100%出来ると信じているから全ての失敗はフィードバックだ

アイデアを分かち合うという考え方は、ある人にとっては謎な考え方です。例えば、アイデア自体が欲しい人にとっては「そんな価値あるものをなぜ手放すのか」と感じるからです。一方で、価値自体は誰がどう見出すかは分からないので、自分で持っている意味を感じられないならどんどん出していけばいいとも言えるわけです。

もっと客観視すればこういった無邪気な考えがアイデア自体を安くするとも言えるのですが、実際にお金に結びつくものとそうでないものは明確に差があります。適当にやって適当にお金が稼げるのであれば「楽」ですが、そのようなものはどうもないようです。仮に「ある」と思う人はそのような「楽」を探してもらえばよく、そういった「楽」なアイデアや考えは本ブログには1mmもないことは読者なら重々承知でしょう。その上でどうするか。

このアイデアを分かち合うという考え方自体は面白いと思ってくれる人がいるならば、そこにどうやってたどり着けるか、たどり着いたか。その考えをざっと書き出しておこうと思います。

自分気づき、考察メモで長いです。時間がある時にでもどうぞ。

自分に問うと、アイデアの大事さが浮き彫りになる

いきなりですが、自分がアイデアを出すことなしに生きていけるですが、一応可能だと思いました。アイデアでなくてもいい、という人生です。物足りない感はあるが生きられるでしょう。アイデアに拘るレベルはどのレベルかということがここから問われます。

一方で「アイデアを考えない」人生を考えると、例えば企画をしたいとか、することもほぼなくなります。誰かが考えたことに乗っかることがメインで、仮にたまに企画するにしても指示に従う、やるならやるよということになります。

他人の人生を否定することはないですが、では自分がそれなら?絶対ヤダと思いました。文字通り「ヤダ」です。つまり、好き嫌いでいう嫌いであり、それを望まないということです。

人生というのは何かこだわらなければいけないということはないです。単に生き方であり、生きがいをどこに求めるかです。そういう時、何か考えて形にするのが面白いと思うからこそ、そのような道を選ぶし、そのような人生にしたい。これらは変わりようがなさそうです。

そしてその重要なパーツ、道具として、企画やアイデアが僕にはあると考えました。

価値を手放し逆に得る

アイデアに価値を求めれば求めるほど、つまり自分が価値があると思うことをアウトプットすればするほど、そのアイデアに固執することがなくなってきます。

さらっと書いていますが、頭で考えると不思議な現象です。というか頭で考えても分からないです。

つまり、「自分が考えるアイデアが価値があるならば、そのアイデアを無料で出すなんておかしいのではないか」というのが頭で考えられる思考です。ある種論理的です。

ではここで質問ですが「僕が考える価値があるアイデア自体は、誰が価値を認めるか。または欲しがるか」ですが、ぶっちゃけほとんど欲しがりません。正確にいえば、100人いて一人いれば良い方でしょう。この確率はそこまで悪くない妥当くらいでしょう。

多くの場合は「考えたアイデア」は価値が認められないし、または価値になりづらいわけです。逆に簡単に考えたことを形にしたり、説明するまでもなく認められたという話は聞いたことがありません。アイデアの説明や状況など色々な要因で変動します。固定的に価値が決まるのでなく変化するというほうがダイナミックでいいですし、実際はそうでしょう。

そこを踏まえると、考えたアイデア自体の放棄自体は、とくに何かを失うものがないなと感じました。つまり、アイデア自体は僕にとって取るに足らないものです。

生まれてくるアイデア、気づいたことは実はそこまで価値がないということは僕は認めていますし、何度も書いてきた気がします。

ニュアンスとして難しいのはここからです。価値がないものは常に価値がないのか。これについてはNOです。価値に転じる工夫やさらにアイデアがあるからこそ、お金になったり、喜んでもらえたりします。

