アイデアをどう消化していくか。欲求レベルの消化の話。
アイデアとか思いついたことをどうするかっていうことを、ふと思いました。
実際に僕なら、何か形にしたほうがいいのではないかと思いますが、多くは形にできていません。一方で他の人はどうか。
他人ということを考えると、あるAさんはBを成し遂げたというわけですが、実際にはAさんは失敗したし見えないCやらDやらEやらがあっただけであって、その中でBという認知が強いだけ、というのが多分適切な見方だと思っています。つまり、AさんがBのために向かったからできたともいえるけど、100%Bのみのためだったと言い切るのは難しい。これは高速道路か、獣道かという例えが分かりやすく、また本人でさえ結果的に高速道路でBのつもりが、獣道でBだったかもしれないわけです。
アイデアがぱっと思いつくとかは才能でなく、単にそうやって考えるのが好きか、考えたくなるか、そういうことをやって「良い」と言われたポジティブ・フィードバックがあるか、結果的に仕事になっていくとか、良いことになっていくなどがあるか。そんなところだと思っています。特殊例はありますが、そもそも考える習慣がなければ、アイデアが「生まれる」ことはないからです。
今回は、アイデアをどう消化するかという視点で考えてみたいと思います。消化というと悪いものかもしれませんが、どちらかというと養分としているか?という問いのほうが適切かもしれません。
そしてアイデアは僕にとって大事なもので、そういった大事なものをどう向き合っていくか。そのあたりを考えるという内容です。
長めなので時間がある時にでもゆるりとどうぞ。
目次
アイデアを自分はどう形にしているか
自分の話ですので、自分がどうしているかを書いていきます。
友人が何かアイデアを探していたら「ついで」に見つけて投げる
まず、これええーんじゃないすかというアイデアがあります。実際には誰かとの会話とか、考えているテーマや何かがあって生まれます。つまり最初に問いかテーマとか、何かあります。実際は日常、仕事、色々なものがリンクしていて切り離しはしづらいです。
例えば認知症ネタというのを集めているというか、友人が言っていたので思いついたらそれらをメッセージします。実際には思いついたらとか、拾ったらという感覚はかなり「あいまい」で、期限を決めたり、拾ってくるわーって感じではありません。
生活のついでというのが多分良い表現です。ここでいうついでとは、それこそ文章を書いたり調べたり、何か本を読んだり話を誰かとしたり、という刺激がある中で「あ、そういえば」ということが起こります。もっとも認知症ネタに関して本質的に関心が薄ければあまり集めませんが、僕も興味があるので適当なアンテナを立てているわけです。
例えば「考えたりしていれば認知症にならないっぽい」というのは科学的に大分言われているはずで、囲碁将棋とかでもいいし、自分の頭を使って考えて試せばいいみたいな感じです。発明家とかボケなさそうです。いいですね。アイデアを出しまくっていたらボケることはなさそうだし、何より楽しそうですよね。当然いくつかは形にしていく感じで。
このように、細かくいえば、自分が何かアンテナを立ててぐるぐるしている、ついで感がある中で拾ったら、とりあえず友人に投げる、どうぞと提供するみたいなことをやっています。これってボランティアなんですか、仕事なんですか、会話なんですか、色々定義したい人は山程いそうですが、ぶっちゃけここでは全く定義をしていません。どちらかといえば、認知症ネタとして拾ったネタや面白そうなことは「ついで」でしかなく、あまり僕にとって価値があるとは言えません。
正確には価値がゼロではないけど、友人が喜ぶならどうぞという感じです。しかも出してみないと使えるか分からないので、結果的には「期待しないでもらいたいけど、何か使えそうなネタを見つけた。多分こういうことがヒントになるんじゃないか。良かったらどうぞ」という「肉じゃが作りすぎちゃったから食べる?」(はあと)というものすごくカジュアルな感じです。実際には、意図的に作りすぎて渡すパターンもあるわけですが、そういう意図はなく、たまたま見つけたからが多いです。ただ「たまたまアンテナ」に入ってなければ本当に「ない」ので、それは最低限立てないと駄目ですね。
アンテナは人間関係性×ネタへの興味で強度が決まるっぽい
アンテナが立つのはわりと分かっていて、1つはお客さんなり友人なり関係性がある程度ある場合です。これは人との関係がないとやっぱ駄目ですね。見えもしない相手のためってのはきついってことです。
2つ目に、ある程度の興味がテーマやネタにあるかですよね。認知症?そんなのしらんなら駄目ですね(笑)テーマによっては全く「動けない」のもあるので、もちろんその人の伝え方や見せ方、解釈で全く異なります。例えばビジネスというテーマでも「その人に微妙感」があればやらないです。まあ普通ですよね。仕事でもないからですね。
これらを掛け算した感じで強度が決まります。
- そこまで関係性がない×テーマが面白い=結構強い
- 関係性が強い×テーマはそこまで=結構強い
- 関係性がない×テーマが微妙=そこまでやらない
- 関係性が強い×テーマが面白い=一緒にやっちゃう?
