なぜこれからなにかやる人を猛烈に応援したくなるか。
正確には、人ありきだし、気が乗らないならやらないです。一方で気が向けば大体は乗るのが基本スタンスです。
それについて考えてみました。自己分析な話です。
結論的には、試すってことが純粋に良いと思っているからでした(笑)
目次
何かはじめる人はアイデアがむき出しだ
一つ大きな理由は、アイデアがむき出しであって、それを大きくしたり何か良い状態に持っていけないかと思うからなんですよね。
あるビジコンというかプレゼンの場で、一般参加者として結構質問する方です。質問という体ですが、実際はその人の良いところをもちっと出せないかという企みがあったりします。やりすぎると、質問ではないんですがまあそこは加減しつつ。
例えばある研究系の学生さんが考えたアイデアはよく分からなかったのですが、それはものすごく今どきといっていい、つまり働き方や仕事の仕方、やり方自体に疑問を呈しているというような鋭い視点がありました。実際はその視点を強調してなくて、やるサービスがどうかがメインだったのでまあ「プレゼン」的にはそうだけど、実際には「そうじゃないかな」と感じたりしました。
やや抽象的ですが、このように出会うアイデア、人に対して何かやれないかと思うのが常です。一方で何かやれることは微々たるものです。アドバイスでは偉そうですし、アイデアでは期待値が高すぎる。一方でプレゼン側や起業家的にいえば「かまってくれるだけでも吉」という点はありそうです。ただそれに便乗してただ無駄な話をしてもコストになるだけですから、ここはお互い不幸にならないように注意が必要ですね。
むきだしのアイデアとしてこんなのを考えたんだけどどう思うか。これに対して慣れてない人は「どうっていわれてもね」で終わるのですが、僕にとっては「確かにどうって言われてもね感はあるものの、それは多分こういうことじゃないだろうか」というところまではいえます。かなり微妙な違いに見えますが、その違いを説明するだけでもわりと大変です(楽に言ってるように見えるものほど結構むずいパターン)。
人とアイデアはほぼ同一です。もちろんその人が考えてないアイデアをいうこともできますが、大体バレますし、その人のものでないなら、とっとと割り切って逃げ切るしかないというのはまあ何でも一緒じゃないかと。
運営キラーというポジションが面白い
運営側をやっちまうということでなく、あくまで運営側になんかあの人丁寧だよねとか、色々意見くれるしという良い印象や立場のユーザーです。くどいですがユーザーです。
運営側になると見えなくなるしそもそも運営ではないですから。
一つこの立場として、つまりユーザーなんだけどわりと運営的なことを言う人は失敗すれば煙たいです。成功すれば良い人です。
楽しんでいる、面白くしていく、よりよくしていく。これらの思いだけでは駄目ですが、思いがあってまず一緒のサービス、共通するサービスを使うからこそ仲良くなれるというのは今までの経験上あります。
言い方だけとは思いませんが(言い方がきつくても愛があるかどうか。見極めは文言だけでは分からないので何かしら関係性が欲しいところ)、言い方も含めてどういうスタンスで新しいもの、これから始まるサービスに突っ込んでいくか。
なぜそんな中途半端な立場でいくかというと、ユーザーサイドでしかないことを認識しつつも、なるべく上にもあげたように運営側=起業家側の視点を追体験したいとか、その景色を見たいということがあるんでしょうね。どちらかというと起業したいという感覚はここにはなくて、「新しいアイデアを試したい」というものを他人視点で借りていく感じです。
多分適切ですが、「飛行機を操縦して空を飛べないけど、飛行機自体には旅客としては乗れる。ならば旅客として乗って、体験させてもらう」という感じです。旅客がいいとか旅客でいいとかそういう「助詞」的な雰囲気はありません。どちらかといえば、どうせ関わるのだから楽しくしたいという感覚のほうが強いです。「どうせ」とはネガティブな意味でなく、ポジティブな「必然」的な意味ですかね(笑)
基本の繰り返しがある
あるアプリ、サービスがあって、それに対しては同じような、それはパターンとしてということですが、繰り返しです。
つまり、
- ふーん、そんなのあるの
- どういう感じ?どうなの?
