同じ言葉だけど意味が異なる。その時どう考えるか。

昔、就職活動をしていた時にある社会人が言っていた言葉で割と当たってると思うことがあります。

それは、「モノの扱い方で人が分かる」というもの。

確かにボールペン投げて渡すより丁寧に持ち手側(ペン先でない方)を渡してくれたほうが嬉しいですし、ハサミなんかは顕著ですね。

そもそもモノの扱い方がそんなに違うものかという体験がないとこの話は通じません。あまり投げる人はいませんが、例えば本は床に置かないまたは、またがないとかって躾っぽい話で、それがダメな理由って合理性はあまりないので、なんともです。

そんなことを思い出しながらビジネスやSNSなど言葉の捉え方について、考えてみます。

Facebookって何?

SNSですとか、実名型のコミュニケーションツールですとかいう話ではなく、どういうツールやサービスと捉えていてどう使うかって話です。

例えば、Facebookって言ったときに「これは優れた拡散ツール」とか「ビジネスでうまく使えそう。だから友達増やそう」みたいなのって流行りました。リリース後数年くらいでしょうか。で、それがいい悪いはスルーして、Linkedinが流行ればそちらに流れるし、または使うし、となるとこういうビジネス的利用が主眼な人は「あくまで拡散ツール」でしかありまえん。いい悪いはスルーですよ。

一方、仲間を作れるとか友達(本来の意味)を作れたり関係を継続出来る便利なサービスだと考えた人がいます。この人はおそらくそうやって関係づくりで使うだけです。これもいい悪いはありません。

この二人の人がFacebookというものについて会話する時、全くイメージが異なるけど「Facebook」を使っていることは代わりありません。これはSNSに限らずなんでもそうです。勉強している=真面目なふりをしているという人もいるし、勉強=暇つぶしという人もいるでしょう。そういう違いがあるのは十分分かっているよという人がいても、会話を成立させるのは大変かもしれないなという話です。

つまり、ビジネス利用をしている人にとっては、趣味的会話は不要であり、逆に趣味的利用の人にとってはビジネスなんじゃそらとなるわけです。

SNSは社会の縮図。個人の発信力増加と窮屈さは比例する?

これを考えていくと、例えばTwitterなどでほのぼの使っている人に、「論破!」みたいな切り込んで言ったり、それは社会的にどうかと思うみたいな切り口が可能です。可能とはやっていいことでなく出来てしまう状態を意味します。SNSってそもそもつながるべきでない人がつながれることが、可能性であり、一方で事故でもあります。とはいえ、人は馬鹿ではないからこそ、つながりたくない人はつながらないし、ブロック等出来ますよね。

ここでいいたいのは、同じSNSサービスとはいえ既に相当数のユーザー数千万人が使っている時点で、コミュニケーションツールとしては成立するけど、上のような全く違う人がコミュニケーションすることってそんなに起こるのか?という話です。予想としては起こらないけど、全くではない。むしろ、どんどんこもっていく、SNSで開いているんだけど考え方はこもっていく。そんな感じを受けます。

だからSNSは使うべきではないとか、そういうことでなく、結局個人発信や個人メディアもそうですし、そうやって個人がつながっていくことにより個人力みたいなのが増加するとして、その個人に求められることというか、要は社会の縮図(もちろんマスメディアとは違うのだけど)であることは避けられないわけです。

ロックンロールが俺の歌を聴けで小さくやっていればロックですが、それがメジャーになればロックンロールなのかというと僕は分かりません。少なくとも多数派ではないとか、主張を軽やかな音楽で飛ばすのであれば、ロックというツールがメジャーにはならないのがその前提となります。NPOなどの活動も社会課題があるからこそ成立するのであって、なくなれば活動は終わるという宿命をもつ、いわば矛盾性があるってことですね。

その矛盾性を持ったSNS、つまり個人が発信できればより窮屈になる可能性もある。なぜかというと簡単で、個人を攻撃したりできますし、そういうのが暇つぶしという名目は置いておいても可能だからですね。これはインターネットの怖さでもありますが、そういう人ばかりでもないのもまた事実です。

性善説的にいければいいのですが、一方でやっぱ会話も理解も出来ない人がいてこその社会であり人ではないかとも思えます。逆に誰とでも理解出来るとか、誰とも理解できないという極論は警戒すべきですが、といって分からないから会話するなとか排他的になれというわけでもない。とはいえ、それは言葉のアヤ的な面もあって、自分を攻撃する人とは友達にはなれないし、下手をすれば危機を感じるので拒否せねばならないわけですね。

ビジネスもそんな感じで

ビジネスについても同様の視点を感じます。

つまり、ビジネスに対して「人に良いものや良いサービスを提供して役立ててもらってそれで対価としてお金がもらえる」というイメージの人がいるとします。一方で「お金が入ればこっちのもの、逃げ切れ(笑)」みたいな人とは、同じ「ビジネス」でも別物ですよね。当然前者と後者が交わることはないのだけど、一方で事故として、前者のように考えている人が「ビジネスってやっぱ人を騙すことなんだよね」という後者の考えで染まってしまうこともありえるでしょう。

同じビジネスという言葉を使っているから問題なのかなと思っていて、形容詞をつけたりして違いを明確にも出来ますよね。前者は社会的ビジネスといったりすればいいし、後者は詐欺的ビジネスとか。でも、そもそも詐欺を奨励したい人はいないはずで「そうしないとお金にならないから」という言い切りや理由があるのかなと思います。それはそれでなんともですが、そちらの理由があるならこちらも全力で阻止するし、そんなことはしないだけですよね。

