行動できないにピリオドを打つ話。

やるべきことに集中する。または本気を出す。もっといえば、自分の生き方や哲学をきちっと決める。

どこかで聞いたことがあるような言葉であり、話であり、これらは全て悪いことではない気がします。一方で、そういうことが言われていても多くの人は何かを達成するということと、自分を改造するとか自分にカスタマイズすることが一致してない気がします。

難しく言い過ぎたかもしれません。

何かをやりきるとは甘いものではないという説教になりますが、それでは面白くないので、なぜ集中することややりきる達成がないかなどについて考えていきたいと思います。逆に言えばどうすればできるようになるかのヒントになるかもしれません。

目次

世の中は論理か情熱かどちらで出来ているか?

この二択こそが質問者の罠であることに気づくべきですが(笑)まあそれはスルーしても、結局情熱でしょう。もちろん仕組み化は大事ですが、その仕組みをもって誰かを罠にはめて陥れてーみたいなことを望む人はわりと少ないと思います。

ときど氏の本「東大卒プロゲーマー」では、情熱は論理を超えるということをテーマに書かれた本であり、自身の物語が書かれています。もちろん論理は全く無駄とかってことではないです。

情熱でありパッションであり気持ちでなんでも出来るというのも大げさですが、一方でそういう気持ちすらないのに出来るのもどうかなと思います。

世の中で何かを成し遂げた人、それは名を残した人とか何かで有名になった人はここでは学びの素材にはなるものの、イメージとはずれます。本当に小さなことでもいいから、または小さなことの積み重ねでもいいからやりきった人って何か特徴があると考えています。

そこにあるのは「色々考えたり、手を動かしたり、行動したりしたんだけど、自分はこういう感じになったから、今こうしている」ということであり、または「そういう結果や思いも違っているかもしれない」という柔軟性があると思っています。

分かりやすくいえば、自分なりの仮説検証があり、そこから哲学っぽいものや考え方や再現性や一定の成功確率(ここではやろうとしたことが出来るということ)から達成できるんじゃないかなと思います。

極論と断った上で、やはり楽しさや面白さや熱やその人らしさがとても大事なので、社会や世の中って陰謀論を唱えるのも面白いですし、合理性や社会経済性を唱えたとしても、一人の情熱とか面白さやユニークさがあるから面白い。むしろそういうパッションや情熱がないところで仕事であったり、人間関係であったり、何かが生まれることはないんじゃないか。僕はそう思ってます。

ですので、情熱のみで出来ていると青臭い事は言わないですが、とはいえ情熱もないのに何が出来るのだろうか、多分何も出来ないだろうと率直に思うわけですね。

自分の人生は有限であり、命の時間である

自分の行動が自分の人生を形成する

命の時間とは、自分の人生についてのトータルな時間です。これについては、どんな人であれ同じでしょう。が、この考え方自体がなければ共有できないのでなんとも難しい部分はあります(笑)

例えば、今日は充実した1日だったとかだらけてしまったとか色々あるわけですが、毎日必ず充実しなければならないのだというのは窮屈です。ですが、1年中ダラダラしているのもまた微妙です。

最も、1年というのが長期なのか短期なのか、その人の感覚によるわけですね。1日が長期という人もいるかもしれないし、余命3ヶ月であればこのブログも闘病記になりえますから、ものすごく有限とか締め切りって大事ですよね。

ふと思ったんですよ。僕の人生は僕の考え方ややり方がものすごく反映されている良いアウトプットだなと。つまり、僕が書いたことや仕事のことやプライベートや人間関係や面白いと思ったこと、別にライフログが好きとかはないんですが、そういうのって全て僕の人生だし、自分です。嫌な部分もあるし欠点も多々あるのですが、そういう部分を補い得る良さがあると自分には思っています(笑)

自分の一挙手一投足が自分の人生である。シンプルにいえばそういう感じです。

そして命の時間は友人かだれかが言ってかなという言葉ですが、有限性とその時間の使い方に対して身を引き締めてくれるものだなと思います。ただ時間は平等というよりも、時間資源はみんな同じようにありながらも、同じ使い方は出来ないと思っています。

命の時間の使い方こそが人生

テレビを毎日3時間見る人と読書を3時間する人を比較することに意味があるかは分かりませんが、僕は読書をしたいと思っています。この時選んだ3時間であり行動である読書が僕の人生を形成します。1日における時間配分が人生を決めると。大げさですが多分それをわかってる人は結構いると思ってるんですね。ただ思っただけでそのように行動できるかがポイントでここにも色々な壁と言われるものがありそうです。

テレビを馬鹿にしたいとかはなくて、テレビが好きならどうぞどうぞという感じです。自分が良いとか自分がやりたいとか、自分が好きだというものをやるのは悪くないのでこれは価値観の話でしょう。テレビを3時間毎日見て、それで最終的にはこれも人生のものさしの話ですが僕なら「棺桶に入った時に自分の人生は楽しかったし、面白かった。ありがとう」といって死にたいだけなんですね。死にたいというとネガティブかもしれませんが、そういう感覚がずっとあります。学生の頃からでしょうか。

だから、テレビは見られないんですね。テレビを見る必要はないというか。abemaTVが侵食してきてもまたライフハックで抵抗するのみです(笑)それはおいておいて、1日の何気ない時間の使い方、またはそういうテレビを見るとか読書をするという行動自体が、繰り返されるわけですね。正確にいえば、1日という全体があったら、行動という部分で構成される。もちろん細かく全ての行動を記録していくのもなんかアレなのでそこは気分ですが、ざっくり見ていくのもいいでしょう。

そうやって1日は、毎日繰り返される。名言だと思っていますが「明日は今日になる」というのは不思議なもので、人ってカレンダー的なものがないなら、1日単位だとか30日単位だとかわりと自然な季節単位になるんだろうなーとか思ったりします。それはおいておいて、その1日の繰り返しが、一週間であり、1ヶ月であり、3ヶ月であり、1年であり、3年であり10年であり、30年であり、死ぬまでが人生だと言えそうです。

1日は重大な人生の一部であり、もしかしたら人生そのものといってもいい。この逆算というか、1日=人生の重要な構成要素に気づけば、1日の何気ない時間や些細なことも「生きるって素晴らしい」という感動レベルにすら思えます。僕がここでブログを書いていることが誰かに伝わることも、ものすごく感動的ですらあります。全部読まなくても一部、いや2行読んだだけでも感動があるのかもしれないですし、そのあたりは面白さですよね。

よって、命の時間=人生の全時間であり、自分の人生の時間全てとなります。

自分の時間消費の言い訳は、命の時間のバーゲンセールだ

これって一方で「自分の時間を何に使おうが自由である」というところ、同時に自分をコントロールできないまたはやりたいことをやってない言い訳にもなりえます。

例えば、自分がうまくやりたいことに集中できていれば、ちゃんとやっているので何も言うことはないのですが、出来てない時にでも「自分のことだから良いよね」となるわけですね。自分の命の時間を価値を低めることにもなりますが、誰にも迷惑をかけてない。確かにその通りです。ですが、命の時間価値が低くなるのは避けられません。

例えばある1日で僕がテレビ3時間はないなと思っていたとします。実際に思っているのですが、その場合テレビを3時間見てしまったとします。その時に思うのは後悔かもしれないし、自分の行動についての悲しさかもしれないです(笑)もっともテレビを全く見ないわけではないので、たまに見ると面白いという再発見であり、「ストレス発散」かもしれないですよね。書いていて気づきましたがテレビが嫌いというよりも、それを受動的に見続ける感じが嫌なんでしょうね、多分。まあ習慣ってそういう部分があるのでなんともですが。

それはいいとして3時間テレビを見ました。例えば後悔をしてやめようと思います。見ないぞってことですね。でも明日もまた見てしまう(笑)これの繰り返しを仮に毎日でなくても結構したとします。2日1回くらい3時間を使うとします。この時に、「ああ、自分の時間や人生だから別に3時間をテレビに使おうがいいよね」というのが言い訳だということです。

もちろんあなたが何に使おうがいいんですよ。テレビが好きな人もいるからそれはオッケー。テレビ好きとかテレビを見る人が悪だとかいうそんなことはないです。ただテレビの話をされてはコミュニケーションはしづらいししづらくなるくらいかな?でしょうね。それはそれ。