- やってみるか、使ってみよう。
- あ、なるほど。そうくるか。
- やるねー。微妙かな。
これらの繰り返しです。
偉そうに何か言いたいのでなく、単に面白そう、使ってみる、こうだったの繰り返しです。
学びとしては、新しいものにはアイデアがあるので、出来れば初見の「ふーん」だけで判断しないようにしていますが、底が浅ければ「ふーん」で終わることもあります。
その上で「そうきたか」と思えばガッツリ使っていきます。使っていく中で、「逃げたな」とか「あえてそこか」とか「よく考えているな」とかって分かります。ここでいう分かるとは解釈できるだけであって、作り手、運営、事業者側が持っている正解とは違うこともあるでしょう。
想像ゲームといえばそれまでですが、これが正解とかはまずおいておいて、そのように考えることで「学び」となるのは事実だと考えています。逆にこれらをせずに単に「使う」だけなら、実益というか便利とか、ゲームとしておもしろいとかでないとまあやらないですよね。
これだけを見ても、自分がどのように新しいサービス、ここでは初めて知ったものなどに対して、接し方がある程度確立されていることが見えてきます。
見定める感じの明らめる
あきらめるとは、明らかに見極めるのことだそうですが、そのとおりで新しい人、サービス、ものに対して見極めを入れています。
大したサービスじゃないよねという「あきらめ」でなく、面白いサービスだよねと明らめていくこと、そう見極めることが好きなんでしょう。僕自身が。
一方で見極められるかが常に試されます。価値観など違っていて当然だから、面白いと思っても全然人は面白くないこともあり、逆もまた然りです。よくあるのは、自分が面白くなくてもニーズがあるからやるですけど、一定程度いけても、自分が面白いとやれない人は辛いですね。というか僕は駄目ですね。
そういう意味で自分がやるとアートっぽさがあると思いますが、そこまで自己主張して自己表現したいのかというと分からないです。ブログを書くこと自体が一定程度の自己主張ではないかというのもありますが、どちらかといえば自己主張というか、自分の考えを話したいなら然るべき友人や場で言うので、言えなくて悶々としているとかはかなりないほうでしょう。
そういう意味では先程書いたように、良い意味で運営側に近いけどあくまでユーザー。そこから自分がやらないことで一定のアートさを消して良い意味でビジネスライク的な状態でアイデアを出せるという人に対して応援するが最適解な感じがかなりしています。
もちろん一方で自分がやりたいこともありますが、自分がやることが最適解かというとかなり疑問なことも多いし、誰もやらなさそうなら自分がやるという行動も好きなのでここらへんはバランスなんでしょうね。
純粋に何かやる人が好きだ
何かとは反社会的なことでなく、かつ自身でも社会のためでも、ビジネス的でも、新しいアイデアでもなんでもいいです。どちらかといえば、コピーして真似みたいなものよりも、自分で考えてこうなんだけどどう思う?という投げかけ的なものが好きですね。問いがあるサービスとか、または欲求に純粋なサービスとか。
それは音楽演奏のようなもの、つまり路上パフォーマーみたいなものもいいと思えば、演奏会みたいなプロの演奏でもいいですし、プログラミングを初めて学ぼうとして勉強しているという人の話でも、水をろ過して飲みやすくする装置の開発とかでも、クラウドファンディングで何かやろうとしている人。
対象の何かにそこまでこだわりはなく、そりゃ僕が興味がある方が面白いですけど、何かやるなので、「やる」「はじめる」「スタートする」「試す」という行為が好きなんでしょうね。
もっといえば、試す人が好きといえます。
無謀というのも色々ですが、それできるのか?確率が低い中でやるのは無謀と言われやすいですが、こういうのもストーリーがあって背景や文脈があるかどうかで全く捉え方が違いますよね。だから、切り取ったものは一定の解釈をしつつも、どうなんだろうねと「留める」ことも大事だなと思います。
逆に言えば旧態依然としていて、同じことをやっていればいい、変化は何もないのだという人は辛いかなと。僕が合わないだけでしょう。もちろんそういう人と話が出来ないわけではないけど、仲良くはなりづらいだけです。
もちろんこの場合も変化しないことが変化なのだという「変化」で切り取ってもらえればかなり面白いですけど、そういう切り口で表現出来る人は変化に相当敏感だから、まず面白い気がしますね。
なぜ人を応援したいのだろうか
何かを応援するというと、何かをやった人が一定程度の実績があってでないと出来ないとかはないです。論理的には誰でも誰かを応援出来ます。