アイデアの価値の二重構造

では、アイデアが無価値かどうかです。

これは僕は上では嘘というか、正確でないことをいっています。自分にとって価値ではないが、人にとっては価値を感じるものがあるからです。

もっと端的にいえば、

  • 自分が考えるアイデアの価値は、100人に一人くらい価値があればいいだろうし、それもあまりないだろうくらい。
  • 一方で、アイデア自体を価値として買うほどではないが、そのアイデア知りたいし、考えるヒントにしたいし、そもそもアイデアが出ないから読みたい

というこの2つが交わる部分、それは点より、面で考えた方が良いでしょう。もっといえば立体でしょう。これを二重構造と呼んでいます(今呼びました)。単に人から見えるアイデアと、自分が考えるアイデアは異なるし、価値も異なるということです。

また、僕は自分のアイデアなりを過小評価するか、低く見積もりがちということです。少なくとも僕が僕のアイデアを正当に評価することはかなり難しい。だから、出してみて人がどう思うかとなります。人がどう思うかがすべてではないけれど、限りなくそれに近い感じです。

アイデアは道具というか手段です。例えば僕はアイデアを出して満足とかは一瞬あっても、ほぼないです。なぜなら、

  • アイデアこんなのあるよといって提案して人に喜んでもらいたいし、そうあったほうが良いと思っている
  • 人を話で面白がってもらったり、笑わせる方が好きだし、そうありたい
  • アイデアを求められれば嬉しいし、それで役に立てばもっと嬉しい

つまり、自分でアイデアを出したから価値があるなんてことは微塵にも思ってないということです。そして、本質的にはアイデアをもって、「喜んでもらう」「役に立つ」ことがしたいということになります。実際にここまで考えていくと、アイデアでなくてもいいのですが、「アイデアがいいかも」なというところが正確なところでしょう。

そして最近では、アイデア出しの場なんかなり、色々なことをやってきて見えたことは、

  • アイデアは色々いえるけど、とりあえずアイデアは価値があるしどんどん分かちあっていく世界観、コミュニティやそういう社会があってもいいじゃないか
  • またはそういう世界観があまりないのであれば、そういう場を作っていこう。そういう人を増やしていこう。ピュアさのみでは厳しいが、まずはマインドとして分かち合える人達とつながっていこう

みたいな、ちょっとメタ的なところであり、ポエミーなところにたどり着きました。たどり着いたというと言い方が大げさですが、形は変われど結果的にそういう場を作ってないと人生や社会が面白くないし、面白さが自分は減るのでやだなって感じの方が強いでしょう。大義にも満たないなら、自己満足でって感じから始めるほうが筋が良いところでしょうか。

アイデア自体が重要でないのは、本質的には人に喜んでもらえればいいからです。では、出てくるアイデア、それは猛烈なゴミというと表現的にアレなので、癖とか、燃料を使ったら出てくる残り物みたいな感じといえばいいでしょうか。廃材とかのほうがいいかもしれないし、竹を焼いたら出てくる炭みたいな。炭とかのほうがいいかもですね(笑)

その湧き出てくるアイデアって何かを考えていきましょう。

副産物は捨てる

そういう副産物である炭、つまり、人を喜ばせる中で、出てくるアイデアは副産物であり、捨てられます。つまり、この炭は捨てるわけです。アイデアは捨てられる。

アイデアを僕が捨てられる理由はそれに価値を見出してないからです。しかしくどいですが、そういうものを通して人を喜ばせることは捨てていませんし、それらをするために捨てています。客観的に、読者視点でいえば、「なんかアイデアがいっぱいあってありがたい。なんで無料でくれるか不思議だけど」みたいな感じでしょうか。またそういう人だけでなくて「ありがたいなあ。今度何かでお返ししよう!」という人が出てきてもおかしくないはずです(笑)

捨てるという表現は自分の中で捨てているだけで、他者からみれば「アイデア共有」というほうがしっくり来るはずです。しかしここでの書き方として表現としては、僕の主観なので「アイデア共有」だと、「アイデア自体を価値があるとか、人に届ける何かしら加工をしている」ことが透けて見えます。実際に人に何か石をぶつけるように「アイデアをぶつける」ことはありませんから、これはかなり事実です。

