継続の意味は不明とか、モチベが謎でも結果的に続けることが大事かも

たまには昔話というわけではないですが、だらだらと書いておきます。

テーマ的には継続ってなんだろうねってところです。あまりまとまってないですが。

小説家を目指す人の後ろめたさ

アイデアをブログに書いている個人の方で、Tさんという人がいた。Tさんとは別に接触があったとかでなく、単に僕が勝手にブログ読者だっただけだ。本名は知らずペンネームのみ。あえてTさんと書いておこう。

彼(おそらく男性)はサラリーマンで30代で、奥さんと子ども(いたかも)で、アイデアというのは特に小説面の話だった。つまり、彼はサラリーマンをしながら「小説を書いて」いて、一つの創作活動のアウトプットまたはアイデアを出していく形でブログをやっていたといっていい。

そんな彼にはゆらぎがあった。ゆらぎというのは迷いということで、サラリーマンをやっているのに、お金にもならない趣味または小説を自己表現としてやることの後ろめたさだった。だったといっているが、僕が勝手に読み取っただけでもっと複雑な背景や環境があったかもしれない。

この後ろめたさは何となく分かるが、完璧に理解できるとは僕は思ってない。というか、自己表現なしの趣味なしの面白いと自分が思うことなしの人生なんてクソったれだ、くらいに思っている。これはもう変わらないから自分で受け入れている。そんな悪態はつかないけれどね。

ある日、そういう小説なりアイデアをプロットなりで書いていって、始めて本を作ったという話がブログにあがっていた。ちなみにブログは読者は少ないのだろうがコメントがあったりで読者がいたのだ。そういう流れで彼は苦労したのか、本をかきあげた。本自体はPODつまりオンデマンドのやつ。一冊は1500円くらいするが、冊子的な本となって形に残るし、コストとして初期投資もかからないので良かったのだろう。

僕は本を買った。読んだ。なかなかおもしろかった。簡単に言えば、主人公は彼のリアルを重ねつつ、友人がアドバイスをしてくれるみたいな、半分小説、半分事実みたいなテイスト。やや自己啓発的なものもあったかもだけど、少し前に流行った「小説風自己啓発系ビジネス書」みたいなやつだ。この手の本は嫌いじゃない。ただたくさんあるとどれも一緒に見える感じがする。

その本自体は良かった。その後すぐに彼はブログで、小説というか創作活動を辞める宣言を出した。うろ覚えだが、どこかの出版社か編集者か自費出版か分からないが、何か話が進んでいたのかそれらの手応えがなかったのか、なにかがあったのだろう。辞めるというのは先に書いた後ろめたさみたいなものが取れず、サラリーマンをやりながら中途半端にやることがどうも釈然としない、これは性格だと思う(なぜなら多くの作家は二足のわらじが普通だと思うから)が、そのままブログも閉じるということになった。

潔いともいえるが、自分は成功しないというか、うまくいかないだろうからやめるという話の一例でもある。ただ緩やかに辞めた、自然解散ということでなく、ぶった切った、まさに一刀両断を自らに課した、そんな終わり方だった。それ以来彼のブログは読んでいない。

何かを続けるってのは何か色々な要素がいるっぽい

このTさんの話は、どう捉えるかがわりと難しい。そうなんだーで終わることもできるけど、僕としてはサラリーマンをしながらなにかしているだけでも意識が高いし、それが自分がやりたいことなら一生やってもいいのではないかと思うくらいだ。

ただ性格というのもあり、自分が中途半端にやるならやらないという人も結構いると思う。中途半端っていうのも難しいのだけど、小説を書いたら何をどうするか。どういう小説にして、同人誌でも活動できるだろうし、ライターとか小さな仕事をやってもいいし、文章を磨くのでも、誰かと組んでもいいし、PODとかオンデマンド出版でも続きを作っても良い。

多分着地の仕方は色々あるはずだ。だけど、Tさんは多分やるならやる、やれないならやめるという決断というか、きちっと決めてやる人だったんじゃないかと思う。これは潔いし、気持ちいい。でも、同時に潔すぎた感は一読者としてはあった。

つまり、もっと検証してじっくりねっとり(笑)ではないが、もっと時間をかけないとそもそも向いているとか、得意とか、やり続けられるとか、手応えとかってわからんのじゃないかということ。実際に改良したり、色々工夫をするから見えてくるのもある。単純な手数であったり、時代や運もある。