そういう自分の行動に対して、体のいい言い訳をする。とくに自分の命の時間を安売り!だとしたらそれって悲しいじゃないですか。少なくとも多くの人は安売りしたくないし、僕もやだなと思います。超貴重な時間、というかその資源を意地でも渡さないくらい、最終エリアであり、最後の砦であり、抵抗部隊でもあるくらいの重さが必要だと思っています。

自分の時間は自分で決める。もちろん子育てや家事、職場で重要なポジションとか、色々と言いたいことはあるんですが、やれる人はそういうところを言い訳せずにやるでしょう。もちろんブラッキーなところとか、病気になって過労死しましょうなんて全く思わないのでそこらへんは追い込みしすぎちゃ駄目ですよ。

逆算をして可処分時間を考えると時間意識が明確になる

逆算というところを考えてみましょう。例えば僕は35才なのですが、90才くらいで死ぬとして、55年あります。今70才の人は残り20年をカウントダウンする感覚が強いでしょう。(とはいえ20年で死ねるわけではないかもしれないのでなんともですが)

70才の人から見れば55年もあるし、というか35才が羨ましいとか思われるかもしれません。35才の人はまた20才あたりの人が羨ましいかもしれません(笑)まあ若いのはいいことですよねって普通に思います。

さて、そういう35才の人間が残り時間例えば、仮に年内でもいいでしょう、8月、9月、10月、11月、12月で5ヶ月あります。8月は3分の2が終ですので、正確には4ヶ月ちょっとですよね。日数でいえば130日くらい。まだこれだと結構ある感じがしますよね(笑)

でも、130日のうちに自分が動けるとか可処分時間、つまり自分が使えるフリータイムとかまたコントロール出来る時間とかってどれくらいあるか?色々なライフスタイルがあるので一概にいえませんが、1日2,3時間でしょうか?それとも8時間くらいはあるでしょうか?定義が難しいですが、勤めようが自営業だろうが仕事がある人が多い=それらは自分が選択していることに無自覚ではいけないでしょう。それを選んでいる、誰かが選んだわけではない、その環境がどんなものであれ(本当に環境の仕業というケースもありますがそれは例外)選んでいることは意識したいところです。

仮に3時間だとして、390時間あることになります。ここで逆算的にいえば、ものすごく完全体な自分がいて、毎日3時間なんでも出来るとなります(笑)頭の中では。多くは計画的にいえば、こういう理屈の計算は崩壊します。毎日色々な誘惑やイベントがあるのでそれが楽しいともいえますが、同時にそれはやるべきことや達成したいことを遠ざけてしまうんですね。

仮に390時間を年内使えるとしたらあなたは何をしますか?僕は何をしたいでしょうか?それが逆算的な考え方です。そして390時間あれば、例えば100時間くらいは勉強したいことがあるとか、調べたいことがあるとか、遊びたいことがあるとか、仕事をさらにしたいとか、人と出合いたいとか色々なことが出来るかもしれません。

人は時間に無自覚でも集中などをすれば「時間を忘れて何かを出来る」ことが可能です。このブログや文章も時間を意識して書くよりも、(意識して書くこともありですけど)多くは伝えることを書けているか、アウトプットできているかが大事なので、そこを大事にしています。それはいいとして、3時間という感覚と実際の集中とそれらの生産性?は別なのかなと。要は3時間毎日テレビを見てあっという間な人もいれば、読書を3時間やってあっという間の人もいれば、ゴロゴロしていて(テレビも読書もゴロゴロなのかもしれませんが)3時間があっという間の人、どれも同じ3時間ですね。

比較しても意味がないんですが、比較してますけど(笑)、仮に自分の命の時間を何に使ったら良いか分からない。またはやりたいことがないとか、これってのが無いんだよねというと、その時間の有限性や命感が減ります。これは価値が薄まるということでなく、そういうものなのかなと思います。だからこそ生き急いでいるみたいな人がたまにいますが、正確にそのように見える人がいますが、そういう人って多分本人から見ると他の人はなんでそんなにのんびりなんだろうとか、やりたいことに集中してないのではないかなって思って他の人を見てるんだろうと思ったりします。

これらの考えや見方を「達成したいことに対してものすごく自律的にコミットしているけど、自分はそこまでやりたいくないな」と思えばオッケーです。自律というか意識的になるということですかね。時間が可視化されるので締め切りや有限性を意識せざるを得ないというか。僕はそういう自律的とかコミットとかは一定はあるとはいえ強いとも思っていません。むしろ、自分の脳を騙してどう見える形にしていくかが大事だと常に言っていますが、そこが大事です。

その締め切り感をもってしてもやりたければやるし、そうでないならやらない

やるべきことがなければそれはそれで僕はいいと思うし、たまに自分のやるべきことがない人生であり自分は不幸だ、または不安だという人がいますが、そういうやりたいことって「ある」のに気づいてないことが多いと思います。逆に「私はやりたいことがないのだということを証明するほうが大変」くらいだと思っているので、まあ気楽にいきましょう(笑)

ここでは、やりたいことやある程度こういうことをしたいんだけど、時間に対してコミットメントが薄いまたは弱いのではないか、そういう人を想定しています。

390時間は年内のたまたま可処分時間が1日3時間でという話でした。これが55年の場合はどうなるか。長期計画を立てるのがいいとかそういうことでなく、基本的に一緒だろうなと思います。そして、もっと大事なのは逆算「してまでも」それをやりたいか。同時にいえば「他のものは捨てる」ことになります。それって、全てやりたい、全部関わりたいと言う時は、何かアイデアが求められるしそれがなければ何かを選ぶ代わりに捨てることになりますよね。

僕の中では、自分の中で仕事を作るとかビジネスをする、アイデアを出す、企画を作ることに深いコミットメントをしています。それはアイデア=人生だとは言いすぎですが、それをもってお客さんに喜んでもらいとか、役立ちたいと本当に思っています。で、こういう「本気です」感は言葉で言っても意味がないので、行動で示していくしかないと。実際に自分をごまかすわけではないのですが、そのためにやることはマストです。ただ一生懸命やれば何事も叶うとかそういう甘い気分はありません。そこは淡々というくらい冷静に見られないとやはり逆算も出来ないし、厳しいだろうと。そういう厳しさを認めつつも、いやいやいやそこをやっていきましょうと。そういう感じがあります。

また一方で、僕には出来なさそうことをやるとか、本当にできないとか言われているけどそうなのだろうか?そういう検証や実験に対して非常に興味があります。やってみたというのも面白いですが、なんでやったか、やってみてどうだったか。そういう話は多くは面白いはずです。人から言われてやるよりも、その人が独自に動いたほうがより面白いはずです。

やるべきことがない人という話をしました。別にやるべきことがあるからどうとかはないんですが、あったらあったでそれをやればいい。でも、逆算をしてですね。10年後までにこれをやるというとなんか違うなって人いませんか?僕がそうです(笑)多分それはそこまでやりたくないんだろうなと思っています。一方で環境もあります。環境的に野宿旅というところなら野宿が前提になるのですが、ホテルで泊まれる人があえて野宿をすることはありませんよね(笑)別にホテル暮らしをしているわけでもないし、それが出来るわけでもないんですが、きちっと環境を作れば適度な刺激を作れるし成長も出来ると。そういう方向でいきたいなと思っています。

具体的には逆算によって3年後に何をしたいかとかは予測とかになりやすいので、やりたいことはあってもいいしそれを形にしていくことはいいんだけど、そのやり方をもちっと変えたいみたいなところですよね。それについては、自分がワークする(うまくいく)のは、多分ですが、成長を一定担保されていて、または動くことで学びが得られる。そこからさらに可能性が広がる、そういう設計だと思っています。それがあれば、多分3年後に全然違うことをやっていることも全然オッケーなんです。というか、企画やアイデアはそのアウトプットで変わるので何にでもなると思っていますのでよりそうなりやすいですね。

逆算タイプよりプロセスタイプで。そして成長して進んでいく。

話を戻します。390時間だったら今やるべきことは何か。すでにカウントダウンしていくし、時間はどんどん減っていきます。少なくとも増えないですよね。もちろん効率化とかするなら別ですが。その390時間で何をしよう、または何が出来る。何をしておきたいか。それを考えるわけです。達成というところに重きを置けばそれはわりとワークします。でも、達成というよりもその中で得られるものが多そうとか楽しそうという人にはあまりワークしない気がします。たまーにやっていたらいつの間にか成功したみたいな話がありますが、正確には、ここでいってる逆算的思考とかの分かりやすいものでなく、成長を相当しているのでわりとタフになり色々出来るようになり、毎日行動を一定量しているので強くなってしまった。というのが正しいと思います。

