アイデアの「意味」と「価値(意義)」の違いを考える

アイデアの価値って話にあがりがちです。それが実現しないと意味がないというのは、何度か考えるのですが、ドラスティック=劇的で、急進的な意見と僕は考えています。

なぜかといえば、実現されない多数のアイデアがあるからこそ、実現出来た(文字通り実行が難しい意味もあるので)アイデアが価値となるだけかと。つまり、考えたアイデアが実現がほぼ出来る人にとっては、そこまでシビアに「実現しないなんて価値はない」(もっといえば、実現しないものはゴミ(笑))というのはやっぱり過激だなと感じます。

過激だからどうというと、強い言葉はそれだけ「頼もしい」「自信なんだな」と思われがちですが、単に強い言葉を使う人はそれだけ恐れていることも普通です。それくらい言わないと、やらないと響かないはわからないでもない。ただそれって長期でやっていくスタイルかというと、僕は違うなと。

だから僕はここで明記しておきますが、この考えが変わることもあるんでしょうが(笑)、やはり「アイデアは実現だけの価値」ではないなと。それ自体プロセスとしてその過程自体が、プロセッシングですよね、それも楽しいと。そういう中でのアウトプットが僕は価値があると思っています。

結果だけ出してドヤしたい人は全く相容れないのですが、世界観としてはそういう人とは一線を画すはずなので、なかなか理解はされづらいと。ただ自分が向いた方がいいならば、一定の譲歩もできるわけです。僕は「実現出来ないアイデアは価値がない」なんて切り捨てるタイプではないし、そうしたくもないと。切り捨てる人ってそんないないはずなんすけどね(笑)ただそういうインパクトがある、強いから印象に残るだけで、そんな人実は相当変わり者中の変わり者だったりなんてあるわけで、もうそうやって扱ってもらってもいいんじゃないかなんて思っています。

長くなりましたが、今回はある書籍で、意味と意義の違いが書かれていたのでそこで、アイデアに対しても同じことが言えそうではないかという気付きのアウトプットです。

意味と意義の違いとは

細かくは本書にあたってください。その上で、僕の解釈はこうです。

意味は、感覚的、感情的なもの、動的で常に変わる。とくに、求める人に得られる性質がある。当然得られるとは「意味」自体であって、そこに内発的というか自己充足的な意味合いがある。固定されてないので、数学のように決まった解はないということ。

意義は、有意義などに象徴される「価値がある」というようなこと。例えば損得の価値などはそう。社会が良いとか評価がどうとかそういうことが思い出される。有意義な時間だったとは、確かにその人が「良い」と感じたのだけど、何か社会的にそう思われるという視点やまなざしが入っている気がする。感覚に従えば「楽しかった」でいいわけだから。

アイデアの意味とアイデアの意義

ここでアイデアについて考えてみました。

アイデアの意味ですが、ここでいえばアイデア自体に対する楽しさとか、面白さであって、アイデアを出すことが楽しいも「意味」の方になりそうです。僕が感じる意味を他の人も感じるかはわからないです。また同様に僕の中でも局面や状況で変わるからです。

そして意味を求めるからこそ、僕はアイデアの意味を得ようとするので、意味が得られているとなります。つまり、アイデアって意味があるよなという意味で行動をするので、「このアイデアは意味があったんだな」というような充足行動も取れるわけです。

翻って、アイデアの意義です。意義とは価値と考えると、「そのアイデアの価値はあるとかない」とかみたいな話になります。アイデアの価値ってやはり自分がどう思うかよりも「他者」「他人」「社会」からの視点が優勢です。という言葉の意味なだけですが、ここでアイデアの意味VSアイデアの意義となるかどうかですよね。対決しなくてもいいのですが、「意義」だけ語っても、それは物語にはならないんだろうと。