ここで書いていて思うのはそれらも含めて「色々」な要素があるということ。継続していくには、性格もだけど、そこまで潔くても駄目だし、ある程度中途半端でもやるというか。その時中途半端だよねーって言われても動じないみたいなところとか、自分が「大したものでない」と思って恥ずかしさがあっても出していくみたいな胆力。これらは批判のネタでもある。そんなものをだして恥ずかしくないのか。批判だけしたい人はこういうフレーズが癖になっているくらいに。

そういった何個の罠というか、壁というのか、乗り越えていくことが継続なんじゃないかと思う。実際はいきなり壁があるというよりも、ものすごく遠くに見える壁は関係ないと思ってたけど歩いていたらいきなり近くに来た。「あ、壁だ」と思ったら「意外に壁でかいじゃん」と意識して、壁にびびってしまうみたいなことだ。なんでもビビらない人はいないから、そこは打席と慣れでカバーしていくしかない。結局精神論になる(笑)

行動力があればできるとも思わない。素直な行動家はわりといいのだろうけど、天の邪鬼な行動家だとなんか色々いってやらない気がする(僕ではないだろうか(笑))。

Tさんから学べることは、やりたいこともある、気力も十分、アウトプットもやりつつ、あとはどうやっていくか。素人ながらPODで出版してこれからどうしていくんだろうかと、アーリー観察家として楽しみであったけど、一瞬でそれが終わった。というか終わらせた。

一方で悔いは彼にないだろうと思う。多分一つ言えるのは、「これでだめならやめよう」というような程度の意思では多分それを乗り越えられないかもというややパラドックスというか矛盾していることが言える。とはいえ、ある程度期限を切ってやったほうがいいという考えもあるし、正解は分からない。ただ今回に限っていえば、Tさんの意思力みたいなのが、中途半端だと自分で感じた時点で、性格がそこに加わって終了という決定になったんだろうと思う。

生きるゾンビのようにやれとは思わないけど、一方で死んでそうな人間(笑)も嫌なわけで、なんともというところ。

結論はない。ただ後ろめたさというものを今の人もこのようにもっている人は多いのかもしれないなあと思った。ただなんでもそうだけど、それでやってみてどうかということをやっていくしかないので、そのリスクだの何かあったらやだから怖いからやめようと思えば、結論的にやらないほうがいい。というかそうなると家に引きこもるしかないのではないかというくらいだが、極論だとしても、何かやると失敗するのが怖いならやはり何もやれないかもしれない。

あるアイデアマンのメルマガ発行停止

メルマガを更新できないから駄目とか、ブログが止まるから駄目ということはない。それくらい忙しいということかもしれないし、ブログが日々更新していることは暇かもしれないから。なんともいえない(笑)

2014年くらいに始まったあるメルマガを購読していた。アイデアマンとしては著名な方であろう。その方のメルマガは1年後には更新が終わっていた。途中で購読解除をしたから分からなかったが改めてみたらというところ。

この話は誰でも続けるのが難しいということでもあり、もちろんブログや今の仕事は順調のようなのでまたメルマガ継続と仕事の成功は因果関係がないかもしれない。

それくらい何かを続けるのは色々な要素がいるともいえるし、わりと結果論でしかないともいえる。例えばメルマガが止まってもTwitterで続いていて、それが終わったら今度は何かイベントをオフラインでやっていたりとか、そのアウトプットの仕方が変わるイメージは実は結構理解出来る。

僕の場合はブログをやり、メルマガをやり、飽きて止まってまた違うことをやって、色々あってまたブログを書いている。ブログというか文章を書いている。人と話すようなイベントは好きでワークショップをやっていた時期もあるが、また感覚が変わってきた。ラジオっぽいことを数年やったり、もはや何かやっているしかないのだなという諦めというか受け入れをした。何かやるとは、自分の考えを聞いてくれって感じの主張というよりも、こんなことをしたら面白いのではないかというアイデアに対する実験であるというか、冒険というか、探究心みたいなもの。これを好奇心という人は多いけど、正確には「何かやってみたら面白いことをやってみようとする」感覚と「色々なものに興味がある」という好奇心は結構ずれる。

前者があるから後者は分かるけど、後者だから前者かというと、やってみるまでいかない好奇心があるならそれは違うので。やってみたいと思えるまでの好奇心パワーがあるってことだろう。