みたいな感じです。実際にはかなりグラデーションです。認知症ネタ自体は、テーマ自体はそこまでかもと思いつつ、友人との関係性も強いので結構強いアンテナとなったわけですね。
どうすると消化できるか?
ではこの認知症ネタでアイデアを拾ったりネタを見つけたらどうするか。友人に届けるとありましたが、情報を伝えたら終わるのでしょうか?
実際には終わることもあるし、そこから膨らんでまた違うアンテナになったり、違うアイデアが膨らんだりします。というわけで、正直そのネタがどうなるかって分かりません。
消化というのは、「見つけたネタなんか使ったらいいじゃないか」という程度の熱量がある程度満たされたら終わりと考えています。つまり、ゴールは非常に曖昧ですが、ここでは喜んでもらえればオッケーな感じで着地しています。
思いついたりしたネタをこのように「誰かに届ける」ことで、生まれたアイデアが生きているならば、そのアイデアは嬉しいんじゃないか。アイデア自体の擬人化をすればそんなイメージです。適当に捨てられるアイデアなんて悲しいからですね。
ポイントはこのように僕の中では日常的に出てくるアイデア、または思いつき、または拾ったネタや情報、話題というものをどうお題に対して関連付けるか。視点という方がいいのですが、それらの視点が出てくるわけです。こうしたらいいかも、またはこうじゃ駄目かもみたいな。
この出てくる、まさに温泉のようにどんどん出てくる!ものをなるべくそのまま源泉流しっぱなしも景気が良くていいですけど、一方で浴槽作ったり、露天風呂にして人だけでなく、動物にも入ってもらって喜んでもらうほうが楽しいよねって感じが多分正しい表現です。
こうすると、僕の中ではアイデアは一つの消化をできたな、または役立てたかもねという感覚になって満足できます。逆に言えばそれらで少しも役立てないようなら、力不足またはテーマや関係性ができてないということで早々に離脱します。というか、そうするかどうかって目利きとも関係あるので、最初からこうやっていたわけではないと思います。
自己実現欲求みたいな固めのアイデアの消化
実際に自己実現欲求みたいなものといってもいいでしょう。生き方ともいっていいでしょう。
例えば、僕と同じような人がいても、
- アイデアは出てくるけどビジネスにならないなら誰かに提供とかないわー
- アイデア出すなら形にできるか検討してからかな
みたいな人は多分僕のようなやり方をしません。というかできないというのが正確でしょうか。
どちらが優れているかはなくて、多分ビジネスビジネスしてる人には「ぬるい」わけで、一方で僕から見れば「ビジネスしすぎ」なわけです。正解はないのですが、一人の人生、生き方というところになってしまいます。つまり、僕はこういうやり方がいいし、それが面白い。で終わりな話です。
人生論が全ての人にそれぞれあるはずなので、それをぶつけてもしょうがないというか、相手を批判するだけで、とくに正解はないわけです。
そういうところを踏まえると、どこまでこだわるかということになります。例えば上でいう認知症ネタをビジネスにしたいかどうかだけです。またはそれを自分がやりたいのかどうかだけです。そう思わないからこそ提供出来るわけです。
それは常に変わります。最近でいえば本屋熱があるので、そこらへんで考えるとわかりやすいです。
あなたは本屋をやりたいか?