僕としては、自分に向いた方をやるべきと思うので、逆算タイプかプロセスタイプかみたいに分けたら逆算するほうがプレッシャーや刺激は強いです。でも、プロセスタイプでいえば、毎日成長がないのに390時間後に成長しているわけがないし、成長を30時間やっても見えないならやっぱ駄目かもしれない。389時間成長を感じられないけど390時間目で成長を感じられるか?はかなり疑問です。もっともここでの成長が何かを定義しないと辛くなりますが、少なくとも出来ないことが出来るようになったり、前できなかったことが390時間後には出来るようになったり分かるようになれば成長という感じです。成長がないのに物事は達成できないというところで当たり前ですが、どうも逆算を意識しすぎて時間の有限性だけを見ても、集中とは違う焦りしかなくて(笑)それはそれで違う感じがします。

つまり、時間の有限性をふわっとでもいいのでしつつ、集中すべきは日々の時間の使い方であり、短期であれば毎日のそれ。そうすると、少し書いたように捨てるものも明確になります。こんなことをしてていいのだろうか?は捨てられます。もちろん捨てるだけでなく集中するからこそ得られるものもあります。こういうゲームがあるならば攻略法があると思いがちですが、人生における攻略方法はないんですね。なぜ35才、または35年しか生きてない僕にそれが言えるかですが、単に人生のゴールは誰もがバラバラだし決まってないんですよ。多分僕が思うに、ビジネスで成功したいという人はそれほど成功したくないというか、あわよくばみたいな人が多いと思います。仕事でもなんでもですけど。そういう「あわよくば」みたいなことがヌルいなとか甘いなという人は「行動」して自分を成長させている感じがします。

自分は成功しているという「ものさし」があればかなり人生の満足度は高い

人生のゴールは決まってない、もちろん社会的に成功というのは経済的なものがまだまだ大きいですが、大分一角は崩れてきていて今後が楽しみですね(笑)それはそうとして、僕の人生の成功は例えば最後の棺桶に入る時に、というよりも死ぬ瞬間は多分分かる(30秒前とかですかね(笑))ので、その時にありがとうって言いたいんですね。社会や親、パートナー含めて。それって今死ななくてもいつかは死ぬます。絶対死にますから(笑)そういう時にそう言えるためには「常に自分が納得したり、面白いとか楽しいとか、いいですね!といえる関係」とかがないとやっぱ出来ませんよね。明日死ぬから、明日だけ良いことしようってまず出来ませんからね(笑)それはちょっとせこいし、駄目です。やってもいいけど、良くわからない話になるのでやめましょう。

そういう意味で僕の人生は成功はしてるんです。すごく満足しています。もちろんこのままでいいとかは思ってませんが、満足してない部分があれど、満足度が高い。例えば明日死ぬとしたら、やっぱやり切った部分はあるんですよ。明日までならですよ。でも、もちろん課題は一杯あるし、出来てないこともある。ここでの思考というのは面白くて「満足度はあるけれどそれはやったことや今死んでもオッケー」という人生の終わり方生き方の話についてです。それについては成功したし、多分ぶれることはないでしょう。今でさえも、面白くない仕事をしていると激怒していますから(笑)

同時に満足出来てない部分、まだまだ出来るぞ、伸びしろやポテンシャルがあるし、もっといけるでーみたいなところ、やりたいところがあるわけです。シゴトクリエイターとかいってるけど、確かにアイデアや企画は出してお金はもらえる部分はあるけど、まだまだもっといけるんじゃないの?さぼってるだけじゃないの?みたいな(笑)君ならいけるという謎の自己啓発をしつつ、自分を奮起させる自分、嫌いじゃない。そんなポエミーな感じを持ちつつも、楽しくやっています。出来てない自分が好きではなくて、可能性があるという自分が好きなのでポジティブですよね、でも変なポジティブではないと思っていますよ(笑)そういう意味ではまだまだです。

でもここまで考えると分かるのですが、自分の人生ゴールはよく生きたいことであるので、お金をじゃんじゃん稼いでわっしょいみたいなことってやはり興味がないんですね。だからこそ、僕がベンチャーだーとかスタートアップだとかいって、上場だーとかいう生き方はできないんですね。というか力的にも無理ですがやれといわれても速攻断ります。ちなみにこの話は僕が出来ないというのはいいんですが、お前には出来ないといわれるとなんかいらっとしちゃいますよね(笑)まあ、本当のことだから仕方ないでしょう。だからこそ、僕の中のメンタルでは成功していて、あとはどうアウトプットや伸びしろを高めていくか。土台はがちっとオッケーだし、哲学的に揺るぐこともまあないでしょう。あったら多分信頼や人間関係が壊れていきそうです(笑)そしてそれを僕は望みません。もちろん出合いが不要ということはなくて、面白い人に出会っていくほうがいいという感じです。

逆算する中でやるべきことを出来ないと意味がないと思う人は確かにそれはそれでありです。でも、それって自分が設定した目標や深い人生に関わるコミットメントでないと、多分出来ないでしょう。なぜならすぐ人はさぼるし、誘惑に負けるからですよね。嘘ではなく例えばビジネスで成功して一杯稼ぐ、例えば年収1000万は欲しいみたいなことってありがちですよね。ステレオタイプですけど、本当にそういう人(稼いでいる人がいないのではなく、そう思う人がいるかって意味で)がどこまでいるんでしょうか。年収はそこまで高くなくてもいいけど生活できて好きな人や楽しい仲間と暮らせればハッピーみたいな人も同数いそうですが、そういうとGDPがどーのとか、今の若者はどうのとかって言われるから黙っているだけかなと。あとお金を膨大に持っていたり資産運用だけで暮らせるような人は逆にあくせく働くことは意味が無いので、やり甲斐、趣味性、社会貢献、ライフワークみたいなところにいきますよね。旅とかも見聞を高めて自己研鑽できるから己を磨くのも面白そうです。

こういうとあれですが、稼ぐぞ!みたいな人が最もお金にとらわれていて、一方でライフスタイル重視側のほうがお金持ちとかの人のほうによほど近いと思います。全員がそうではないだろうし、稼ぎたいという心が僕にはないわけではないのであれですが、とはいえ多分賢い人は「その稼いだお金でどうするの?何がしたいの?」となりそうです。いや、本当に。

そうなると、旅したいとか、時間が欲しいとかになるんですけど、それってお金がなくても出来るやり方を考えたらどうなの?って(笑)それで話しが終わります。つまり、稼ぐとかお金を得ることについても一定の哲学や考え方がないと、常に「30日で誰でも成功する」みたいなことに心を動かされます。キャッチコピーは心理戦だから全力でそうやって騙す人がいるわけですね(笑)またそうでなくても、稼げばいいんでしょ!みたいなのもまたお金を得る人が偉いというものさしのみだけなのでやや偏屈な印象があります。もっと柔軟な人は多いんですが、結局これはお金の話は疎まれる(持っていれば嫉妬されるし、稼ぐ方法を仮に本当でもそれを信じてもらえない)ってことなんだろうなと思います。このあたりは、漁師とコンサルタントという話がおもしろいですよね(笑)これからの時代に必要な「メキシコの漁師」の話

ものさしの数だけ豊かになる

ここでは、ものさしとして人生の成功って何ってことになりました。このものさしが経済的なものしかないと、かなり辛い時代だと思います。金がなくても生きていけるなんて僕は言いませんし思っていませんが、とはいえお金だけあれば大丈夫という時代はとっくに終わっています。ものさしをアップデートはもちろんですが、ものさしがいくつもあることが大事かなと思っています。経済的成功はまあほかって置いてもあるでしょうから放置しましょう。それよりも、自分の人生の満足度という意味で笑って死ねるというのもものさしです。今が良ければ全ていいなんて思いませんが、笑って死ねないのもまた悲しいことですから、笑って死ねるのは一つの僕のものさしです。