一方で「アイデアを捨てる」とは、誰かに共有するという意識がなくてもあっても、出てくるものは捨てても良い。副産物だから良い。むしろ、そこに自分が価値を置かず捨てているからこそ、そこで何か起きればラッキーであるし、嬉しいという感覚です。

分かち合うのも共有ですけど、あくまで僕としては副産物が溜まってきたから捨てているということ。完全に捨てるというのであれば、ブログに書く意味もないので100%捨てるは嘘でしょう。しかし、10%役立つ+90%捨てるというなら、どういう感じでしょうか?

ぶっちゃけ、人からみて役に立つアイデアかどうかは分からないので、人が見て読んで面白いといえばそれは面白いだけです。だから、その書き手である僕の意志はそこまで関係ないだろうと。そこが大事なところです。

あくまで自分の出した副産物(主産物でさえも)を正しく価値を評価するのは大変ですし、まず出来ません。普段しかも出てくる副産物的なものはましてやまず捨てないと整理出来ません。

ここでは、自分の捨てる感覚で、人へのアイデア共有する感覚を感じ取ってもらえれると嬉しいです。難しければ、なんか自然にそういうの出来ると面白いかもねってくらいでしょうか。

捨てることで価値の転換が生まれる

自分の中では捨てている。落ち葉みたいなものでしょうか。落ち葉は捨てても焼き芋を作る時に欲しがる人もいる。

こんな世界観があるという話でなく、社会や世界はそのように自分ひとりの価値というのが決して万能でなく、他者とずれるからこそ成り立つという感じでしょう。ずれや差異はそういう意味で価値なんですね。

副産物だろうが、アイデアだろうがなんだろうが、自分にとっては勝手に生まれてくるものを捨てていきます。

落ち葉を捨て続ける。炭を捨て続ける。アイデアを捨て続ける。

捨てるとは誰にも拾われないものというニュアンスがありますが、ここでは僕が一方的に「捨てた」というだけです。

実際には、捨てた落ち葉は焼き芋に使われる、炭は着火剤の一部とか消臭剤として、アイデアは新しいアイデアのヒントに使われます。ですから、捨てるが成り立つには、誰も触らない場所、誰にも触れられない場所、消えていく物質などというようにそういう仕組が逆に必要です。そうでないなら、完全に捨てることって逆に難しそうです。

自分が価値があると思っていたであろうアイデアを捨てることは、意識や価値観の転換になります。また同時に自分が要らないものが価値を見出してくれることで、何をしようが結果的に価値になるものがあるというシンプルなところにたどり着きます。これって冷静に考えると仏教的な喜捨に近い感じです。アイデアへの執着を捨てること、離脱することが可能みたいな(笑)そうはいってるけど、アイデアにめっちゃこだわっているとかもありますしね。

自分は捨てた。けど、欲しい人はいた。これはレアな現象ではないし、むしろその確率はインターネットを通して上がっているとすら感じます。むしろそれをうまく使うことのほうがインターネットの正しい活用なんじゃないかというところです。

捨てる=分かち合う=受け取る人も、僕も幸せに

僕は捨てているけど、それらは「要らない!」みたいに捨てるのもありますが、最低限のラッピングとして包んだり、最低限伝わる書き方にしたりします。これはリサイクル出来るレベルにしなくてもいいけど、受け取る人が「ゴミだ!いらない!」と思ったら駄目ということですね。

落ち葉も全部濡れていたらさすがに焼き芋したい人はいらないでしょう。全部乾かせとはいわないけど、乾いている落ち葉が欲しいとかありそうです。竹炭も本当に竹を焼いて、長すぎる1mのものが多数だと使いづらいので20cmとかくらいに短いほうが喜ばれます。1mが駄目なのでなく、20cmくらいに一手間がいるということです。アイデアも殴り書きでメモで伝わらないものだとゴミになりますが、一工夫や誰かを想定していたら使えるものになります。こういう簡単な誰かを思うことをやるかどうかは言うのは簡単ですが、「面倒」と思えばやらない話ですね。逆にそこを面倒と思わないとわりといい感じになりそうです。