実は僕は本屋的なことをやりたいと結構思っていました。ということをあまりここで書いた記憶はないですが、ざっくりいえば、大学時代から本は好きでよく読んだつもりですし、社会人になってから読書会をやり始めて、しかも大学時代に図書館的なビジネスができんかと考え続けたものでした。結論はできてません。読書会も途中で、ビジネス的に考えると無理だなあと思って休止解散みたいな感じとなりました。
一方で読書自体は嫌いでないし、本屋は好きです。当初熱が熱い頃は色々な本イベントに行ったりしようとしてて、あの時は熱があったんだなあと思い出しました(笑)
さて、今僕が本屋をやりたいかです。これはYESです。実に本屋をやりたいのが正直なところです。本屋的なことをやれないかを、読書会のビジネス化も検討していた頃、色々な人と話した気がします。結論的には「やめろとはいわないが難しいだろう」というアドバイスが多かったです。結果的に、確かに難しいと言うか、戦略なりアイデアを練らないとまあ一朝一夕では無理です。
あるデザイン系書店を小さくやってる方がいて、当時軽く「こういうお店いいですね」というところで話してたんですがその方には「辞めておいたほうがいい。食えるとかではないし」みたいな話でした。その本屋はすでにそこにはありません。
現実が厳しいということを踏まえつつもどうしたらやれるだろうかを考える。当時試みとして、企画を色々やっていたので、モバイルブックストアという名前で、要は出張本屋とかをイベントでやれんかとか思っていました。実際にこのアイデアは少しイベントを大きくした時に、友人に選書をお願いするみたいな形で、かつ本屋さんに協力してもらって委託販売で行うことで、リスクがほぼなくできたというのがあります。本自体はそこまで売れないので本屋さんも宣伝がてらということだったんでしょうか。最近行ってないので今こういう企画が出来るかは謎ですが、ちょっとまたやってみたいですね。リスクがないのが素晴らしい(笑)でも、動いてもらう本屋さんの人件費もあるし、配達の手間もかかる。だからこそより売れるようにしていく必要がありますけどね。
そういう色々あった中で、今また本屋とはを考えています。新刊本屋を普通に場所を借りてやるとかはまずアイデアとしてないので、古本またはイベントのみで稼働する本屋。これかなあとか思っています。それが出来るかは僕の熱次第です。
これが本屋をやりたいかと問われた時に、YESという時の熱です。もちろんこのアイデア自体は簡単に実現できないかもしれないし、あとこのアイデアだけでお金になるとか仕事になるとかはまず置いた上でやったほうがいいわけです。僕がやるならまずやってみてどうかを検証しますから。
生き方の話として、こういういわゆる「儲からない類の話」または「仕事になりづらいかもしれない、より個人のやりたいことに近い話」は、興味がある人は多いのですが、なぜか「仕事になるかどうか」「お金になるかどうか」だけで見てしまう人も多い気がします。
今はそうでもないと思いつつ、そこで生まれる関係性とか、実験できるので経験値が入るとか、そこを見ないんですね。関係性とかって宝で、その人ととくにトラブルがないなら一生のご縁です。そうなると、人生が本当に文字通り変わっていくわけですし、変わり続けます。僕はそういう感覚なので、人から入ってその上で、仕事やお金になればいいなあくらいが多分適切だし、良い塩梅だと思って生きています。これは多分一生変わらない気がします。
脱線しましたが、本屋をやりたいかという自己実現みたいなことがあるとして、それをやりたいならやっていったらいいというのが一つの話です。そしてそれに対してどこまで「やりたいか」ということです。生きているうちに「できたらいいな」という表現でなく、「本屋的なことをやれないなら生きる意味がない」くらいなのか、追い込めばいいというか、どの程度考えて思っているかって話です。自発性であり、率直に自分を見つめる、問うという感じです。嘘をついていれば意味がないですから。
こういう自己実現アイデアをどこまで形にできるか。欲求が強いとか多いとかはあまり関係なくて、静かでも少なくてもどこまでそこに拘るか。粘れるか。諦めないか。そっちのほうが「消化」しやすいんじゃないか。またはきちんと向き合って消化している確率が高いのではないかとすら思います。
つまり、今現在で、僕は本屋をやっていません。また本屋自体を試みてできたという成功体験もありません。ただ今本屋をやりたいとまた思っていて、それが「熱」のようにほかっておけば消えるかもしれないけれど、またやってみたら面白いじゃないかというワクワクも同時に、大分あるということです。この時の「本屋やりたいアイデア」をどう着地させるか。人に話してプランで盛り上がっても良いし、前と違った形で形にしてまたそこで経験値を得ていくのもいいし。