あと仕事においてやはり面白さはものさしです。もちろん現実的にはしょっぱい面白さ=つまらないということですが、それでもやらなければいけないこともあるでしょう。でも100%しょっぱいではいやだから、1%からはじめてもいいので少しずつ、面白さを増やしていくんです。または人がつまらないという仕事をめちゃくちゃ面白くやるというやり方でもいいですよね。それもものさしですよね。

人に優しいというのもものさしです。店員に偉そうに態度を取る人ってどうかなと思うのですが、多分普段お客さんや誰かにコメツキバッタみたいになったりしてストレスになってるのでしょう。彼が彼女が悪いわけではないのかもしれないですが、店員はたまったもんじゃありません。ミスはしますし、対応が悪いとかとは別に普通に偉そうな人ってことですね。自分も気をつけたいところです(笑)

疑うというのもものさしです。世の中に良いと言われていても本当だろうか。疑えっていっても疑わずに書かれていたり、権威、社会的地位!が全てを飲み込み、信じさせてくれたりしますよね(笑)フェイクニュース然り、いやいやそんなの分からないことも多いですから。全ては嘘というのは大げさですけどね。

人を何で見るかもそうだし、仕事も人生もそう。ここではとくに仕事だったり人生、生き方についてです。それらのものさしが例えばクリエイティブなものがいいなら、農業なり、イラストを描くとか、文章もそうだし、ゲーム作りでも、色々と楽しいことが多くなります。それらをやってる人にリスペクトということになります。クリエイターは豊かだよねとなります。もちろん豊か=経済的ではないですよ。あと別にクリエイターは経済的豊かになれないなんて思っていなくて、豊か=経済的豊かさというものさしになっているのがあれってことなんですね。貧乏しろとか清貧だとか、苦労しろって話でもないです。ものさしを増やせば視点も広がり、色々と面白くなるし、僕は人生が豊かになると思うのと、アイデアや企画や好奇心や世の中が楽しくなると思っ知恵ます。

そもそも人は自分に甘いものである

自分に甘いと嘆かなくていい。みんな甘いですから

社会人でよくあるのは学生の時に勉強をもっとしておけばよかったというような話です。一方で学生の時に社会人になると勉強ができなくなる(時間が取れない)ことをしって、ちゃんとやれる人はあんまりいないでしょう。それくらい人って自分や現状に甘いからです。自戒を込めつつ書いていますが「甘い」んですね。「なんとかしないといけないとは思っていますが」という時は言い訳ですね(笑)はい、すいません。

学生でなく、経営者であろうが自営業やフリーランスであろうが、会社員や公務員やクリエイターや研究者や起業家やプログラマーや主婦や派遣社員やらなんであれ、誰であれ甘いんですね(笑)僕も甘いです。

つまり人は甘いと。そもそもが甘い。アマすぎるくらいでいいと思います。そういう人が自分がですよね、そういう甘さの中でどうすれば何かしらできるようになるか。

このブログではなんとも書いていますが、やはり環境構築しかありません。具体的に言えば、環境とは自分がやりたくなる、または集中したくなる、または達成したくなるようなものです。例えば仲間づくりであったり、楽しくなるような仕掛けづくりです。

これは基本的に僕は脳を誤魔化しているといってもいいし、自分をハックしているといってもいいし、とにかくやるモードになったり、やりきるまではそれをやり続けると。結果的にそれは実績や結果になります。仮にやりきれなくても失敗や振り返りのネタとして使えますからここはポジティブ云々でなくただ誤魔化してやればいいというくらいです。

甘さを克服する=ごまかすことではありですが、甘さ自体は本質的に変わることはないでしょう。つまり、人間の性能?としては「自分はこれくらいで力を出さずにやっていればいいのだ」という環境であればそれなりの結果というか実力というか力しか出せないと思います。もちろん、これには「快適な環境」というのも大事なので、多分矛盾するものでなく両立できます。

快適な環境とはヌルい環境でなくて、要は安全とか安心な環境ということです。チャレンジングな場とは例えば新しいことや誰もやってないことをやっても止められないし、すすんでやれる場所や環境です。ですが、それは結果もある程度求められたりします。そういう意味では心理的には快適だが、ぬるくはないわけです。

大事なことなのでもう一度書いておきます。環境構築においては、自分の実力を成長させるとかやりきるためにある程度の負荷が大事です。ですがその負荷は無理なことをやるとか、背水の陣を乱発するような愚かなことでなく、適度な刺激に過ぎません。スパイスくらいですよね。辛すぎて食べられないのはやり過ぎ。でも、心理的にはつまり「新しいことをやる」という環境は守られる。やってもいいしチャレンジしてもいい。そういうことをやっちゃいけない環境であれば、成長も阻害されると。もっとも自分がやりたいことを全く出来ないのであればその場ではできないので、違うところでやるなど考える必要があります。

自分の意思は放置。環境への適応能力を適度に活かそう

甘さを克服するには、自分の意思とかでやるのが最も微妙で下策になりやすいと思っています。僕も自分の意思でブログを書いていますし、仕事を作っていますが、これらも結局そういう環境に追い込む方が有効だという考え方です。少なくとも意思でやれるとは思ってません。ただ、意思でやっている部分が0ではない。ただあなたもそうですが本能を信じるのも大事です(笑)直観とかですね。

笑えると思いますが僕が学生時代に野宿旅で自転車で日本を縦断した経験があります。これもネタですが、野宿ってあなたはしたことがありますか?野宿するポイントって学習できるんですね。やってるうちに最適なポイントが分かってくる。人気があるのは困るが、全くなくてもやばいとか。場所的に良い場所とか立地があるとか。これらもやってるうちに見えてくる。経験で分かるとか実践で分かるという話もありますが、ここでは「野宿旅」をするということで縛りがあったので、もともと「野宿するスキルをつけたい」なんてことはなくて「単にお金がないから節約していく」ためには、自転車+野宿が最もコスパが良かったわけですね。うろ覚えですが、30-40日間で、かかった費用は15万円くらいだったと思います。もうちょっと安いかな。タイヤ交換とかもあるし、あと野宿オンリーでなくユースホステルとかも泊まったり、観光もしてますのでまあそんなんですね。食費が最も多いと思いますが。

ですので、そういう環境で人は構築されるってことが強いだろうなと思っています。最も自分の合わない場所で何かやることが価値になるというまでは思ってなくて、それって無駄じゃないけど違うものがあるかもしれない、ここらへんは分からないです。ただある程度自分のやりたいことや目的や目指すところと重ねていく感じで、環境を整えて構築していくこと。

それによって自分の意思とかだけでなく、「ああ、朝起きたらテント畳んで走らないと進まないよね」なので、本当に毎日10時間くらい自転車にのって漕いでました。自転車は好きなのと相棒なので苦にならないというか、好きでした。好きだからできたというよりも、もっと大きな視点でいえば「自分が自転車で旅をしたい、そしてそれが出来るなら大きな自信になるのではないか」と思ってやったんですね。

あまり書くと脱線しますが、そういうところで僕も自分に甘いんです。この縦断経験は多分他にやってる人もいますが、珍しい方でしょう。あなたはどう思いますか?自分には出来ないと思いますか?それとも出来ると思いますか?僕はそういう経験をしているからこそというよりも、経験があるからこそやはり適切な目標や環境づくりはめちゃくちゃ大事だなと思うわけです。

人は自分に甘いものだ。本質的に自分は可愛いからですね。保護や防衛をします。それを取っ払うこと、0にすることは多分出来ません。であれば、出来る範囲で環境構築で強制力や何か追い込むことが大事です。その追い込みや環境の作り方は技術がいる部分とそうではない部分がありそうです。簡単にいえば、技術的なのは心理学や社会学みたいな自分の感じた方、思われ方みたいなものでしょうか。技術ではないですが実際に「これ効果があるか検証してみよう」といって動くのも大事ですね。

そもそも人は甘いものであるという前提から考えていれば、ダラダラ過ごす3時間もあれば、集中する3時間もある。そして人に誘われるのを断れない人はやはりついつい自分の時間は減りがちになる。でも、それが悪いかというとそうでもない。という言い訳も常にできる。その上でそういう誘ってくる人を遠ざける仕組みを導入すれば自分の人生に勝ったともいえるし(笑)それでは友達がいなくなるかもしれないから断らないというのもありです。これは選択であり決断であり、決定であり、あなたの人生なので正解はありません。ただ断るなら別のところでフォローするとか、ちゃんと説明するとか、またはそれで断られて友達でなくなるなら友達でないというやり方もありますよね。

どうすれば物事は達成できるだろうか?

