価値について考えることが相対的に減っているのか

ふと価値とか価値観という、わりと抽象度が高い事項について、もしかしてですが、昔より減っているのかなと感じました。これは社会全体がとかでなくて、主観的に自分がってことですね。

たとえば友人、とくに昔からのというところでいえば、そういった語りは普通にあるわけで、それが醍醐味というか、その人らしさであり面白さというか。そう思ってるわけですね、僕がですね。そうなると、語りがないとかってまずはなくて、当たり障りない話って面白くないわけですよ。むしろ、当たり障りないがない感じで万人向け?を意識してやるとつまらないし、またそれをネットなどでやると尖ってるため文脈が共有されないため炎上するというか。

よってTPOなんだろうなというところもありつつも、オフラインを全部オンラインに上げてしまうのもまだどうなんだろうって感じもして、そうです、身体性みたいなものがあるから、リアルやライブ的な価値を大事にするならそこで感じるで終わりなんですよね。もっとも不快なものは不快なんで、我慢しろみたいな話ではないです(笑)

それで、価値とか価値観、または人生哲学といってもいいし、生きるとは何か、何が楽しいのか、どうやって生きるかなどは、わりと固い話ですよね?と思うんですが、とはいえこれらは色々な考えがあるからこそ、理解はできなくても面白いというものがある。自分はやらないけど分かるわっていうのは理解とは微妙に言えないかもですが、とはいえ無理解でもないというか、そういうバランス的さじ加減がある気はします。

今回はそういう語り合いですかね、価値を考えるとかってどういう感じがあるか、そこらへんざっくばらんに書いてみます。

語りがあることは純粋に価値の開示がある

ちょっとむずかしい言い回しですが、価値を開示とは、自分ってこんな人なんですよと言っちゃうことですね。ちなみにこれは押し付けではないので、開示して共有、受容できないとまあ話が始まらないかなと。ここらへんが簡単とか難しいとかで終わらない人間のアナログ感があるなと感じています。

この語りについてはわりと学生の頃に、同級生自体が面白くないという気づきを得ていて、何故か?という時に気づいたことがあります。

例えば、自分が考えたことを述べてくれるのは面白いのですが、どこからか持ってきた概念を出すのはまだいいんですが、虫唾が走る(笑)のは「他ではこうだから、こうですよ」「みんなやってる」からっていうところで、通そうとするのがイラッとするんですよね。

なんですが、これ性格としてですが、外向的というところで、気質が自分の内面に生きづらい、他でいえば、社会維持というか保守的といえるしって感じがスタンダードな人なんですよね。っていう意味で僕とは相性が悪いって感じなだけですね。

それはともかく、そういう自己開示ができて関係性が出来るとは、単にですが、ある程度内向的で、自分のことを考えると。そしてかつ、それらを開示できるというレベルまでいったということにあるかなと。まあ、これ自体は偏っているとはいえ、結果的にそうなるなと。

だからこそ、語りって誰とでもできなくて、人を選ぶと。なのだけど、だからこそその分価値にもなると。

ただし、外向的なタイプの人はこのあたりかなり分かりづらいというか、価値として感じづらい気がします。絶対ではないですよ、傾向としてですね。そして外向的な人でもやろうって人はそれでやればいいのですが、概ね内面や自己世界がどうということに実質ですが興味がないことも多いので話が合わないことも多いって感じですね。チャネルを閉じているわけではないと思ってますが(笑)

価値交換ではないが、考え方は刺激的ではある

思考とか考え方って面白いと考える人がいないと共有しづらいですが、僕はまあ面白い思ってます。こういう価値観とか考え方自体がです。その考え方自体が賛同できるかは別で、そういう人はこう考えるんだね、みたいなのが面白いということです。当然僕もそういう中の面白がる一部って感じですね。

ここで、先の外向的タイプならきついですが、そうでない場合でも、限られた状況や人となるものの、そこでそういう考えを開示し合うのが面白いって話です。これは刺激的なんですよね。