現時点では、やはり本業になりえないと思うし、そこまでのコミット感がないので、イベントなど年に数回とか、面白くやらせてもらうことで、楽しむ。そんなことから人と関わって面白い人達に会いにいく。それじゃないか。そんな感じがしています。
人によって、このアイデアなり自己実現なり言葉は違っていても、形にしていくレベルが全く異なります。レベルが端的にいって低いなら行動をしたり、勉強をしたり、それこそ人と関係を作ったり、そういう行動を通して経験値を増やすしかないと思います。焦らずにやりましょう。焦ってすぐにやらなければいけないことってあまりありません。
妄想でもいいからそれを実現するにはこんなことを今したほうがいい。実際に現実で動いたらそれはあなたの経験値になる。僕なら僕が行動すれば僕の経験値になる。その経験値を蓄えていくのが嫌じゃないか。楽しいと思えるか。楽しいと思えるなら多分それは「アイデアを検証している」ことになるし、「経験値が見た目でわからなくても増えた」といえます。その経験は絶対あなたを裏切らないはずです。
粘るとはいつまでか?貯金がなくなるまでかとか、興味がなくなるまでかとか、タイムリミットを決めるのもいいでしょう。これに正解はないのですが、僕は生き方としてというのを言う時「生きている間」です。そして、生きている間に「それが興味をなくす」ことはないのかというのは、結構杞憂です。何度も試せばいいからです。例えば1回、2回なのか分かりませんが、本屋的だと思った行動を僕はしてきて、それで諦めたというか、一時期はお休みしていた。今また3回目なのか分かりませんがまた復活してきた。こういうやりたい気持ちは抑えることはなくて、適度に出していけばいい。
僕のやり方は「もしやりたくないとか、やる気がないなら進まないし、何も行動ができないはず」ですから、少しでもやったり、また再発するならそれは結構な興味だよねと、客観的に見ています。好きだからやりますというシンプルなことでもいいんですが、それでは自分にとって粘りが弱いと思えるから、回りくどい言い回しをしているだけですね。
やりたいことで粘れるか
結局は上の本屋をやる話でいえば、粘れるかどうかだけです。アイデアという意味では重いかもしれませんが、本屋アイデアがあってそれを形にするかどうかだけです。
その場合形にできるかどうかでいえば、できるかできないかだけですが、実際は本屋っぽいものを目指したらカフェになったり、本屋っぽいものを作ったらそれは人との会話だったり、アウトプットや形がずれることが普通です。
その時「あれ、自分は本屋っぽいと言ってたけど、実はこれって人と会話すれば満たされることじゃないか」と気づくわけです。実際は本=対話であるとき、かなり近いです。だから人と話すのは楽しいです。まるで本なのか人なのか、考え方通ってる人と話すとそれくらい「シンクロ」しますから。
少しでも粘りがあって、形に出来るなら、アイデア自体は変化し、また違う形になり成長します。僕の例でいえば、読書会は読書会で面白かったし、本屋ぽいことをイベントでやることもできたし、友人と一緒にやる経験もあったり、僕だけが考えるアイデアでなくわりと本屋をやりたい人なら同じようなことを考えるかもしれないし、とか思ったわけですね。
そうやって小さな思いつきやアイデアも、実は少しずつ成長して塊になるか、見える玉になる。それこそが自己実現とか自分にとって生き方だと思えるようなアイデアの消化じゃないかと考えました。
出てくるアイデアの多くは自分でできない。物理的にも、技術的にも。
実際に確率論では1%くらいでしか自分が考えて自分が出来ると思っていません。また人にアイデアを出してもそこまで変わらないと思っています。
もちろん特定のジャンルを極めた人に対してそこで出来る確率は高まるのでもっと確率は上がりますが、とはいえそれが50%とかそんな確率になることはまずないです。
ある本では失敗する起業とか新規事業はないと書かれていて、言い方が妙ですが言わんとすることは分かりました。
つまり、前もって調べて検討してそこで駄目なら捨てるということで、残ったものをやればほぼ必ず成功するという話です。
理屈ではそうですが、多くのことは、例えば本屋の話でいえば、読書会自体とかイベントをやるとかは一つのプロセスでありそれらを試して今本屋的なことをやってないならひとまず「失敗」と言って良さそうです。その時に全てのプロセスで失敗したものだけ捨てても成功というのはないかなと。つまり、言葉のアヤであり、検討した結果駄目ならその費やしたものって無価値じゃないけど、出費があれば痛いし、下手すれば借金とかですから、それらをどう考えるかって突っ込みはできますからね。