手を変え品を変えアウトプットを変えるものの、それをやり続ける。とても泥臭いし、20年くらい前にあったようなインターネットのこちら側とかあちら側みたいな話でもないけど、そうしたからといって何が起きるか、結構分からない。アウトプットをすれば幸せになれるとかそういうことでもない。もっと本能的に、考えずに、ただやっている。書いてもいいし、つぶやいてもいいし、人に話してもいい。そういうアウトプットをしないと死んでしまうのだろう。物体は死ななくても精神的に死ぬという感じが強い。

自分という人間は自分の非合理性とか情緒性みたいなものも全部飲みこんでそれ自体で自分だから自分がやったことをまあ説明したり、色々と結果論でいえば一応筋道は立つかと。ただ、人からみた自分は一部でしかない。長い付き合いであっても全部は分からない。その一部を読み取っていくだけだから、その人のアウトプットが一時的なのか、他にうつってずっとやっているのかは分からない。ただここでいえるのは、仮に何かやりたかったこととかやっていたことをやめたとしても、それってまた本能的本質的にやりたかったなら、またやるし、やめられないのではないかってそう考えている。

禁断症状とか中毒ということではない。多分僕であればアウトプット的なことを何かしたいし、アイデアを試したいということ。Tさんであったら多分今は分からないが単に他アカウントでまた活動している(例えばなろうに投稿したりとか)可能性も相当ありえる。仮に今やっていなくても定年後(100年人生だからもはやいつなんだろうか)にやっている可能性も高い。それくらいやりたいこととは、簡単に消えないし、なくならないし、短期的に消えてもまた出てくるものだと考えている。

それに純粋というか従って生きている人は、自分との本当的な対話コストが低い(簡単ということ)から、あまり迷わず色々出来るじゃないかな。対話コストが高い人は色々と論理立てて自分を説得したり、周りの人に共感してもらわないと動けないというか、動けるんだけど自分はやれないみたいな感じ。だからなかなか動けないのではないかと。そういう意味では自分と対話をしょっちゅうしている人は、もちろん行動をしたいということがあって始めて色々と出来るんだろうなと感じる。

自分をモチベートするには

現代というか今に戻します(笑)

結局、自分が何かをやる時、あなたは何を考えてどう行動しているかに意識的になれってことなんじゃないかと思います。

つまり、なんでそれしたんだ?というとき説明できればそのルールというか論理や根拠で次も動ける。納得できないなら多分次はないかもしれないし、強制や義務となってストレスが発生すると。その場合何でストレスがあるのかが明確なので切り分けもできるよねという感じです。

と、言葉でいってるとそれっぽいんですが、実際は「自分の感情」なんてコントロールできないです。苛立ちは苛立ちですし、笑いは笑いですから。笑おうとおもって笑うのは不自然ですし、苛立とうとして苛立っていません(笑)もちろん笑いたいとか思って笑うのはありますが、このあたりちょい面倒なのでニュアンスでどうぞ(笑)

とはいえ、コントロールできないから「いらだち」を覚えたからその人に注意をする、時には手を出すということをするかというとそれはまた別です。というか普通はやらないはずです。仮にこれが出来るなら他の感情も同様になります。つまりプラスということで「起業しよう」と思ったらすぐ出来ることになります。実際は起業=怖い=面倒=そんな度胸ない=勉強不足かもしれない=今はやめておこう、がありそうな心理でしょうか。そういう場合はある意味怖いという感情に従っているのでいいかもしれません。

コントロールできない感情とはいえ、それを感情でもっていかれて何もできないならちょっととなるので、そこをコントロールするわけです。プロゲーマーが負けたから悔しいから自暴自棄になるわけないので、悔しいけれど切り替えるとか、どう自分は反応したり感じるかを知ること、それをもって対応をする(馬鹿げているという人もいそうですが、深呼吸をする、体を動かす、違うことを強制的に考える、今まで辛かったことを思い出すとか)わけですね。これらの対応が効果があるかはその人次第なのでこれをやればいいというわけでなく、あなたがあなたなりの反応を自分で観察してそれに対して対応をすることで意味があるってだけですね。