自分がやりたいことがある、何かした方がいいし、ある程度やりたい方向はある。

よくやりたいのだけど行動出来ないという人がいます。ここで本気でそれをやりたくないから駄目なのだという話はかなり精神論であり、乱暴なので全くそうは思いませんが、自分に対しては別です。

例えば僕が何かやりたいことが出来てない場合、原因分析以上に環境に対して何かまずいのではないかというアラートとして察知します。やり方を変えるのもあるし、まず原因は何かを見極めることもあります。そういうのって、やりたいからこそ勝手に体が動くのだと思いますが、やりたくないなら多分やりません(笑)

直観的に物事を達成出来る、何かやるべきことを出来る人は、その分解や持って生き方がうまいような気がします。僕はそれほど上手いと思っていないのですが、見る人には「設定したことをきちっとやれている印象」にもなっているかなと思います。

自転車で日本縦断は計画的に行ったのですが、想定通りで30-40日間で達成ができました。その成果というか感慨深いというか今でも経験としてやってよかったし大きな人生の糧となりました。本当にやってよかった。人からみれば単なる趣味だし、自転車好きは変わってるね(笑)かもしれませんけど、それはそういうものでしょう。

ブログが1年8ヶ月継続したのは「続けたい」からよりも「仮説検証が好き」のほうがしっくり来る

このブログは、2016年から本格的につまりはブログ読者を意識して書いていったらどうなるんだ?ということで実験として書き始めました。実験とは内容が嘘とかそういうことではなく(笑)、試みとしてどうなるかという気持ちを持って仮説検証みたいなことがあるということです。例えばSEOとかブログ記事は読者にむけて書くってなんだろうとか、そもそも何を書いたらいいのだろうとか、色々と検証すべきことはありましたし、今も当初よりは薄れているものの、どういう形にあるべきかは気にしています。

そんなブログも気づけば1年8ヶ月経っています。ブログを継続したいとか継続していかないと駄目とかそういうことはもう既になくて、ブログが習慣化されているのでその場で何をやるか。そして時間の話であれば、命の時間を使うのだから、価値あるものにしたい、または学びや気づきや何か得るものがあるとかそういうことを設定したい。最も仕事に結びつけばいいわけですがそういうものって徐々になので焦らずですよね。とはいえ、あーだこーだいっても書かなければやはり何もないのでやはり書くわけですね。

継続も10年20年選手もブロガーにはいるわけで、または趣味や仕事などでやり方が変わりますので比較は意味がありません。ただ継続においては、きちんと自分のやることを設定する。少なくとも1年8ヶ月書いて分かっているのは、そりゃテーマはいるよなーとか、書く内容でやっぱ手応えは変わるなあとか、見やすく読まれやすくするほうがそりゃ読まれるよねえとか、そういうことを確認していく形です。

とはいえ、書くことで自分が面白いとか、考えが整理できるとか、それによって読者が役立つ。役立つとは、全ての記事が誰にとっても役立つということは考えてなくて、誰か一人でも読んだら参考になった、または読んで無駄ではなかったと思ってもらえるくらいです。

そういう方針はいいとしても、ブログを継続することが何かを達成したことになるかはちょっとよく分かりません。ただ、例えばですがブログを1年やってみるみたいな目標を立てたわけではないので駄目なんですが、そういう目標を立てていた場合、達成といっても怒られないでしょう。少なくとも未来に掲げたことが出来たのだから、命の時間を390時間使ったのか、それとも100時間だったのか分かりませんが、少なくとも1時間くらい1記事に使えば、500記事くらいあるので500時間くらいは使ったりしているわけです。平均1時間なので短いのもあるし、もっと長いのもあるわけなので、ざっくりですけどね。

500時間使って出来ることは色々あります。人によれば、資格を取りたいから1000時間いるから、500時間あればそちらの勉強をしたいなんていうこともあるでしょう。ここでは僕の場合、ブログによって自分の城、または自分に対する興味や考え方を踏まえた上でコミュニケーションをしたい、とはいえ別に誰かと出合いたいみたいな友達が欲しいとかではなく、あくまで仕事というところですね、そういう狙いがあります。

そのために500時間を1年8ヶ月で使うことは惜しいとは思いませんでした、となりますし、全てそれは仕事のためかというと自分のためであり、自分の内省的なものやメモ的なものもあるのでなんともですね。ただ、面白いと思ってやっています。

目標の立て方とも関連しますが、物事を達成するには強烈なやりたいという欲求が必要だと思われがちです。ではこのブログ自体の継続はなんで出来るのでしょう?そこまで継続したいのでしょうか?それとも何か別のものがあるのでしょうか?

学びや気づきを得られるかの設定をしてそれを柔軟に変えていく

最初の話であれば情熱が論理を超えるから情熱や思いが大事です。やりたい、これをしたい、お金持ちでも稼ぐでもいいし、学びでもいい。でも、そういう強烈な欲求ってやはりすぐ消える気がします。長続きしないということです。短期的に終わってしまう。虚しさすらあるかもしれません。と、僕は思うわけですが、それが常に続く人ならそれでやれると思います。僕は続かないかなと思ったりします。

どちらかといえば、小手先のことはいいので本質的にはどうか。本質的に自分に合えば如何ようにも出来るし立ち回れるしというところがあるのだと思います。つまり、自分がやりたいことを設定した時にそもそも設定の段階で全てが大体決まっている。少なくとも成功可否とかうまくいくかはやってみないと分からないものの、自分がどう振る舞うかの行動についてはある程度の経験があれば概ね予想できる、という話です。

例えばブログであればブログを殆ど書いたことがない人だったり、文章を書くのが苦手な人が毎日1記事1000文字書こう。これは苦行です(笑)というかこれは単に目標設定がまずいんですが、目標設定がうまくなるには、自分のいい感じの適度な、成長刺激を自己分析しておいて、そこから行動目標を設定するとなります。

つまり、書いたことがないなら4行日記からはじめるか。またはWordやブログの管理画面を立ち上げるとか、文章を何か書くところから始めることになります。そんなことをしていては一生出来ない?という焦りは分かりますが、多くは誰もがそういうスタートであり最初は誰でも初心者です。

そして1記事を毎日書くなんてことをしなくても、1回書いてみて振り返る。例えば書けそうか、毎日はいけそうか、一週間に1回ならいける?でも、それだと忘れそうとか、色々なモチベーションと行動の調整があるでしょう。そこを1発で決め打ちせずに柔軟に変えていきます。こういう作業において人のやり方を参考にするのは一定の価値がありますが、人は人、自分は自分という割り切りと、同時に人と自分は共通している部分があるという学び方、参考の仕方もある気がします。

あまり他人ベースだとなんかツマラナイし、自分ベースが強いと独りよがりとなります。結局どうすればいいんだってことになるんですが、適切な刺激と適切な行動目標をある程度出来れば習慣となるので、あとはわりと惰性パワーで行けます。惰性というと悪いイメージがありますが、少なくとも、最初1記事4行日記で限界だった人が、毎日2000文字書いてももっと書きたいし、書けるという成長になることって普通にありますし、可能です。

それは単に人は学ぶし成長すると言うだけの話なので、どちらかといえば、成功とか一定の目標までをどう分解して、それを学びや成長というものに変換出来るか。出来ればあとはやるだけとなります。最も毎日書くとかそういう中で面白みがない、または学びがない、楽しくないのが続くならちょっとつらいですね。僕は少なくとも文章を書くのが好きという前提がありそれでやってるので、楽しくないとかやりたくないけど文章を書かないとねーという人には全くオススメできません。むしろやりたい楽しい面白い方法でやるのがいいと思います。というかそうしてください。

プロセスタイプがいいから逆算タイプはだめとかはなくて、どちらもうまいところ入れていけばいいというわけです。つまり1年後に100記事だーとかアクセスは5000は月間欲しいとか。それってものすごく仕事っぽいからこれは仮設定くらいでいいと思っています。ちなみに1年後にそれを達成出来ない場合どうしますか?とくに何もないなら縛りは弱いですよね(笑)あと罰ゲームとかそういうことをしても微妙ですよね。そして、プロセスとしては、日々の成長です。上にも書いたように1記事とか1アクションが学びや気づきになりえるかってことですね。記事を書いたり調べることで面白かった、気づきがあった、自分の考え方が整理できた、なんでもいいんですよ。それがあれば多分「人は繰り返す」と思います。これが上司に日報書いてね、決まりだからではまず書かないですよね(笑)要は自分の餌付けであり、モチベーションであり、どうすると動くの自分?ってことを考えることになります。