さて、そういう成功確率を上げる意味でも、自分をすごい人とか思ったら終わりでしょう。また出来るという自信があっても、それって「出来ると思っている」ことと「過信である」ことは別ですから、あえて言う必要がなかったりします。
アイデア自体を形に死にものぐるいでやってもできるかどうかの確率は多分1割くらい。当然行動目標自体もありますが、100%うまくいくプランやアイデアなんてそもそもないですから、より筋が良い(確率が高い、課題解決になっている、やりたいこととリンクしている、面白そうで検証可能とか)ものをやっていくしかないという当たり前の話になってきます。
だから行動しろみたいな話ではなくて、あくまでアイデアを思いついたものをどうしているかということです。
おそらく、思いつく人は温泉型なのでそのアイデアにこだわりはないはずです。どちらかといえば編集者タイプで、あるものを組み合わせる感じ。職人タイプだとアイデアにこだわってそれを形に磨いていこうとする。どちらが悪いとかいいとかでなく、自分に合ったスタイルがあって、それに合わせて生き方もつくるというか、スタイルも行き方も一緒ですけど、その上で「アイデアの消化」の仕方を考える方が良いかなって結論になりそうです(笑)
このあたりの湧き出るアイデアをどう処理するかについてはすでに結論というか僕は決めていてどんどんアウトプットするということです。それによって何が生まれるかを見ていくのがそもそもブログであるとか、僕の今の生き方のテーマでもあります。
簡単にこの考え方をまとめておくと、
- 編集者タイプや温泉型でアイデアが出る、自分のアイデアに固執しない人は、どんどんアイデアを人に与えたり、組み合わせからの価値を最大価値とするのが良さそう。その場合当然、編集者タイプで組むとパワーが出ないので職人タイプなど違うタイプと組む方が総合力は出そう。
- 実際には編集者タイプの人でも職人型がいるのでそれはいわゆるチームの中での個人のタイプが先鋭化されるだけかなと。例えば編集者タイプだけどデザイナーがいないからデザインは僕がやるみたいな話ですね。より編集者タイプが編集者をやるというか。
- 職人タイプであればこだわって作っていく方が合うしそっちのほうが満足度が高い。ただ懸念点として見せ方とか、例えばデザインとかを考えると「それは外見で中身で勝負でしょ」と思うはず。間違ってはないが、「外見」も大事なので、自分でそういう「妥協」「迎合」(笑)をしたくないなら、編集者タイプの人と組んでやったほうがいい。そうすると「その編集者タイプの人は違う視点を持っていて、自分は制作や創作に集中できて文字通り中身に拘れる」ことになるからです。
- これも実際には職人だから何も広告しません、宣伝しませんとかはなくて、クラフト作家でもブログはやるしみたいなことです。でも、ブログを書いたりSNSで宣伝する時間も作家活動をしたいみたいになると、多分誰かに見つけてもらうのを願う!ことになるので、やはりこういう時こそ人と組んだほうがいいなあと。
なんでチームとか組めとかいってるのは、僕自体が自分では一人で何もできないくらいあまりできんなと思っている方だからです。自分は自己肯定感は高めですが、とはいえ自己の過信力はあまりないです。むしろ自信はない方くらいです。
なぜならくどいですが、100アイデアがあっても、1くらいしか自分でできたりしないからです。では10もやらなくても、3とか5とかやりたくないですか?となると、人とやるというのが自然な選択肢になります。もちろん、ITを使って効率化するとか、インターネットを使うとか、違うアイデアを考えるのもありですが、人ってやっぱすごい力ですよね。なぜなら違うやり方やパフォーマンスが発揮できるからです。一人で全部だと大変ですし、何か面白みが減ります(笑)
楽しさって分かち合ったほうがいいか独り占めしたほうがいいか。断然前者です。もちろん楽しさが有限なら限りはありますが、それこそ同じ挨拶ならニコニコ気持ちよく出来る人とその挨拶の言葉、時間を共有したい。それって後でも書いたような「欲求レベルが低い」話と一緒です。
どうせアイデアを出すならということで、より気持ちよい人と面白いことが出来る人とやっていく。ごく自然な感じですね。いいんじゃないでしょうか(笑)
そのイメージで、どうせするならというのをポジティブな意味で考えていくと、色々な行動が一石二鳥ならぬ、一石三鳥、一石N鳥になります。楽しくなってきましたね。
アイデアへのレベル感とかこだわり感で形にするレベルが異なる
ここまで考えていくと当たり前のことですが、
- 自己実現欲求とか生き方、ライフワークとか大きめのもの、固いものならこだわりは強い。だから、それこそ少しできなくても取っておいて何度も挑戦する。よって消化は細く長くというイメージ
