大橋 弘宜
「シゴクリ」運営者。アイデアの力でお客様に貢献するゼロイチ大好きアイデアマン。ビジネスアイデア相談実績等は200超を超える。好きな言葉は三方良し。詳しい自己紹介仕事実績も合わせてご覧ください。お仕事メニューお問い合わせはお気軽にどうぞ。

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