つまり、捨てるといっても投げつけてゴミだ!ほら!ということでなく(笑)、最低限の出し方をする。最低限でいい。そうすると、ゴミを投げつけられたと思う人はおらず「分かち合ったり、おすそ分けもらった」ということになるはずです。

もちろん無理におすそ分けとか、分かち合うこともなくて、どうですかー?よかったらという感じです。そうやって出来た関係性として、受け取った人は「なんか悪いな」と思うはずです。この時に「価値がないならそうは思わない」ので、あまりその副産物がどうと考えることなくて、「価値があったら喜んでくれるかな」くらいでいいと思います。

そうやって分かちあっていると、「なんかもらってばかりで悪いかもしれない」と思って、何か返そうとします。心理的には返報性の法則とかいうわけですが、もちろん常に成り立つわけではありません。もらって当然と思う人もいるし、ただもらうだけの人もいるからです。しかし、人間というか人としては「もらってばかりではなんかモヤモヤする」とか「その人には返せないけど、違う人に何かを」という人が多いはずです。仮にこれが少なければ社会はもっと一瞬で崩壊しているという感じです。性善説までいかないですが。

そうやって分かち合う人が増えると、連鎖します。人のつながりが連鎖していってということですが、大事なのは、副産物を出しているだけなのに喜ばれること。同時に価値を半ば勝手に見出してくれてそこから良い空気や空間となること、さらにそれらの人が「何か返そう」「何か他で分かち合おう」と良い空気を伝播してくれることになります。

ここまで来ると、アイデアを分かちあうというのが何気ない思いつきでもなく、人を幸せにしつつ、さらに広めつつ、僕も嬉しいというなんだかとても素敵な企画に思えますよね。

違う言葉でいえば、ファンが増えるとか、自分の人生が満たされるとか、豊かだと感じるとか、良い環境や仲間に恵まれる、という良い循環が出来るといってもいいでしょう。

そんなにうまくいくのか?

冷静に考えればこれらは妄想であり、幻想と割り切る人もいるでしょう。アイデアを出していけば豊かなコミュニティが生まれるだ?と(笑)

実際には、奪おうとする人は以下のような考え方をするはずです。本ブログターゲットではないのですが、奪う人は出し抜こう、奪ってやろうと考えるので返報性の法則があまり効かないかもしれません。正確には計算して打算的に動くかもしれません。借しをつくって返してもらうとかがやりやすいかどうかで動くとか。でもこれも返報性の法則といえばその通りですからね。

ですから、そういう奪う人と一緒になったら駄目です。目利きとしてそういう人に合って人生を棒に振るというか、奪われる、与える関係というのは実はよくあるのかもしれません。程度によりますし、僕も奪っているだけというのもあるかもしれません。

ですが、これは実は簡単に目利きは出来るはずで、こちらが分かち合おうとして、その反応や手応えが気持ち良いかだけです。つまり、僕で言えばアイデアを出す、伝える、言う、考える。これらの手応えとして「ありがとう」と言われれば次もありますよねというだけです。これで「そんなの使えん」という「意見」はありえても、間違っても「怒られる」なら二度と言いません(笑)もっといえば、喜んでくれれば相手も同じ分かち合いが出来る人と言えます。非常に簡単ですよね。

一方でビジネス的に考える人は「そうやって無料で、何か分かち合うことをやり続けても意味がないのではないか。ただ無料でむしり取られるだけではないか」という不安があります。これはよく分かります。この問いは、実は潜在的にあなた自身が「奪う」という考えがあることかもしれません。分かち合う場合は「まず与える」という感じです。まず与えるからこそ鴨られるのだというのも分かるのですが、鴨られるのを承知で与えるというほうが大分上の意識レベルです。また鴨られたら学習するので、次はないでしょうし。