- 自分でない他人、例えば友人や知り合い、たまたまご縁があったなどであればそのコミット感は自分より薄くなる。そのため、こだわりは薄くなる。そして短く太くとなりやすい。
という自分のコアなところ、他人と関わる接点レベルのところという極端な例でした。
実際には、友人と何かプロジェクトを立ち上げてやるだとこれらの間くらいになるかもしれません。他には、仕事として関わったからコミットはするけど、お金以外のメリットはないから終わったらさっさと次という感じになるような場合、粘りとかそういう話はなさそうです。
人によるわけですが、報酬が高いからやる気になるというのは、わりと普通です。同時にライバルも多い。そういうモチベーションの上げ方だけが一つではないので、むしろ面白いかどうかというのが対抗軸または、選択肢としてないと、「全てお金」になって面白くはなさそうです。
冷静に考えるとこれらは起業の話がわかりやすそうです。
例えば、
- 自分のアイデアを自分が実現して自分で運営、経営などをして全て自分でやりたい。例えば本屋アイデアを考えて、本屋を経営したい。
- 人のアイデアでもなんでもよくて、本屋をやりたい。
- 本屋自体というか経営をしてみたい
色々なレベル感があるわけです。ここで、自分のアイデアから全て自分でやるセルフプランみたいなものは、オリジナル性は高くなりますが時間はかかりそうです。ただ真似しづらいのと、自分が目の届くレベルでやるので色々と調整が出来る感じがします。
2つ目の本屋をやりたいは、色々と考えられるのですが、この場合の欲求は「本屋をやりたい」というのは確かかもしれませんが、実はそれは「本を読みたい」くらいのミスリードの可能性もあります。そんな間違いは人を犯さないかですが、ありえます。好きというのが間違えやすいところだからです。例えば本屋が好き=本屋で仕事をしたいはわりと自然です。もちろん適性確率は高いですが、一方で「本を読むのは好きだが、本を選ぶのもの好きだが、本をすすめるとか、買ってもらう、売るのは苦手」みたいな人は多いかもしれません。つまり、商売やビジネスとなるとき、本屋=商売でしかないため、大分イメージが異なるわけです。こういう概念に対するギャップをうまく消化できないこともありますが、大体どっちかに近づけるしかないです。自分が考える概念の方か、今既成にある概念などか。二択ではないですが、他の可能性があってもいいですが、それをやるなら試す必要があります。
3つめは、単に経営的な興味です。であれば本屋でなくてもいい可能性が高い。
このように、起業ということでかつやりたいことを「本屋」としても、色々なパターンが概念レベルであります。自分がどのようにやりたいかが明確でないなら、まず自分がどういう感じでやりたいかを少しずつ考えていく必要があります。それがレベル感の設定や認識といえます。
ある程度分かるなら、それが本当かどうかを試していく必要があります。例えば分かりやすいのは、本業なのか副業なのか、ボランティア的なのかです。ぶっちゃけこれらの分け方も大分古いと思っていて、実際には本業だけど直接利益にはならないがとはいえボランティアでもない仕事とか、副業なんだけどコスパが本業よりよいとか、ボランティアなんだけど仕事以上に気づきがあるとか、そんな感じです。だからこの切り分けは筋が悪いと思いつつも、そういう感覚で分けられるなら、本業でいきたいなら本気度やこだわりが強いといえるし、副業ならそこまでコミットしなくてもいい(副業自体のコミットは高くないといけないが、人生という全体、自分の仕事という意味ではコミットリソースが小さいという意味)ということになります。
例えば、週5日本屋をやるか、1日でいいのか。結構1日で満足する人は多いのではないかというところです。実際にやってみて満足できないならもっとやればいい(やる余地があるとかならばですが)わけです。週5でも満足できないケースもあるのですが、その場合は本屋を物理的にやるのは限界があるので、人のプロデュースをするとかになるんでしょうかね。それらはアイデア次第ですが、自分がやってみてその感覚を記録または振り返って、どうするかを見ていくしかないという話になります。
欲求レベルとして、こだわりが強ければおそらく形にしていく回数が多いか、手数が多いか、行動量が多いか、それに比例して失敗数が多い気がします。ここで難しいのはこだわりとアイデアの関係性です。こだわりがあればアイデアが生まれるかはかなり微妙で、考えたからアイデアが出るというよりも、考えた上で色々な情報を得て諦めずに試行錯誤した結果が、アイデアまたはアウトプットまたは何か形に出来ると言えそうだからです。つまり、独立してアイデアを抜き出すことがあまりできないという感じです。