つまり、物語、ここではナラティブといったほうがいいのですが、その人、僕が持つ物語を語る時それは「意味」です。意味というのは、例えば僕がなんでアイデア出しをやっているかは語れるのですが、これ他の同じようにアイデアを出す人がいても同じではない。仮にストーリーが骨格が似ていても(青年は現状を憂う、そのために街を出た、そして学び、社会を変えようとした、しかしそこに困難が現れる。仲間を探し・・・なんて王道ですが読みたくなりますよね(笑))やはりそこは同じではないわけです。だからそれこそが「意味」といっていい。

アイデア自体の意味がなければおそらく行動が出来ないと。なぜなら熱量が生まれないからです。意義ベース、価値ベースで動くと役に立ちそうだからやる。これも立派なのですが、それで動けるかは僕は怪しいと思っていて、役に立つからやれるオートモードみたいなものって、やはりそこに自分はないわけです。自分がなくても人のために生きていられる、素晴らしいのですが、最終的にその他人、役立ってありがとうとい人から見られる自分を意識せざるをえないかなと。だから自我って消えないのかなとも思います。

仮にその場合「他人」マターとして、他人から発動するニーズでもなんでもいいですが、それがなくなったらどうするのか?それだけですよね。まあこれらは思考実験でしかないので、僕は多分無理だなというだけです。だから、意義だけで語らず意味と両方欲しいかなとおもったりするわけです。

アイデアの意味って求めるものなのか?

アイデアの意味ってなんでしょうか。コンペで求められるのは価値です。依頼者の求める期待を実現できるアイデアであって、それは意義ベースであり、価値ベースです。そこは僕は理解しています。

その上で、意味は個人がつまり起案者が勝手に考えて与えるものかと。それは感覚的でとても動的で、曖昧でとても情動情緒的なものと。

ではその意味は「意義」たり得ないかというと、基本それは評価対象ではない。なんとなくですが、CDの録音できない音域みたいな感覚と言ってみたいわけです。

例えば、提案時にアイデアの意義ベースなら、それが「評価できるか」だけで見れば良い。でも、評価者は人ですよね。だから「熱量があるな」とか「なんか気持ち良い人だな」とか「面白いやつだな」とかおもったりする。これって別に「えこひいき」じゃないですよね。自然な感情だと。それが僕は意味だと思います。またはそういう評価されるかはおいておいてですよ、起案者が「楽しい!」って意味づけしてやっているものは「伝播する」わけですよ。それが巻き込みであり、熱量だと。

そういう熱量的な感情的な意味があって、かつそこに価値ベースの意義が乗ってくる。これは不可能もなにも普通に存在すると。単にアイデア自体をどこまで考えられるかというのも、熱量=意味になるんだと思います。

僕は意味を求めたほうが楽しいという感じですね。意味を必ず求めないといけないわけではない。他人が評価するものだけで構成された社会なんて面白くないので、自分がこれが良いと思った。それを普通にぶつけていけば良い。この時、この意味=主観と、意義=客観ですかねが矛盾することもあるし、そうでないこともあるし、まあよくわからないんですよね(笑)

だからこそ、どーんと言ってしまおうという感じがあります。

ただポイントとして、この意味ベースのものって、楽しさですから、感覚的になっていない、楽しいぞとかワクワクするぞとかがないと、やはり生まれないものです。充足モードと言えるのですが、これを求めずにやっていると、なんかつまらなさそうですし、少なくとも僕は関わりたくないってだけですよね。それ楽しいんですか?で終わるやつです。

評価されないなら意味付けは無駄?

