調べるって一体何か?

調べるってなんだろうか?を考えている。

友人とも、AIが調べた結果・・・という時、AIが言っているとかでもいいのだけど、それは何かとなる。必要な情報が得られるとそれでOKなことも多い。

一方でそれでも分からないことも多い。言葉の由来というのはとてもではないが殆どわかっていないと思う。あっても仮説程度だ。と言われているらしい、くらいだ。

だから調べなくていい理由にはならない。

そう考えていくと、調べるというのがどうも自分にとって当たり前過ぎて、分解できてないことを知る。少しだけ書いておきたい

調べるとは?

手元の辞書では、「不明確なことを確かめる」「色々見て確認する」みたいなこととなっている。明らかにする感じは強い。

AIで検索できる、もっといえば検索でいいのだが、検索する(Google検索等)で調べることはそれはそれで定着したといっていいだろう。次はAI検索だ。AIに聞いてそれでOKとするかどうか。言い切れないのだが、ケースバイケースだ。良い時もあるが・・・それでいいかは分からないのだ。

例えば、AIに何かを聞いてこうですといった。ではその指摘されたことや表示されたものは何をもって「確からしい」とするのだろうか?

さらにいえば、リンク先に書かれているそのコンテンツは本当なのだろうか?例えば僕の記事が上がっていたとして、明らかに間違ってはいないだろうか?(笑)意図的に間違えたことを書いてとかはないが、間違いは一杯あるだろう。

どこまで言っても調べても、そこで良しとするかは実は決まっていない。

むしろ探究心が強ければ正解がないものこそ、ずっと追えることになる。検索沼といってもいいし、リサーチ沼といってもいいかもしれない。調べても調べても分からないのだ。

書籍に頼るのもいいが、書籍でも分からないことは多い。

ここで、既知感というか、正確には未知観だろうか。考え方として、知っている物が多いと思うのか、知らないものが多いと思うかどうかが、とても大事になると思う。

問いを持っているかどうか

調べる時に感じるのは、単純な検索で例えば言葉の意味で分からないから調べた。分かってしまえばそれだけだが、果たしてそれが全てではない。例えばなぜその言葉を使ったのだろうか?あまり使われない言葉だからその発言者の意図があったのではないか、またはその言葉から何か分からないだろうか?推測も多いが。

そういった単純な検索はおそらくAI検索で替わってしまう気がする。すり替わるのだ。

言葉がわからない→調べた→終わり。というわけだ。

一方で、問いが残る、疑問がある、仮説としてどうかなど対話が必須、問いが必須、考えてすぐ答えがでないようなもの(少なくともすぐ答えがでるかは検索時点では分からないかもしれない。だからAI検索から入るのが普通かもしれないがそこは分からない)だ。

そこでは、聞いて答えを期待するのではない。全く別だ。対話をして考える。自分の考えや考え方をぶつけたり整理する。自分で考えていくことが前提だ。

ここまでをまとめてしまうと以下のようになるだろうか。

簡単なものなら単純検索で済むことはGoogle検索でも変わらない。しかし、AIモードなどであれば今までもう少し複雑だったような「調べてまとめる」程度はできてしまう。概ねそれで終わってしまうのだろう。

しかし、そこではたと気づくことになる。その結果はいいのだが、それをやる身体や体験や経験がない。例えば、とにかくやれ、というところがあったとしてやれるかは別問題だ。検索は行動する一つではあるが、アウトプットを自分でなく出されたものだけでは体験や経験とはならないのだ。

対話型でも当然それは一緒だ。しかし、思考をめぐる工程があるため、頭を使っている。どちらかといえばここで頭を使っていればいい。というか、それをしなくなった途端に、単純検索側に寄せていくと、やはり頭は使わないからこそ思考自体忘れてしまうのだと思う。これは杞憂かもしれない。

一つだけ言えば、打ち込むことで漢字をガンガン忘れている。そのように捉えることもできる。つまり、打ち込めればいいと。AIで出せれればいいと。しかし、漢字は書けないだけだが、思考自体はやはり放棄すると全てに関わる。判断ができない、または感情だけになる。論理や理屈が消える、それらはAIに任せるとなるからだ。

人は理屈と感情でキレイに分けて、それだけでいきているのではないと思う。感情は大事だが、感情だけではないというか。理屈も大事だ。両方あるから面白いのだと思う。

調べるとは何か?再度

ここまで考えると、対話型検索を僕は調べると捉えている。それは別にGoogle検索でもできるしやってきた。そしてそれがWeb対象でなければ途端にアナログになりがちだ。書籍を調べるとかは地味だ。人に聞くのもいい。しかし、その人がAIの答えに影響を受けすぎていると、AIの話であって、その人の経験ではなかったりする。

AIに対する影響をものすごく受けているわけだ。

だからこそ、調べるというのが、単にAIで単純検索で得られるというものではないと、僕は考えている。問いがあり、考えている。考えることが調べることでもあるというわけだ。

では、考えるとは何か?何度も同じことを言っているが「問い」があるかどうかだ。

このアウトプットは信頼できるか?があって、確からしくないというのを踏まえる範囲ならOKだろう。同様に確からしいという判断が入っているならいいのだろう。それがないか全く考えていない、またはあまり考えてないなら、それは思考をしていないことになる。

調べているようで調べていない、というわけだ。

情報を得ることだがけ調べるではない。それは一部だ。調べていって、得た情報を再構成したり、加工したり、何が大事かを考える。問う、仮説を立てる、やってみる。それらの一番の入口が調べることかもしれない。

得たもので次は何をするだろうか?それは調べてもでてくるわけではない。情報とは単なるデータでしかない。それに意味づけるのは人だ。会計なら数字は単なる数字の羅列だ。意味を読み取るのは人だ。

調べる情報から意味を読み取れる人は考えているといえるが、そうでない、何もその情報から得られない(有用そうであるくらいでは意味がない)のはそれは考えてないか、考えられないとも言える。

ではそういう時どうするのかというと、考えるのだ。学ぶのだ。それはなぜかを分かるために、分解していくのだと思う。それを僕は学ぶといっている。

筆者プロフィール

シゴトクリエイター
シゴトクリエイター
「シゴクリ」運営者。アイデアの力でお客様に貢献するゼロイチ大好きアイデアマン。ビジネスアイデア採択実績数は474件。好きな言葉は三方良し。詳しい自己紹介仕事実績も合わせてご覧ください。お仕事メニューお問い合わせはお気軽にどうぞ。

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