冒頭のアイデアをどう消化するかという話では、こだわりが強ければアイデアも多くでるというイメージでしたがそうでもないかもしれません。
僕は、こだわりという意味ではアイデアを形にするほうが良いというモットーなので、人生の充実度が上がるというのが適切でしょうか、企画はしたほうがいいし、どんどん叶えていくというのが良いとピュアに思っています。
逆に未消化状態、アイデアはあるけど何もせず放置とか、アイデアを考えただけであれば、なんか遊びというか、ゲームであり、しかもこれは悪い遊びであり悪いゲームということで、全くリアルに影響がない。全く関係性がない。ドラマがない。心がエモくないという感じになりそうです。だからこそ未消化であり、消化不良という感じに近い。ちゃんと消化しないと、向き合って形に一個一個は大変ですが、少なくとも適切な消化の仕方は、素材や食材を調理するようにあるんじゃないか。そんなイメージがあります。
消化できずにアイデアを放置したままでもいい人はいそうですが、僕においてはやはりなんか足りないな、なんかやってないな、なんかこれもっと面白くできるんじゃないか、だったら面白いようにしたほうがいいじゃないかと、そんなふうに考えてしまいます。これはもう止める必要もないし、止まる必要もないなあと。単純に放置+何もしなくていいやとなって、考えが微妙になるのと、ストレスにもなるのでここは適当にできないんでしょうね。自己分析っぽくなりましたが、そんな感じです。
自分の欲求レベルに応じた生き方をする
これってヒエラルキーみたいなことを言いたいとか、職業に貴賎ありとかそういう事を言いたいわけじゃないです。実際はやりたくない仕事とかあるわけですからきれいごとではないんですけどね。
基本的には、上の何をしたいかをというところでやりたいことがない人も多いかも知れませんが、やりたいことがないというならば無理にやる時代でもないというか、そういう無理したものを「応援」したい人はいないでしょう。自然に楽しくワクワクやる人のほうがなんか楽しそうですし、関わりたいですしね(笑)
やりたいことがない人は駄目だといってないのですが、やりたいことがある=素晴らしいことみたいな話で煽って終わるパターンもあります。煽るとかもなくてですね、単にあればいいし、なくてもいい。人生への満足度の閾値が低いならそれはとても良いことじゃないかとすら本当に思っています。例えば毎日好きな人の笑顔があるだけで生きられるとかってめちゃくちゃ幸せじゃないですか?望まない生き方っていう美化でなくて、実際はそんな感じで人生って形作られるし、挨拶をして軽くお話出来る関係がたくさんあるほうが幸せだし、みたいな感じです。
それを踏まえて、欲求レベルが高い人はもうしょうがないので(笑)どんどんやりましょう。僕はこっちかもしれないです。小さくまとまるとだんだんエネルギーがマグマみたいに溜まっていつか爆発しそうです。感覚的には何かしてないなとか、面白くないぞというところで分かります。自分はですよ。人によってこの感度や感覚が大分異なるはずです。
欲求レベルが低い人は、日常や幸せポイントが小さいことをそのまま受け入れて楽しいなあ、素敵だなあというのが良いと思います。
ある種乱暴ですが、2パターンあって、欲求レベルが高い人はどんどんやったほうがいい。低い人は何かやるというよりも、現状の幸せを維持したほうがいいって感じですかね。
高い人が現状維持をしたり、低い人が企画をするとかをやると結構辛いです。もちろん0か1の話ではないので、グラデーションの話ではあります。ただ、方向性として、欲求レベルが高い人があまり日常の幸せでいいのだということをやりすぎるとなんかつまらないってなるかなと。また、欲求レベルが低い人が無理に新しいことをやらないと私は駄目なんだ!というのは洗脳っぽいので、多分辛いです。
辛いとかストレスとかってこれその人が「面白い」とか「楽しい」とかを素直に言えるか、あと感じるかだけの話です。端的にいえば、心理的にうつとか、病気になります。辛いならですよね。よく起業家でワクワクしているから働きすぎても全然死なないとかってありますけど、ある種何かアドレナリンなのか成分が出て対応できるだけであって、もちろん疲れが出ないことはないでしょう。これは典型的な欲求レベルが高い人が出来る芸当であって、これをある程度欲求レベルが高い人が見て真似とか参考にするならまだいいです。これを欲求レベルが低い人が「ああ、自分のやり方は駄目だ。もっと高めていく必要がある」といって、ガンガン動くと多分「何か違うような」と思って、ストレスがガンガン溜まっていき不幸です。