意味付けは意味がないというような、言い回しになりそうです。

ただここで意味付けとは、感覚を自分の感情をぶつけていくようなことです。本書では、新型うつみたいなものはこの意味つまり、人生の意味ってなんですか?みたいな話があって、そこを求めてそんなのないって思ってしまうような、ちょっとうろ覚えで恐縮ですがあるんですね。

要するにうつとかって自分の感情を殺しまくってしまう状況が環境として成立する。だから「自分は面白くないですよ」とか「それはどうかなって思いますよ」とか「これ楽しい!!」みたいなことを感情が動いていればそうならないです。負荷があってストレスがあってそれをしないような設計がされてしまうとそうなると。だから誰でもなるんですよね。

そういう意味付け、普段の人生として、「今日めっちゃ楽しかった!」って人は鬱にはなり得ないんですね。ここで「意味」とは、そもそも意義と違って何か正解があるわけではない。例えば「僕の人生の意味があるか」は、文字通りあるかないかは僕が決めるだけであって、人がどうこう言うことはない。罵倒とかでありえるかもですが(笑)そこは置いておきます(笑)

そもそも、意味とは人生の意味でもですが、僕が主体的にこう思うという主観的な「意味づけ」をするから成り立つのであって、身体や心がその通り求めるだけで成立する。成立というか、そういう人にとって得られる充足する世界のことです。

だから、人は仕事をして、例えばこういう仕事をすることが「人生の意味」なんだよはおかしいわけです。そういう人がいたら、違和感しかないのと、それを命令出来るのは「おかしい」と。

一方で価値です。意義ベースが強いと、例えば仕事がうまくいかないとか、ミスしてしまうので「自分の価値は低いなんて言ってしまう」わけですよ。でも、そこでたまたま出来なかっただけで、それ自体をもって「社会的価値がない」とか「生きている意味(ここでは価値が正しい)がない」なんてことになってしまう。典型的なうつ傾向の考えですよね。

そもそも世界線として、2つとかあるわけではないんですが、少なくとも主観世界と客観世界があると。とはいえ、客観世界もかなり怪しいので、多くは主観が色々あってそこである程度共通として理解できる主観が客観みたいになる。結局ニュースも事実を述べても色々感情や感覚が異なりますからね。データですらそうですよね。

そう考えると、意味として求めたり、これは感覚的に反応したとかってうつにならないためにもですけど、大いに意味があります。というか単純にその方が楽しいのでパフォーマンスも上がるし、精神的にも機嫌が良いというか、悪いことにならない。

評価されないならやらなくていい=これこそがまさに価値ベースの極みですが、それを詰めると、効率的打算的であって、無駄がない。一見良さそうですが、遊びがないので面白味がない。まあ僕は付き合いたくないタイプの人ですが、そういう人間になるんだろうと。

だからこそ、僕は意味を求めて意義を求める方であるという感じです。意義として価値だけ求めると、うつにもなりますし、まあ健康的ではないですよねって話です。これは僕の考え方であって、社会一般に共有されるとは思ってないですよ。ただ、共有できない社会ならなかなかハードだよなっていう感じがします。まあ遊びや余裕がないのでなんかギスギスする感じですよね。

カセギとツトメの話

アイデアとはそれますがもう1つだけシゴト作りとして面白いのでここも触れておきます。

カセギとは、哲学者の内山節氏が唱えたかは分からないのですが、簡単にいえば僕が解釈すると以下の理解です。

カセギ=食っていくためのお金を得る、いわゆる賃労働。他人のところで働いて現金を得る。労働といっていい。

ツトメ=社会のために働くこと、コミュニティや家族のためという行為。

という理解があります。ここで、本書ではハンナ・アーレントの労働、仕事、活動も言及されていますが、ほぼハンナ・アーレント的の労働は、カセギといっていいと思っています。活動が政治とか芸術になるのでやや分かりづらいですが、仕事は自己充足的なものもあるので、ツトメに近い。

つまり、カセギ=労働であり、ツトメ=仕事や活動という感じです。

僕はシゴトクリエイターと言う屋号を使っていますが、ここでいうシゴトは、労働の意味ではないです。よく「仕事を増やすな」という否定的な意味がありますが、あれは「労働」ですよね。労働として賃労働を色々やって報酬が増えればいいですが、多分そういうことではない。報酬は変わらないなら短時間でやった方がいいというわけですよね。当然このシゴトを作るわけではないですよと。