面白いのはこういう内面世界を大事にする人は人への配慮も有ることが多いので、そうすると言わなくても分かるみたいなことになりがちです。ですが、実は言わないと分からないことも多く、それはある種外向的な作法となるのですが、内向的な人にとって「そんなこと言わなきゃいけない」くらいの「あえて」言うくらいで、外向的な人にとっては「あーそうなんだ」とやっと気づくというバランスがある。

つまり、過敏だから良いなんて思わないですが、適度にやはり神経質になりやすいのが内向的な人ですよね。だからこそ、鈍くありがちなのは外向的な人でしょう。別にここで、過敏、神経質、鈍いの評価はなくて、そういう状態って意味合いです。だからこそ、外向的な人と話して自己開示、語りというのはちょっと難しいかもですね。

僕の経験上ですが、そういう人と語ると、そこまで考えてない→考えているの偉いってなるのですが、そこの評価はどうでも良くて、「考えないんですね」ってなって話が終わる事が多いですよね。話としては「考えてない」ことを攻めるとかもなくて、なんか「あなたの意見」をもっと聞けたらいいんだけどね、ってところで少し残念なくらいですかね。

語り合いみたいなものはやはり楽しい

これは受け入れられる感じもあるし、また一体化=深い意味はないですが、発話者と受け手が色々と話してボルテージが高まっていくとなんか良い感じで刺激されて一体感ができてくるというか。場作りってこういうのをやっていくとか、ファシリするみたいなものがありますが、そういうのは面白いと。まあ疲れるんですが、語れる、対話出来るって楽しいですよね。

そういうのってなかなかなければ、俺の話を聴いてくれではないですが、やはりないなら他で補給?しないときつい感じがしますよね。

だからこそ、話せる人とは話しておこうとか、話をしていこうってことなんですよね。これがめちゃくちゃ大事です。

そういうことがそもそも全ての語りであるし、本質的な話でもあるし、その対話や哲学といってもいいですが、楽しいと。そこって物質的にも色々興奮物質が出ていって、幸せホルモンみたいなものも出てるんじゃないかって思いますよ。それくらい満たされますから。

当然、俺の話を聞けってジャイアンみたいにやるんじゃなくて(笑)そこはお互いって感じですよね。別に両方ジャイアンであれってことでなくて。このあたり経験してないとかなり分かりみがないところですかね。

おわりに

タイトルについていえば、別に相対的に減ってるとかはないんじゃないかなと。ただ、本質的にいえば、人によって変わるのはあると。というかそりゃそうですよね。

時代が時代ということで、変化していくところで弱いというか、翻弄される=特に外部の情報でですよね、自分がどうかを考えずにそれだけで頼ると、まあ本当に波に流されるかのようです。

実際には波に流されるとか、あらがってもしゃーないことなんて一杯ありますよね。でもですね、流されても良いんですよ。でも、流され続けていいかというと、それはちょっと違うよね?ってストップや自覚というか、自分がどこかで残るというか。濾過されるという感じです。そこにあるのは小さい自分で、大きな自分ではないというか。小さいとか大きいは比喩です(笑)

逆に、この状況かで、充実したり、人と語って満足できるって人は相対的にですが、どの時代でも満足できるってことになるかなと。つまり、適応できるし、自分なりの生き方があると。むしろあるからこそ、適応しているしって循環ができているわけですよね。

今回はそんな感じで、語り合うみたいな価値について考えてみました。

筆者プロフィール

シゴトクリエイター 大橋 弘宜
シゴトクリエイター 大橋 弘宜
「シゴクリ」運営者。アイデアの力でお客様に貢献するゼロイチ大好きアイデアマン。ビジネスアイデア相談実績等は200超を超える。好きな言葉は三方良し。詳しい自己紹介仕事実績も合わせてご覧ください。お仕事メニューお問い合わせはお気軽にどうぞ。

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