よくご褒美や我慢してたことをやれるとかもありですが、これは自分ならやれるという自分でしか通用しないことでオッケーです。他の人に適用するわけではないですし、自分の世界ですから。ちなみにブログではない例でいえば、僕はアイデア出しの気持ちを高めるためにアイデア通帳というのを使ってアイデアを出すたびにそこに簡単なお題とシール(笑)を貼っています。シールは鳥のシールとか色々ですけど、遠目で見れば小学生女子みたいな感じでしょうか。笑えますがそれでモチベートされるし、通帳一杯やれば嬉しいです。シールがおかげさまでどんどん減っています。子供だましだ!という指摘は半分正解です。逆に不正解なのは、そういう子どもだましがワークするのにやらない人はやはり・・・となります。多分そう思わない人は多分自分なりの工夫を仕事や自分を「騙す」または自分が動くポイントを知っているのだと思います。

ちなみにこの話はライフハックというよりも、色々な場面でそういう話を聞きました。自分に甘いというところでも書きましたが、その甘さにおいて自分が動くのって、楽しさや面白さとか、そういうことしかありません。僕は学びや気づきファーストみたいになっていますが、実際に面白そうって思うのは何か得られそうだぞとか、これもしかして楽しいかもしれんというのが直観的に働いているからです。学びや気付きは後づけで色々言えますからね(笑)

例えば頑張ったらケーキとかで燃えるならそれでいいんですよ。でも、ケーキはだめだなあ・・。好きなゲーム買いたいとかやりたいですならそれで。その設定が甘いとやっぱり駄目ですね。つまり、自分が踏ん張ってやるくらいの何か設定がきちっとないと動けないです。これは目標設定の話ですが、多分こうやってやるといいというよりも、いくつかやってみてワークするものを選ぶということですね。アイデア通帳も馬鹿げているのですが、劇団ひとりという芸人さんがどこかの雑誌で自分ポイントみたいなのを作っていたのを見て、この人面白いなと思って採用したのがあります(笑)そんなもんですよ。

適切なタイミングで自分の行動を振り返る

別に僕は経済的に成功しているとか思ったことはないですし、思うことはないでしょう。とはいえ仮に経済的成功状態となった場合に奢る=つまり、自分は出来る人間であり自分は優れていると思うことはないでしょう。正確には1時間くらいそう思っても残り23時間でそういう浸ることはやめるし、変わっていくし、自分の役目は終わったとして別のことをするでしょう。

という謎な設定が僕にはあります(笑)

そして先程の続きで、ブログが続く成功理由というところでいくと、やはり振り返りです。最近研究しつつあるのですが、振り返りめちゃくちゃ大事です。

例えばブログ運営を1ヶ月振り返りということを本ブログでもやっていますが、読者にとっては例えばアイデアを求める人にとっては価値は低い記事でしょう。ただ、ブログ運営をしているとかこれから考える人にとっては結構価値があると思っています。少なくとも僕は人の運営記事を見て面白いと思いますし、参考にしていますから。

適切なとは一応1ヶ月とか3ヶ月とか1年とかそういう区切りがいいようです。ようですというのは、これが毎日振り返る方がいいかもしれないんですが、毎日振り返られるネタがあるか、または気付きや発見、行動や変化がないと振り返られないと思います。物理的にですね。

また1年という期間があっても、1年わりと変化がないとことで例えば勤めていて事務系とかだと結構変化はないでしょう。もちろん内面やプライベートや同じような仕事でも違いはある、はずなんですがそれを見つけられることは多分継続してわりと楽しめる状態なのでまた違うのかなと思います(たまたま新幹線ガールの本を読んでいますが、同じような売り子でも全く意識が違うのはやはりお客さんに何を売りたいか、ここでは価値をどう提供するか、より喜んでもらいたいといういわば高次?の設定があるからですね。これは意識が高いというわけですが、その意識がなければやっぱただの売り子だよねーとなってそういう人はおそらく仕事はできても楽しくないか合わないので辞めるでしょうし、続かないでしょう。)

1年を振り返ってもある程度何かしているとか気づき量が低ければ意識が低いってことですかね、そうであればやはり振り返ることもありません(笑)それはそれでいいという見方もありますが、僕はそれって寂しいと思っていて、振り返りが楽しいとか振り返ることがあるとかって何かを考えると、やはり成長にたどり着きます。つまり、振り返ることが成長につながるし、成長したいし、成長を実感したいし、成長につながることをしていきたいと思っていることに気づいたわけです。

振り返りを毎日する場合は行動量が半端ないことが前提

だから、振り返りが毎日でもいいけれど、その場合相当色々やっていれば意味があるし、振り返りしても何も出てこないならやはり行動が足りないとなります。つまり、振り返りができる=成長できている=それなりに行動している=1日動いている、ということになります。変化も早いし、成長も早い。

振り返りをしていない人でも成長は出来るのでしょうが、仮説検証とかも、結局振り返りです。つまり、仮説を立てて行動してやってみたらうまくいった、いかなかったという部分が出てくるので修正してまたやる。検証=振り返りに近いですかね。

逆にいえば振り返りを毎日している、かつそれで成長を感じている(感じてないとか、振り返りだけしていて行動がないとかなら意味がないと思います)なら、毎日でもやったほうがいいでしょう。だから適度な振り返り期間が必要だと、結構長年やってきて今更ですが思いました。

ブログであれば1ヶ月は僕は適切だと思っていますが、一方で平均10-20記事くらいは書いていて、しかもそれなりに考えたり調べたりという行動が後ろ、つまり記事を書くとは調べたこと=書いている、だけではなく、実践、考える、検証する、ということが入っているから独自だったり、面白さがあるんですね。そこを見ないというか意識しないと「出て来る文章だけ」を見るのですが、本来は後ろにめっちゃ何かあるということを意識しないと駄目ですね。駄目というか、それがないとやっぱ薄い内容になりますし、説得力とか深みみたいなものはないでしょう。

例えば1ヶ月で1記事くらいのペースの人が悪いとかでなくそういう行動量だったとしたら、例外として濃い何か研究を1本あげるとかもありますがここではスルーします、それは半年くらいたって5,6本なのでそこではじめて振り返りが意味が出てきます。つまり行動量、検証量が低ければ、振り返りの価値も低いし、結果成長につながりづらいということですね。

振り返りをすればいいとか成長できるってことはなく、適した行動が必要であるとなります。

物事の達成は日々の成長にある

ではその振り返り、成長、行動をすることが物事の達成とどうか変わるか?これは、そのまま考えればいいのですが、成長しているからこそ、物事、つまりブログ1記事書くとか、行動しているからこそ、結果的に継続が出来るし、かつ「1年前に始めたブログ」とは全然違うブログになっている、ブログが成長するといってもいいし、僕の考えていることが変わるし変わってきたといってもいい。それこそが達成じゃないか、と思うわけです。

なんとなくでいいので、物事の達成とは何か難しいということでなく、成長をすればできている。すなわち、行動であり検証でありということをやっていけば自ずと出来るとなります。これが僕がいいたいプロセス型の物事達成かなと思っています。

成長をしていれば目標は要らないかというとちょっとそれは違うかもしれません。そもそも成長の段階で、適切な刺激、そして適切な目標設定があるので、1年後のゴールとかで逆算してなくても、1日毎または1ヶ月くらいで短期の適切な目標設定があるだけなんですよね。これはもう気持ちというかメンタルの話です。また逆に逆算タイプでやると日々成長がないというとそうでもないでしょう。プレッシャーや1年後みたいな未来感を感じるところに体や成長を自分を持っていけるか。それだけなのかなと思ったりします(笑)

さらにいえば、そういうことって毎日放置してもやりたい、ウズウズしてくること、ワクワクですね。そういうことになります。安易に好きをやればいいとは思いませんが、でもそういうワクワクをやらない人生もやっぱつまんないですよね。というか、好きなことをしていて自分の人生が楽しい人を批判してくる人に限って大体は自分がうまくいってないとか、戯言にすぎないので放置でオッケーです。自分に集中出来てないからこそ他人をターゲットにします。