人を見たら泥棒と思えは行き過ぎですが、とはいえ財布を置いて席を離れていいわけではない。程度はありますが、不安とは価値があるものを手放すこととセットです。つまり、財布=価値があるから手放して席を離れることはまずしないでしょう。しかし、溢れ出るようなものなら?例えばボールペン1本100円を席に置いておいて仮に盗まれたら?軽いショックはありますが(笑)、また買えばいいわけです。あくまで溢れ出るイメージとしてのたとえです。

アイデアが盗まれたら?またアイデアを出せばいい。もちろん話が大きくなると身動きが取れないかもしれませんが。落ち葉がとられたら、また落ち葉を出せばいい。シンプルです。そうするためには、生産し続ける、副産物的なものが生まれることが当然前提ですし、捨てる=産むがセットということですね。

不安なのはそれが価値があると思っているし、執着があるということです。だからこそ不安になるし、捨てられない。こういう防衛的な反応が駄目というわけでなく、価値がないと思ったものを出す話なので、元に戻ってもらう必要があります。

性善説を信じるという信条の話ではなく、あくまで自分が価値がないと思ってわりと出てくるものがあればそれ奪われても痛くも痒くもないから、出してみる。という話です。

こちらはとくに何もなかったもので、人に価値を見出してもらうことで、結果的にプラスになります。人が喜べばプラス、価値を感じたらプラス、それがフィードバックされて「役に立ったよ」と言われればそれもかなりのプラスですし、全てがプラスになります。

まさに出し得、おすそ分け得(笑)ということになります。

奪う視点があって価値があると思っているものは出せない(捨てられない、見せられない)ですから、そうでなくてまず出してみる。そして分かち合う人達と作っていく。これだけです。奪わないと駄目みたいな人はとりあえず遠のいておけばいいでしょう(笑)

自分なりの成功の定義をすると強い

唐突ではないのですが、豊かとか満たされるという時、すでにここで気づくことがあります。

つまり、上のようなつながりや場を作っていくこと自体も、満たされているからこそ出来ることです。一方で満たされてない人は人に与えることはしづらいし、するなら「返せ」という態度で接してしまいます。これでは分かち合うというか、与えるということとは程遠いです。

ある種の無我の境地という感じもします。禅ですかね。

価値がないからこそ提供できる。でもそれは価値があるのだと。どっちやねんとここだけ見たら思いますが、ここまで読んだ方は分かると思います。自分が価値がないものでも人は価値を感じられるものだということですよね。

やや精神的な話かもしれませんが、実際に主観や感情で、自分が面白い、人生が楽しい、面白い面白い!と興奮したり、アイデアが溢れて楽しいならそれいいじゃないですか。というか、それがいいじゃないですかとなります。僕もまさにそうです。

それは仕事がやりたいことをしているかとか、人間関係(家族や友人など)はどうか、お金はちゃんとあるか、色々な変数があります。これは価値観です。お金があれば幸せかはかなり色々な意見があるので正解はないです。

僕の成功の定義とは、自分の人生が生きててよかったとか、面白かったかどうかです。例えば毎日一億円もらっても、自分が誰も使わないであろう書類を作り続けるのであれば、精神崩壊、発狂し、ただちに逃げるでしょう。例えが極端ですが、一億円に発狂しないような力はあるか、価値はあるかはかなり疑問ということです。そうであれば、毎日誰かに役立つようなとても小さなことを行って、仕事をやって適切にお金を得るほうがなんかめちゃくちゃ幸せな気がします。

こういう意見を身の丈的な生き方と揶揄する人がいるかもしれませんが、大きな夢を持って生きることと、身の丈的な生き方はそもそも比較する意味がありません。あと、比較とは何かしら共通項目を見出してそこで検討することです。しかし、価値観が異なるところで、共通となるのは可視化されるような「年収」であったりします。論理的にいえば「可処分時間」「読書が好きなら読んだ本の数」「映画が好きなら映画に費やした幸せな時間」「パートナーと生きること、子どもが好きで愛する人達と過ごした思い出の場面」なども同様のことが言えるのですが、これらは共通してないので比較できないんですよね。