この話は例えばシゴトをつくるという意味ではまあ実績がないと単に舐められるというか、相手にされない現実があるというケースです。逆の立場になれば警戒するのは当たり前ですから、逆にスーッと話が通るのは怖いですね。裏があるのではないかとか(笑)
ここまで考えていくと、なぜ応援したいかというと、試すということ自体をわりとピュアに良いと思っているからです。
そういう環境や感覚なので「試してみたら」という言葉はよく使うわけですし、検証とか大好きです。こういう試すとか検証というのは行動ですから、行動が不足している時の考えってかなり浅いです。浅いから駄目ではないんですが、すぐ終わります。自分で考えてないからだけです。
試すという行動があることで「気付き」「学び」を得るから、さらに考えが深まります。当初の仮説が違っていれば別のものを、少し手応えがあればさらにそれをやってみる。こういった一連の行為をもって、試して行動してそしてどうかを見ていく。
こういうプロセスやパターン自体はかなり僕の中では切り離していて客観視もできるし、主観的に取り組んで盲目的になることもあります。でも客観主観でいえば、ユーザーの立場で応援する客観的なときでも応援はしたいし、主観で取り組んでいるときは熱中しているから自分を応援していくというか、どちらも楽しい感じは変わりないですね。それが好きってことなんでしょう。
ちなみに、応援するという言葉はかなりビッグワードで、「応援している」といいつつも心にはないけど言ってるだけパターンがあります。だから、応援するというのは行動で何を示すか、または示さないかが分かりやすいですよね。
例えば起業家なら考えているアイデアに対してこうしたらいいんじゃないかアイデアをアドバイスしてみる、例えば運営サービスがあればそれに対して使ってみてどうかとはいえる、これらってアウトプットがあればそれに対して何か言える(または言えない)かが分かりやすいですよね。
いつかは書いた気がしますが、初めて会った人でも、何か困っているならこういうことをしてみたらとわりと丁寧に言ってるつもりです。相手が分からない時はある言葉が「おせっかい」か「アドバイス」かどちらになるか。または信頼できるかどうかもありますからね。これらも関係性とか気分次第ですかねえ。気まぐれ大いに結構です(笑)
おわりに
例えば応援をする人か自分がやる人かみたいな立場選択ってあります。ぶっちゃけどうでもいい話ですが、どっちでもいいかなと。ただモードというか状況や立場では選んでいって意識的にその立場にいることが良いこともいえます。一方で人は立場とか顔があってそれらは社会的に色々と変わるわけですね。
そういう中で、僕は応援をどんどんするけど、自分もやると。どちらでも試すという行為が入っているかが肝心のようです、ということが見えてきました。
例えば、自分がテンションが低い時とか調子が悪い時って試してない時です。予定調和の海につかったら即死くらいですから(笑)一方で人がなにかやるときは変化であり、これから何かしらのアイデアを試そうとしている時です。あまり応援とかフォローとかサポートがうまいって思ったことは1mmもないんですけど、基本的に何かやるならとりあえず応援しています。
ただ応援とかいってるけど、ざっくりいえば関係性がないならそこまでできないし、一定程度あるなら悪いようにはしないというか出来ることはやっていこうという感じです。もちろん限界があります。時間、アイデア、お金などリソースは有限だからです。無限な人は知らないです(笑)
限られた時間であり、人生の中で、どこまで自分が試すことで楽しみつつ、人が試すことを応援しつつ、というハイブリッド的な生き方はかなり気に入っています。
どちらか一方だと、例えば自分が試すだけだとアートっぽくなるし、人の応援だけだと客観視が強すぎて主体性がないかなと。といってハイブリッドでやると中途半端になりがちですけど、まあ自分が合うか、ぴったりとか向いていると思えるかどうかだけですから、ハイブリッド的なものはあっている気がします。
あまり参考にならないかもしれませんが、何かやりたい時、何かやりたいと考えている人にとって、こういう人もいるよって感じで伝われば何よりです。
筆者プロフィール
- 「シゴクリ」運営者。アイデアの力でお客様に貢献するゼロイチ大好きアイデアマン。ビジネスアイデア相談実績等は200超を超える。好きな言葉は三方良し。詳しい自己紹介、仕事実績も合わせてご覧ください。お仕事メニューやお問い合わせはお気軽にどうぞ。
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