形容詞をつけて違いを出しても、社会的ビジネスという言葉が結局何かを説明しなければならないし、それこそ「既存のビジネスは社会に役立ってないのか」というカウンターも貰いかねません。なかなか言葉で簡単に説明することはできないし、仮に出来ても常にある姿やビジネス自体は変化するのでなんともですね。

そんなビジネスの違いですが、見分け方を身に着けなければ多分辛いですよね。でも結構簡単で、前者的なビジネスってやっぱりその人の考え方や結構しっかりと考えられていて、目先の利益に走ってないんですよね。目先の利益を得ないことは利益を放棄したわけではない。ここもものすごくバランスや経験値がないと意味不明に思えるところですが。

後者的な考えなら、人を騙すか、またはお客さんに売って売り逃げる(こういうことは今出来ないとかでなく、平気で営業マンが嘘を付いたり会社の圧でやることはあって、それがトラブルとなっても、泣き寝入りするなんてわりと普通にあるわけです)、または会社組織全体でそのようであるというような、不正が流行っているのか、そういうことになります。僕ならそんなの逃げ切れないから無理でしょと思ってしまうのですが、自分なら大丈夫とか会社が守ってくれるとか、悪い意味での保証があるので出来ちゃうのかもしれませんね。それはいいとしても、そういう人はやはりどこかで論理がおかしかったり、突いていくとボロが出ますし、目先の利益のみを見たり、または長期的な考えは考えないように促してきます。なぜなら自分の考えの浅さがバレるからですね(笑)

おわりに

昔起業だーとかいってたとき、怪しい人が一杯いました。全く経験がない人なら、例えば怪しい人を排除しつつ、面白そうな人に出会うのは、実は大きな網で魚を捕まえて選別するという方法を考えがちです。これって余談ですが、賃貸物件など家探しのやり方と似ています。条件に合ったものを網羅的に選ぶと時間がかかるので譲れないポイントで選んでいくというやり方ですね。

人において譲れないポイントって別に妥協するというわけではないんですが、例えば、たくさん知り合っておいてどうということでなく、気が合うとか考え方が良い人に対してそのつながりの人は似たような考えだから、そういうつながり方をしていくというやり方ですね。

前者のやり方を、一杯法(笑)というなら、後者は一人ずつ法といえるかもです。

一杯法は、100人とまず知り合って、5人くらいまで絞り込んでいく。95人の出逢いはそもそも出会った時点でなんだかなーと思いつつも、外向的な人が出来るのかもしれません。

一人ずつ法は、まず一人これってという人と話す。それで仲良くなって、一人ずつ紹介してもらったりする。それで5人になる。それぞれ濃いので関係も分かり合えることが多い。内向型向けかなと思います。

僕はこの2つであれば完全に内向型です。どちらの方法が良い悪いでなく向いたやり方がいいでしょう。ここでいえば僕なら95人と知り合う意味がないと思ってしまいますし、「あーまたこのパターンか」と思ってしまうんですね。パターンて何かというと、マニュアルではないですがやり方とかが何かどこから持ってきたような会話であったり、トークの流れがおかしいとか、結局お前さんはその怪しいビジネスを売りたいだけじゃないか(笑)といういかにもな話です。本来知り合うとかその人を知るのであればそういうのは不要ですからね。それって話せば見えてきます。見えないなら何か人とやるのは辞めたほうがいいってことになります。

どちらも結局5人の仲間や知り合いが出来るのは一緒です。多分、ないものねだりとか、隣の芝は青く見えるというわけで、外向型の人は少数の人にあうだけで知り合えるのはいいよねと思うかもしれないし、内向型の人はたくさんの人と知り合えるのがいいよねと思うかもしれない。けれど、結局一緒かなと。

あと仮に内向型の人の知り合いが極端に少なくても、そこに価値を置かないのであれば友達の数とか意味がないし、あと友達の数が100倍いるからといって100倍楽しいわけでも、優れているわけではないですよね。というか、ここで優れているとか楽しいに違いないと思うならそうしてみたらいいのではないかと。それが出来る出来ないはおいておいてですよね。でも、多分楽しくないですよ(笑)それだけですね。

今も怪しい人が純増しているとか純減しているとかは分かりませんが、確実にいます。でも、分かり合えるとかそういうことはなくて、ただいる、でもそれってどうなんだろうねくらいで止まっていると。対岸の火事ということです。でも、火の粉が飛んできたら他人事ではないわけですよね。これって火の粉が飛んできたらとは悪いイメージで使いがちですが、でも逆で客観的に俯瞰していてまずいなら動き出すという感じで考えています。それくらい多様になってきているなあと感じています。

今回は、言葉からイメージするビジネスとか、SNSとかそういうイメージで全く異なる話でした。異なる考え方を同じ言葉で持っていると、まず合わないし、一方の多数派に合わせた言葉遣いをあえてするのもどうかというところです。使うくらいはいいけれど、あえて自分の考え方を曲げて違うぞと矯正するのもどうだろうね、どっちも同じくらい間違っているし、正しいかもしれないそんなことを感じているというところでした。

筆者プロフィール

シゴトクリエイター 大橋 弘宜
シゴトクリエイター 大橋 弘宜
「シゴクリ」運営者。アイデアの力でお客様に貢献するゼロイチ大好きアイデアマン。ビジネスアイデア相談実績等は200超を超える。好きな言葉は三方良し。詳しい自己紹介仕事実績も合わせてご覧ください。お仕事メニューお問い合わせはお気軽にどうぞ。