例えばこのブログは欲求レベルが高い人にとっては、「行動行動」というとある程度そうだよねとなりますが、低い人にとっては「いや辛いです」となりますから、あまり参考にならないし、理解はしても実践は辛いでしょう。
とはいえ人は何かやりたいことがあるとき、多分欲求レベルに対してどう折り合いをつけるかじゃないかというのが本筋です。つまり、本屋をやりたいけどガンガンやりたいわけじゃない。身の丈以下でやるというところは多分欲求レベルが高いよりも低い方かもしれない。でも、身の丈レベルでやる欲求が高いという考え方もあるので、ここは良い感じで着地しそうです。
色々書きましたが、一言でいえばシンプルです。あなたの生き方や欲求にあったやり方が多分あるので、それに合わせると多分色々と楽に動ける。陸を歩くのと水中を泳ぐのは違いますよね。歩き方だけしか知らずに水中を泳ぐのは多分辛いしイライラするはずです。逆もまた然りで、泳ぎ方で歩き方をしらないとなんか進まない(笑)ある日歩いている人が泳げるかは不明ですが、水っぽい何かではどうも歩き方が違うぞ気づいて、こうやって歩けば(泳ぐように)歩きやすいぞと気づく。そうしたら楽に動けるって感じです。
僕もまだその境地があればたどり着けてないですが、多分これらの生き方に合わせるのって実は今のトレンドだし、昔は偏屈者(笑)変わり者、変なやつ扱いされたのでしょうが、今はそうやっている人が羨ましいと言われる時代かなと。これも標準化されると、また違う考え方になっていくでしょう。それはそれでまた考えたらいいじゃないかっって感じですね。
おわりに
最近出会う人は、アイデアマンが多いというか、アイデアの場なんてやってるのでそういう人が多いですが、ポジティブにかつ冷静にかつどうすればいいかを考え抜ける。タフさって打たれ強さって意味合いですが、どちらかというと自分なりのこだわりを的確に見抜いてそこで粘れる人だなあと感じています。
この粘りがないなら多分、すぐ飽きて何もせず終わる感じの印象です。飽きてもいいから形にしている人は全然違います。似ているが異なる。動的平衡みたいなやつかもしれません。
滑り台とかで滑っていく時に、必死に上に向かって走れば意外に上がれる遊びとかしたことありませんか?あの原理と似ていて意外に粘れるものというのが僕にはあります。粘れるというか、むしろコツを掴めば上に上がれる。
確か滑り台だと、中央部分を駆けるのでなく、足を滑り台の内側面につけるようにして靴側面で摩擦を作れば止まりやすかった気がします。伝わりますかね?それを交互に両足を繰り返していき、かつ手も使って台をつかめば止まって上がれる。手を使っちゃだめなんてルールはないですから(笑)そうやって滑り台を上るという真逆の遊びをやっていたら、粘るのはもちろん、むしろ上がれるということを本能的に理解しているはずです。
小さなアイデアを潰すのは簡単です。一方でバカバカしいとかどうでもいいようなアイデアが化けることがあるのは、最初に書いたようにアイデアをおすそ分けするとか、本屋をやりたい?ように粘ったり、または滑り台のようにむしろそこで上がるみたいなアイデアや行動があって出来ることじゃないかと思います。
行動と言いましたが、話すレベルというか、話し方伝え方も変わっていくし、これらはやっていってナンボです。ぜひアイデアがある人は、己の欲求に従って、形にするレベルはなんだっていいのでどんどん消化してください。その方が生き方として、また人生も楽しいはずと僕が同じような人間だと思うなら(笑)楽しいですし、僕も今楽しいですから。これは最後の欲求レベルと生き方、動き方の話ですね。
まとまりは悪いですが、自分の中の欲って大事なのでそれをあまり無理に消さず、とはいえ全部やるというよりも適切に消化してうまい人生を送っていく。それは結局人生観となり哲学となります。自分はこう生きられたらいいは多分早くやったほうがいいです。そう生きられる環境を作り自分の人生充実度をあげるのは「我がまま」であり、それによって個人が満たされ、そういう個人が満たされた社会が出来上がり、結構社会の満足度自体も上がるからですね。
満足したら終わりとかそういう自己啓発っぽい話はスルーして(笑)、ひとまず満足したり充足している人は人に何かケチをつける(悪い意味の批判)ことはしないんですね。ぜひそういう感じで充足した人達があふれる感じの社会を作っていきたいですね。
筆者プロフィール
- 「シゴクリ」運営者。アイデアの力でお客様に貢献するゼロイチ大好きアイデアマン。ビジネスアイデア相談実績等は200超を超える。好きな言葉は三方良し。詳しい自己紹介、仕事実績も合わせてご覧ください。お仕事メニューやお問い合わせはお気軽にどうぞ。
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