他に言えるのは、仕事=労働と捉えることから逃れないと、つまり会社がスーパーで、そこに仕事を貰いに行くように果物や野菜を買いに行く感じでやっているって感じですかね。これは言い得て妙だと思うのですが、その感覚があると、実は「シゴト」は作れないです。

ゼロイチでなくて、仕事が労働であるという認識から逃れるには、シンプルに自分で「カセギ」をやるってことですかね。「仕事」をつくるってことです。つまり、他人のためにが入っても当然いいのだけど、自分のためにこれをやるのだということが必要となる。だから、こじれたわけではないのかもしれないですが、「仕事をしながら趣味に生きる」(実際には労働をしながら仕事に生きると読める)みたいな人が出てくるんだろうと。

この仕事、ツトメはおそらく本質的なものです。放っておいても出てくる性質のものってことです。これがないと先の意味と意義でいえば、なんで自分生きているのかなって意味を問うわけですよ。でも意味がないと思ってしまう。そして意義だけで生きる。まさにこれは、仕事=労働だけをすると、単にお金だけ稼ぐロボットみたいになって、カセギや仕事がないので充足がしないんですね。ストレスだけで、なんで生きているんだろうって、他人が言われたこととか、やりたくもないことばかりで。こんなのが人生で、みんな楽しいのかね?って(笑)分かる人は重症かもしれないですし、それが長引けば怪しいので専門家に診てもらったほうがいいですよね。

それで、ここでツッコミとして、労働やカセギとしてお金を得るのは分かるが、仕事ってボランティアなのか?って話です。ここは、里山とかと都会は違うのでなかなか理解しづらいとは思いますが、そもそもお金自体は価値交換を円滑にするツールに過ぎません。経済=資本主義が普通だと、あまり疑いづらいのですが、おカネがなくても信頼があったりして、ものをやりとりできるならば、お金って要らないですよね。当然そこでごまかしたり、色々物が返ってこない(笑)とかで崩壊する可能性もありますけどね。

でも、それらのリスクって実はお金でやり取りするほうが信じられるかというところと、そこまで変わらないのではないかと。結局お金であればお金を出す側が優位になるような印象もあるわけですし。

僕の感覚では、賃労働としてのお金ですよね、お金を得るためだけをすると多分死にます。精神的に死ぬ、それこそ鬱病になります。そういうロジックになるからですね。ここでもドラスティックにつまり根本的に抜本的に「ツトメ」として社会のための仕事だけでいいのだとなると、ちょっと自給自足とか村落で生活するみたいな思想が入っていってこれはまた辛いと。パーマカルチャーではないですが、そういう考えがあってもいいけど、僕はそこまでしたいとは思わない。

ただ、都会生活者がカセギだけで、そこから趣味もカセギでやってというのはあまりに不健全というか、精神的にどうだろうなというのが僕の読み方でした。だから、さじ加減としては、労働もするけど仕事もしようと、カセギもいいけどツトメもしようと。そういう感覚となります。

ここでシゴトクリエイターと名付けて良かったなと(笑)改めて思うのは、この言葉のシゴトは、明らかにハンナ・アーレントがいう仕事を意味していて、自己充足的なものをやろうということなんですね。それは創造しないと生まれないので、すぐ起業だとかビジネスだとかになりますが、その前に色々やっていくところのプロセスを大事にしています。ここで起業してカセギになってカネが得られれば何をやってもいいなんてならないわけですし(このOSや考え方があればですよ)、そのツトメだけに割り振ってしまってお金なんて要らない!なんてことにもならないわけです。

