
ふと思ったので書いておきます。
という話とまとめることで、伝えやすくなるのでは?という話です。
目次
結論としてはできるが・・・
結論的にはできるはずですが、じゃあ認識してそこから問題になりそうです。
つまり、ネタや話として認識しろ!とは、できるとはその観察したように書いたり、伝えられることを指す。「良かった良かった」みたいな体験感想やその主観で「あれがすごかった!」だけでは伝わらないですよね。
話やネタを伝えるのに唱えてみる
「という話」「というネタ」というように発するわけですね。そうすることで、「花がキレイだと思った話」をします、といえば明確になる。当然、「ひまわりが良かったネタ」でもいいし、そんなのはなんでもいい。
ただここで、「花がキレイだったんですよね」といったところで、それを伝えるのか、単なる入口かわからないですよね。それを意図しているならいいのですが、意図してないなら説明がいわゆる「下手」ということになりそうです。
「~という話をします」といって、全然違う話をして最後に戻ってこれるのはわりと話がうまいとか、慣れている人なんでしょう。そうでない人がやると、脱線して戻ってこれず終わるかもしれません(笑)
ネタとしている時点で客観視ができる
もっといえば、ネタなんだ、話なんだと発話者がいうことで「客観視」できる。
手がかりというか、いうことで生成される客観的視点といってもいいかもしれません。
絵としては以下のような見方です。マウス絵です(笑)
「ネタ」を外から見られているのがここでは話を伝えやすい状態ではないかと考えている
「という話」といった瞬間に、自分というか、発話者は左下のように「ネタ」から脱します。そうすると、ネタを客観視している。矢印が見づらいですがそうやって「自分」→「ネタ」というように切り離しているわけですね。
しかし、ネタ右下の「青枠」らへんに自分がいるとどうでしょうか?ネタに近くてネタとそこまで切り離せてないとします。主観的であるといえそうです。主観性が強いので「良かった、楽しかった」だけで終わるというか。
とはいえ、話を伝えるとは、この主観と客観のバランスのような気がします。客観すぎればレポートみたいで面白くないというか。主観すぎれば「あーすげーよかった!」だけで、良かったことは伝わるけど、何が良かったかはわからないから、話としてはやや成立が厳しい気がします。
記憶は生成されるので主観性は常に担保されるかも
ここで記憶の話です。多くは体験した過去のことを記憶していて、または記憶に残っているから話せると。メモしていてもいいですけどね。
メモでもなんでも記憶しているのでそこから「こういうことがあってさ」と話すわけです。でも、その時「こういうこと」は本当に覚えているかは定かではない。実際には冷凍保存された記憶でなく、記憶自体に脳がアクセスして取り出す時に再生成されるイメージのようです。
なので、客観だと言っていても、記憶にアクセスしている時点でそれは避けられないのですが、生成されている。だから、主観性なんて考えなくても、「何が面白かったか」「どこが印象的だったか」という問いが出てくると、それに応じた物が出てくる。そこで「そこまで面白いものはなかった」「印象に残ったものはあったが、説明はできない」など色々と出てくると。まあ、説明は状況とそれに対する感想の2つがいるので、難しいですよね。
主観的な位置にいると、巻き込まれる感じがあるかなと。つまり、面白かったことに巻き込まれて自分もそこで動いている。文字通り巻き込まれるので、問いかけとかでなく、体験を感じたことを伝えるイメージになる。遠くから見えないので、主観性が強くなる。
当然、主観は大事で、その人が感じたことを伝えて欲しい。けれど、この伝える技術ってかなり難しい気がしていて、そこまで立ち位置を意識できているか?
出来たとしても、それを伝える術、慣れがあるのか?ないと見えないので分からないというか、難しいとなるというか。
だから、社会性として、人と話して社会的に交流して人は話すとか、伝えるがうまくなる。うまくなくても一定程度できることで、生活をしていけるようになるかなと考えてます。
もっといえば「ネタがある」「話がある」とすることで生まれるかも
もっと乱暴にいえば、「話があるのだ」「ネタがあるんだ」といえば、それは話が生成され、整理され、客観視され、主観性を持ち・・・みたいなことが勝手に生まれるわけではないですよね。
ですが、認識としては「ネタ」だと思わないとネタにならない。「アイデア」だと思わないと「アイデア」とならない。
ここで、ネタやアイデアや話を、高尚なものとするフィルタリング、収束化するのは僕は良くないかなと思います。そうすると発散ができない。これどうだろうか?くらいでいい。これはいいぞ!とか思いがあってもいいですが、大体いい!と思っても音沙汰はない。そこまでだなあと思ってもそれが意外に良かったと言われやすいからです。正直出してみるまで良くわからないことのほうが多いわけですね。
嘘をつけってこともでないです(笑)話がないのに話があるはちょっと混乱しますし、ネタがないのにネタがあるも・・・駄目ですよね。
しかし、くどいですが「ネタがある」「話がある」とすることで、これがネタだといえる何かが紐づく、かもしれない。話がある、といえば話があるようになるかもしれない。
客観性とか主観性とか、色々考えて分からなくなったり、またはネタがないとか話がないという人は、多分この主観性で巻き込まれて体験自体はあった・・・というところで止まるのではないか?
それらの人が伝える時は、えいや!ではないけれど、外に出る。そのための手法が「という話があって」とか「というネタがあって」とかってならないかという話でした。
筆者プロフィール
- 「シゴクリ」運営者。アイデアの力でお客様に貢献するゼロイチ大好きアイデアマン。ビジネスアイデア採択実績数は474件。好きな言葉は三方良し。詳しい自己紹介、仕事実績も合わせてご覧ください。お仕事メニューやお問い合わせはお気軽にどうぞ。
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