僕の場合、ブログをなぜ継続できるかという問いはたまにもらいます。が、ぶっちゃけ継続のコツというよりも、上に書いたように自分がやる気がなくなった時に結局辞めてもいいとか思えるかどうかですよね。やめてもいいのだけど、またやりたくなるのに頼ってもいいし、なんか違う切り口で書いたらやる気がでるとか、そのスイッチの入れ方を研究というか自分のことは自分がよく知っているはずなので、ごまかしてもいいし、他のことやってもいいし、でも最終的には「何か文章だけは書いていたな」という感じがものすごく大事だと思います。その時の文章自体で何かしたとかいうのも大事なんですけど、多分根っこは「何か文章だけは」みたいな、何か「していたこと」がものすごく大事で、多分一生モノですから。

なぜなら、そういう何か、よくわからんなりに自分に出てくるものって、超やりたいことというポジティブなものよりも、何かしらないけど理由は言えないというか明文化できないけど、といって「こうだ!」といっても何か心としては違うというか説明してるけど違うというか、モヤモヤするというか、ちょっとこれ中途半端じゃないかと思えるようなこととかに近い。そういうものすごくよくわからんけど何か気になる、怖いもの見たさとかに近いのか、もはや分からないのですが、わからんなりにやるみたいな。マグマだまりみたいな熱源。でも自分では分からない、見えない、あったかな?くらいのそれ。

そういうのがあるんじゃないかなと思います。だから、小手先では自分をごまかすだの、とりあえず手数をってことになるんですけど、長期的に抜本的にはそういうよくわからんもの、何かを大事にしないと多分続かないし、伸びないというかやり続けられないんだろうと思ってます。

説明がうまくないですが、良くわからないからやめたということでなく、多分自分でも自分のことは説明できないことも多いから、そういう未知な自分、または眠っている自分(怪しい意味でなく(笑))を大事にしていくと、なんかいい感じに色々できるんじゃないかってことです。

多分そのよくわからんを大事にしている人は、コレだとかそれだとかいって仮に一喜一憂、ゆらぎがあってもそこまで「100%」これということはないよねと分かっています。100%でやっているから、それが完全に自分がやりたいことだから出来るという発言は最もですが、多分嘘というか言語化にミスっているとすら思います。嘘というと言い方が悪いですが、そんな100%説明できる何かってやっぱないわけで、頑張っても8割くらいじゃないですかね。2割はミスリードしているか錯覚か、常に変わる何か余白というかあそびと考えてもらえれば。

だからこそモチベート出来て結果的に続くわけです。と、僕は自分のモチベーションの何かってこういうわからん感じのもののほうが強いんじゃないか、だから今これやりたいことがないから「駄目だなあ」とか思わないほうがいいし、仮にあっても見つけてもそれが100%でないはずだから、なんというか「今の状態でなんかわからんけど楽しい」とか「説明しづらいしできないけどなんかいい」とか、「なんかいいかんじ」を大事にしてみるといいんじゃないでしょうか。偉そうですが。

おわりに

Tさんの話という昔話は、メモに軽くあったものでここまで書く予定ではなかったですが、多分色々あったんだろうなと思います。出合うことはないのでしょうが、良い人生や生活をされていることを祈っています。

今回のテーマはモチベーションなり継続ということでした。非常に分かりづらいと思いますが、最終的には「わからん」何かは強いってことです。分からないことを分かっているというかこれはソクラテスか、まあそういう自分を知っていることが大事です。

モチベーションもこれだ感でなく、違うかもな、謎感、ずれてるかもでもいいので、結局何か知らないけど結果論的に続いていればいいわけですよね。そのやりたいことが出来てないなら駄目とか色々あるんですけど、とはいえ続けることが常にいいともいえないので、どうすりゃいいのっていうと、どうとでもしてくれって感じで着地します(笑)

ここまでこれば、わからんモチベでもなんかやりたいならやればいいし、明確に何かしなくてもやればいいんでしょうって感じで動けるのではないかと。問題は確かに自分の感情を受け入れるとかしないとさすがになかなか理想で適当な自分像だけで機能させたりとか、ええかっこだけで何かとかってやっぱ無理でしょうね。ストレスというよりも、ズレがやはり分かるし、バレてしまうということでしょう、ごまかせないというか。

というわけで、続けることについて書いてみました。

筆者プロフィール

シゴトクリエイター 大橋 弘宜
シゴトクリエイター 大橋 弘宜
「シゴクリ」運営者。アイデアの力でお客様に貢献するゼロイチ大好きアイデアマン。ビジネスアイデア相談実績等は200超を超える。好きな言葉は三方良し。詳しい自己紹介仕事実績も合わせてご覧ください。お仕事メニューお問い合わせはお気軽にどうぞ。

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