両極端となるとやはりなんでもやり過ぎですから、僕はそこまで考えようとは思わないです。ただ、マイルドにやるやり方は色々と自衛というか、自営というか、出来るわけですよ。そういう意味で自己創発的に自己充足するのがシゴトで、そこをやっていくと、自分が面白いのは当然だけど、人にも意義が出せる。まさに意味と意義を満たすことはできるのではないか?これは魔法でも無理な話でもないよね?ということを検証していくというのが、僕が名付けた意味だったんですよね。ということになります。

誰もがそのシゴトで幸せになるんですよ(笑)というと怪しくなるので言わないですが、考えとしてはその感じです。ただ、そのシゴト自体はこれって決まったわけではないです。だから自分が意味を求めて考えてつくると。そしてカセギもやるならそこで「価値」を作る必要があると。それだけですよね。

おわりに

大きく2つの話を書いてみました。どちらも意義と意味の話でしたが、主観的な意味と客観的な意義と捉えると分かりやすいと思います。

そして、もっと言えば、シゴトとして仕事や労働というところで、商品化された資本主義の中で労働というのは意義になりやすいというわけです。意義とは価値のことで、他人が得られるリターンがあるからお金が得られるというパッケージといっていい。仕事はそうではなくて、ツトメであり社会や誰かのために「お金」は通さずやるようなことか、自分で意味を求めてやるからこそ、意味になりやすいというわけです。

ここまで考えると、

意味=仕事=ツトメ=シゴト=感覚的ということになり、

意義=労働=カセギ=評価的=客観的ということになりえます。

だから前者だけでいいとか、後者だけでいいのではなくどちらもいるよねというところです。ただ社会的にいって、意義だけで詰めているとまあ辛いわけです。精神、心や身体は自ずと意味を求めるものだからです。別にそうでなくても、なんかしんどいってのは大体そういう感覚的なものですからね。

そこまで考えると、アイデアの意味とか意義も両方大事で、だからこそ、意義としての価値ベースで見ることに対してとても懐疑的なところが明確になりました。価値だけを求める人もいると思いますが、それだけでは熱量や人が動く、感覚的な楽しさがないのでなかなか実現にならないだろうと。

同様に仕事(ここでは労働)をしながら趣味で満足するというのが昔から理解しづらかったのは、おそらくバランスを取っていそうです、その内実は「労働は割り切るものである」という前提があって、そこに「自己充足」を入れないからですよね。今もこの考えは苦手です。別にそれは主観で価値観なのでそういうものもあるのは分かるのですが、割り切る時間や環境で蝕まれて免疫が下がっていくと、その趣味もそこまで愉しめるのかなと。実際に趣味時間のほうが短いわけで、労働として割り切れるわけではないんじゃないかなと。

むしろ自己充足して、楽しいなとか、それこそ究極は生きててよかったな!と思って死にたいのが僕ですから、その時につまり死ぬ時に「趣味が楽しかった!」というならいいんですよね。でもそこまで趣味に詰めるなら、多分それはカセギにもなるけど、少なくとも仕事にも生きるはずで、そういう割り切りにはならないのではないかってのが僕の考えです。

意味と意義だけでも色々語れますが、シゴトクリエイターの意味はそういうものでした。まさに仕事として充足するものを作ろうということです。意義はお客さんなり読者が見出してくれるものです(笑)このあたりをわりと説明したり、アイデアと重ねていく人は多分多くないので、しっかりポジション取っていきたいと(笑)冗談ですが、思いつつ以上気づきでした。

記事を書いた人

シゴトクリエイター 大橋 弘宜
シゴトクリエイター 大橋 弘宜
ビジネスアイデアメディア「シゴクリ」運営者。まずアイデアを出すアイデアセッターであり、生まれてくるアイデアをビジネス化出来ないかを考え続け、手を動かすゼロイチ大好きアイデアマン。ビジネスアイデア相談やビジネス企画の実績多数あり。毎日生まれるアイデアから世のために貢献していくスタイルです。好きな言葉は三方良し。詳しい自己紹介仕事実績も合わせてご覧ください。お仕事メニューお問い合わせはお気軽にどうぞ。

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