または、自分の人生は好きなことがないとか楽しくないなら、それって誰の人生?というところを一瞬でも考える事ができれば、自ずとワクワクになるのかなと思いました。そういう好き好きパワーこそが、結局誰にも真似できないというか、少なくとも自分しかできないことであり、行動の源でもあります。人間で言う水分みたいな、根本的なものです。

好きでやってる人は燃料が無限だから強い

さらにいえば、そういう好奇心やなんでだろう?おかしいな?というところがなければ、変化を感じたり変える事もできませんから、好きとかワクワクって本能的で原理的なものだとすら思います。いやいや論理だよ、合理性だよ効率性だよというとき、仮にバトルになった場合、好きでやってる人には叶いません。

理由は色々あるのですが、時間軸が無限にあるということでしょうか。例えば、本を書いて人に何かを伝えたいというために書いている人がいるとします。自費出版でなんであれその人は書き続けます。その内容がどうかはひとまずおいておきましょう。

一方で商売であり職業作家でありそれでプロだという人がいて、仮にこの人がそこまで書くことが好きでないとします。

森博嗣氏の本では、書きたくないというときでもプロは書けるという話があったのですが、確かにそれもありそうですが、そについてはプロが継続できるケースなのかなと思ったりします。一応例外としておきます(笑)

ここでは、何か伝えたいから書き続けるいわゆるパッション重視でとにかく書くみたいな人と、プロの書き手みたいなこととします。ざっくりですが。

その場合、プロであれば売れる本をコンスタントに当てていくことができなければ撤退です。正確には二足のわらじプランであればそこまでシビアではないですし、プロの定義も色々あるのですが、ここでは好きな要素がそこまでないというケースです。ですが、40年くらいそれをやり続けるのは大変です。時間が40年もないかもしれません。5年とか10年くらいかもしれません。

一方でパッションで書き続ける人は、好きなので書くんですよ。だからやり続けます。やめろと言われてもやります(笑)好きなので。恐ろしくないですか?まるでマシーンのように書き続けられる。もちろんそれで内容が面白くないとかって言えるのですが、大体そういう人で、少しでも他人や面白いものとしてみるという意識が少しあればどんどん上手くなりそうです。なぜなら書き続けている行動が半端ないのであとは少しベクトルを変えたり編集したりするだけですから。行動がないのにこれをやると大変です。無理していますよね。そして死ぬまで40年くらいは普通にやるので、しかも誰からお金をもらいたいとかそういうことでもないんです。それで続けられるのってすごいですよね。これが好きということです。もちろん度合いもあるし、人によって40年やれるかが好きというのは言い過ぎですけど、少なくとも自分が人生の中で好きでこれは譲れないものって40年くらいはやれるはずだと思っているんです。僕はですよ。

ここでのプロの作家さんは10年やったけどやっぱ駄目だったし、そこそこ売れたけど厳しいなで辞めます。もちろんこういう作家さんも多分昔は好きでおれも書いてたよでもね・・・と言いたいのでしょう。一方で好きで書けない仕組みに入ってそこでやったのは誰か?もちろん商売とはマーケティングであり、営業であり、商品をどう売るかなのであるから、何か作品を書いていればいいとは思えません。ですが、多分ですが、好きでやっていたことが仕事になり、それが商品となるからこそ、そこでお金になり生活が支えられたからこそ、次第に好き好きパワーが薄まり、好きな仕事から、仕事だから書く、商品としての文章であり、そしてそれが売れる方向になっていき、売るために書く生活のための文章であり書くことであり・・・となっていって、好き要素が極端に減ったんじゃないかと、僕は考えています。

この二人がバトルするとすると、例えがあれですが先の戦争で日本軍が必死になっていたところを、アメリカのパイロットは休暇を取っていたみたいなところとか笑えない話になります。つまり、無尽蔵の燃料や食料やパイロットなどの戦闘員の補給システムやケアがある仕組みと、特攻してそこで食料がなければやばいみたいな戦いをしている感じに近いなと思います。

好き=無尽蔵であり、義務感は結構軽く尽きる。もっといえば、好き=一生だけど、義務感=10年くらい、今だと3年くらいかなとか思います。別に職業作家が駄目とかでなくて、好きで書き続けるにはどうしたらいいかということを考え抜いた人は多分継続システムと自分のモチベーションをうまーく保ててているしだからこそ成功しているのかなーと考えられます。

ここで、好き好きパワー=継続と成長に使う、義務感は環境構築に使えばいいのでは?と一瞬で思った人は多分センスがあります(笑)というか、そういう人は多分自分のやりたいことは多分できるし、できちゃう人なのでこんなブログ読んでないでさっさとやってください(笑)たまに見に来て下さい(笑)

好き好きでやっている人には叶わないとは、もちろん書くスキルとか商品力では完敗かもしれないけれど、ゲリラみたいに常にやってくるんですよね。これは怖いわけです(笑)もちろん、では好きでやっても趣味であってお金が稼げないから駄目じゃないか。そう思った人も多いと思います。それは確かにそうなのですが、一方で継続できないシステムってどこまで価値があるか、どこまで良しとできますか?って話です。

結局、プロや仕事で一定のお金が得られることであっても継続という長期または数年以上は当然の仕組みが大事ですよね。アマチュアで好きでもその仕組がなければなんかやっぱやだかなという人もいそうです。ですのでここまでをまとめると、

継続の仕組み=好きであること、ワクワクすることが燃料となる

お金を稼ぐ仕組み=お金を得るとか、お客さんに喜んでもらうことが燃料となる

もちろん仕組みって言葉に継続って意味合いも含まれるんですけど、それ以上に好きとお金をつなぐものって、このバランスがいい感じにはまることじゃないかと思ったわけです。当たり前のようで、ここのさじ加減から逃げるとやっぱなんか駄目だなと。

好きだから継続できる。継続しつつお金を稼げる仕組みがあるから成立する。とすると、どっちも大事だよねという当たり前の話になります(笑)

燃料である好きを軽視してもいけないし、お金を稼ぐことをしたいのであればですよ、あくまでここではビジネスや商売という話があるのでそういう人が多いと思っています、やはり稼ぐ仕組みが大事になるので、好き燃料を投下してビジネスという機関車を動かして、お客さんに喜んでもらう、いつも運んでくれて助かるわーって。三方良しってそんなことだと思いますけどね。

そして成長の話とはずれたかもしれませんが、好きだから成長できるし、お金にもしたいと思う。そのままいきましょう。そして仮説検証工夫ってことでトライし続ける。エジソンの話でもダイソンの話でもなんでもいいんですけど、諦めないってことですよね。明らめる理由が分からないと思えば完璧です。僕も同じです。好きなら燃料は尽きません。あなたはそんなことはないですよね?尽きたならそういう興味だったと思えばオッケーです。他の好き、燃料があるものをやればいいだけですから、1つの好きをやれとかって話でもないんですね。もっと乱暴にいえば、ワクワクであればいいので、多くは好きですが、ワクワク=楽しさ=面白さは好きとは違うならそれもワークしそうです。

ぐだぐだいってないで行動しよう

この言葉はあなたや読者に言いたいのではないんですね。僕に言っています(笑)ですから、筆者は筆者に言っているんだ、くらいでそれで思うことがあればぜひあなたもそうかもなーくらいのスタンスです。

僕も色々言い訳をしたいというか、できないことに対して自分の能力不足を認めることって悔しいじゃないですか。負けというか、勝負してなくてもですよね。

そう考えると勝てる試合で勝ち切るのも大事ですけど、そもそも自分に負けていて勝てるほど勝負の世界は甘くありません。ここでの勝負とは競争であり、ビジネスであり商売の話です。もちろんブルーオーシャンだといって逃げればいいのですがそのオーシャンは魚が誰もいないから魚とりに行って成功すると思ったらやっぱ大変なんですね。だからこそ、甘いものはないよと、そして人は甘いものだよ(笑)というところで、甘さに流れる易きに流れるところの中で、自律をしようと。

でも、その自律ってここまで読んで頂ければ見えてくるんですが、環境構築とか好きとか仕組みとか振り返りみたいなことをやってある程度仕組みやら何か安定した習慣を武器やツールとしないとできんぞと。少なくとも僕はそう思っています。他にも考え方があれど僕の考え方の中や違う解釈出来る中でないと義務感や言われた感しかないのでまず行動できませんからね。

行動をするとは結局そのうえでやることになります。こっちのほうが良さそうだからやるというシンプルに動けることは少なくて、ぐだぐだ言いたくなるんですね。言ったところで行動してないだけなんですが、ぐだぐだ言わないより言ったほうがいいくらい正当化してしまう。それが人間であり、僕かもしれないなと。

ここまでざっくりまとめると、

人生の時間は有限であり、命の時間だと。そして成長しない人生や嫌だし自分が面白いと思って死にたいし生き抜きたい。だからこそ、物事の達成ってミッションとかどうでもいいけれど、やっぱやりたいことやりたいし、思い切りやり抜きたい。しかもそれが少しでも好き要素があれば燃料は無限に近いから(興味が変われど、住む場所や何か変われど好きなものは好き)、常に勝負できる。お金やビジネスや稼ぐ仕組みを少しずつトライしていってどうなるか。そういう部分で成長というのがある。とくに振り返りで成長を実感するには、「行動」が大事。行動とは単に動けばいいわけでなく、仮説検証みたいな感じで一定の方針や問いがあって動くこと。

というところまで来ました。ここまで考えてる人なら多分行動しようとか言わなくても、さっと行動できると思います。行動しろって言われたからするとかそんなレベルでなくて、哲学や深い人生のやり甲斐や好きというところで動けるはずです。

その根本や本質的に落とし込めればもはや集中できないとか、やり抜けないという軽い言い訳は霞んで見えます。そういう深さは軽いジャブや誘惑では消えないし、むしろ効かないからですね。あと自分が成功しているかとか豊かなのかというのも、ぶっちゃけていえばなんでそれが好きなの?と好きでやってる人にいっても分からないですよね。だから、理屈ではないんだろうなと思います。

例えば生活費がいくら月あればいいとか、豊かなのかってわりと曖昧なので数字にするとなんか興ざめすることってありませんか?多分それって、年収をどれくらい稼ぐも同様で、300万でも500万でも1000万でも、単に月70万から80万あっても単に消費が激しくなるだけで、豊かかというと「贅沢」になっただけで、豊かとは別かなと思います。もっともこれは、お金を稼いで使う人に嫉妬ということではなく、むしろ消費頂くと経済が回るのでグッドなんです。ただ、お金がもっと欲しいという人が、つまり今は満足してない人がですよ、そういうことを目指すとまあ微妙だろうなあとか思ったりします。最も育つ環境が常に苦しくて経済的にきつかったという人はこういう感覚が身にしみているから甘いこというなって怒られそうです。ただ、それはそれで広い意味で環境といえるので、それでゴーしたほうがいいだろうと思います。

徹底的に人生のおける成長、または時間についてを考えると、仕事であるとか稼ぐことがどうあるべきか。とくに行動できないけどしていきたいという時に、行動をするということが必須科目になります。もっともここでは書いていませんが行動時間を減らして自動化するとかは必要ですがそれって行動をしている人が考えることであって、いきなり自動化わっしょいみたいなところでいける人は皆無だと思っています。自動化を考えながら行動するのはわりと矛盾していて、いくつかの行動や経験からパターンや仕組みが見えるからこそできるんですね。それがないところではやっぱ早いのかなと思います。もっとも考えてもいいけど、自動化にはならないというところが正しいでしょうか。

行動が必須科目ですから、行動できないは言い訳というレベルでなく、強い言葉をいえば放棄となります。何に対する放棄なのか?そうです、自分の人生のコントロール権、僕の友人は手綱といってますが(笑)その手綱を離すことになります。もう一度いいます。自分の人生の手綱を握らない。それって誰かに従って生きるってことです。別に人の指示に従うなとかってことではないですよ(笑)人生という一番大事な、あなたの人生が誰かによって決められる。そんなことはないわけですよ。

それって恐ろしいですよね。だから行動しましょうというか、もうグダグダ言えないじゃないですか。僕もグダグダ言いたいけど言えなくなりました(笑)一緒にやりましょう。

おわりに

僕自身の整理を込めて、考えたことを書いてみました。命の時間だから、例えばダラダラしちゃ駄目とかは全く思いません。ただダラダラするなら全力でダラダラする(笑)とか、思い切りダラダラするということが大事でしょう。メリハリってことですよね。

また1日が厳密にスケジュールされていて1分単位で動く世界を望んでいるわけではありませんし僕も出来ると思っていませんし、できないでしょう。ただ自律的にということを考えれば適切な刺激や設定が必須だし、それに対して好きとか解釈をして、例えば僕なら成長を感じられることが第一義に来るみたいな、自分をハックすることが大事になってきます。

さらにいえば、好きなことはお金にならないからやめようとかでなく、どうすればお金にできるか。という問いが大事です。また同時にここで提示したプロとかであれば継続年数が短くなりがちといっていますが、どうすれば選手生命を長くできるだろうか?みたいな問いも同時に有効です。多分どこにでも、好きかつプロで長い現役生活を送る人はいるし、もちろん平均プロ年数というのもあるので、市場や社会などの変化によって変わってくるでしょう。でも、プロ引退や商品で稼げなくなったから終りかというと、仕事が終わっても人生は終わりませんよね(笑)もちろん継続すればいいのだという何かこうすればいいみたいな一面的な話ではありません。そういうのって楽ですけど、そう甘くはないのが多くですよね。

その時に何をするかというよりも、何を大事にしていきたいか。まさに哲学ですが、自分の生き方が問われます。働き方といってもいいでしょう。プロ分野にいたからこそその分野に関わっていくのもありだし、全く違うことから組み合わせるのいいでしょう。僕は何をしても結局成長したり、そこでその人なりの仮説検証があるのであれば面白いのではないかなと思います。僕はですよ。

これがあれば生きていけるというのは一つあげるのは大変です。でも、僕が考えるに自分の中では成長なきところはやっぱつまらないなあと。成長というのは好きなだけで出来る何かではないとは思いつつもそれは好奇心や燃料として行動の源泉として、「好きじゃないものをやるのがいいよね」とはやっぱ言えません(笑)好きなことをやったほうがいいし、それで飯を食いたいならそのようにしていく。その時に問いとしてどうすればいいだろうか。があれば、それは仮説検証に成り得ます。

ある種そういう実験を僕は面白がっているからこそシゴトクリエイターとなり得るわけで、これを真似できる人が多いとは思っていません。ですが、仮説検証を同じようなレベルでやり続ける人ってたくさんいてその分野やアウトプットが異なっているだけなのかなと思っています。というか真似しなくてもいいので、ここで出て来るアウトプットを「へー」とか見つつ、こっそりでもいいので実践してみください。というか、ウズウズしてきたら自分でやってみるのがいいと思います。そうじゃないんだよというのも、行動で示してもらええれば結果的に行動する人になりますからね(笑)

ぜひ僕が書いていることも本当かなと大いに疑いつつも、好きで食えるわけがないとか食えるとかの二元論に陥らず、多様なかつもっと色々な選択肢や見方を得つつ、ぜひ仮説検証をしてどうだろうかそういうトライフルやチャレンジングなやり方を少しでもやってみてください。それって自分でもその失敗やチャレンジを笑えるかもしれないですが、笑えるくらいでいいと思います。でも、これだけは言わせてください。「絶対」という言葉は嫌いですが、「絶対」に価値となります。失敗はつきものですが、やはりそういう挑戦は学びになるんです。学びは価値ですし、自分をアップデートして成長させてくれます。成長したら、次は出来るかもしれない。それは商売やビジネスで前できなかったことが出来るかもしれないし、今なら企画が通るかもしれないし、いやー本当に色々と可能性があるんだと思っています。僕も青臭くもチャレンジしていきます。それがなきゃ生きている意味なんてないよね!くらいで。

以上長くなりましたが、一つでも参考になれば幸いです。

筆者プロフィール

シゴトクリエイター 大橋 弘宜
シゴトクリエイター 大橋 弘宜
「シゴクリ」運営者。アイデアの力でお客様に貢献するゼロイチ大好きアイデアマン。ビジネスアイデア相談実績等は200超を超える。好きな言葉は三方良し。詳しい自己紹介仕事実績も合わせてご覧ください。お仕事メニューお問い合わせはお気軽にどうぞ。

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