比較をするとそれっぽく見えます。その内実が異なっていてもですね。成功なども同じです。誰かが成功した状態は他の人にとって同じ状態が成功と言うことはまずないでしょう。

絶えず面白いことをやるというとオーバーですが、少なくとも今まで今この瞬間後悔した生き方をしたことはありません。それくらい何かをやる時はこっちのほうが面白いからということで選んできました。だから、面白いの掛け算でしかありません。これに誇張はなくてそのままです。もちろん、僕が面白いというやり方や生き方が他の人からみて面白くなくて、良くわからないとかもあるでしょうし、面白く見えない人も多数いるでしょう。が、くどいですが、分かち合っていく人や親しい人とはそういう価値観が異なる人でなく、面白いと思ったり共感が出来る人達ということですね。

借り物の成功にはおさらばしよう。

成功の定義で少し書いたように、僕においては、僕自身がどうなのかということが問われるだけですし、僕がどう思っているかどうかだけです。

気がつけばなるべく予定調和しないような生活をして、あること自体に感謝したり、面白いことがあれば一緒に分かち合いつつ、満たされるからこそワクワクを楽しみたいし、自分もワクワクしながら、もっと人に与えられるのではないかと考えられるようになりました。

正確には今回の振り返りで、そういう意味ではお金をものすごく稼ぎたい欲とかがないですし、人間関係でものすごい悪人に絡まれたとかもないので人を基本的に信じていますし(もちろん例外はありますよ(笑))、だからこそ周りには色々と尊敬したり分かってくれる人も多く、社会は結構良い色に見えています。もちろんこれが単なる小さなコミュニティにいるだけかもなと思えなくもないですが、ぶっちゃけ大きなコミュニティって所属できないし、それってもはや国家とか業界とか、ちょっとここ認知したいものとはズレてきますから違うなと。

そういう意味で振り返りの中でも出てきたのですが、僕はビジネスや仕事においてこれで僕は成功したんだみたいな事例というか、分かりやすい何かを示すものはありません。だから何もやってないとか、価値が低いと自分で思ったことはありません。むしろ逆で自分でも色々な事ができるかもなというそういう発見の連続で積み重なっている方が多いです。もっといえば、そういう自分もですが、社会の発見がわりと好きですね。

最近友人と話していてそういう「ビジネス的成功がない」ということから、苦手やコンプレックスみたいなことを感じるのはよく分かります。一方で出来ないからこそ、苦手だからこそ上手くなりたいとか、成長したいという原動力にもなります。あと意外に大事だと思いますが、仮にビジネス的成功というものを実際にやったとしてもそれをどこまで「その人の手柄」だと感じているか、認識しているか、そういう認識の違いで生き方や評価すらすべてが異なる気がします。

この手の話で、例えばビジネス的な成功をしてない人に話を聞いても無駄だというのがあります。論理的には正しい気がしますし、もしビジネスで儲けたいなら多分僕の考え方はあまり参考にならないでしょう(笑)一方でアイデアの出し方やアイデアそれ自体は参考になるかもしれません、というのが僕の多分正しい使い方なんじゃないかと客観的に思います。背伸びしたい気持ちも分かります。ビジネスを成功に導きますという言葉は頑張って書けても、全く気が乗らない言葉ですから使ったことがありません。使ってもまさに意味のない言葉です。

もっと突っ込んで言えば、人は望んだ通りになれるとかはおいておいて、自分が充実したり満足していないなら、人も満足できないかもねというのは多分事実だと思います。なぜなら自分が本当に満足したり、満ちてないなら人に分けるだけの余力がないからです。偽善的な分かち合いは一瞬はあっても続かないです。詐欺って多分そういう感じに近いんじゃないかと。

誤解のないようにいえば、アイデア自体、特にビジネスアイデアではお客さんのためになるように考えています。しかし、そこにビジネスの成功とは全く異なるものが存在し、それこそ確率論だったり、クライアントが求めるレベルによるということです。

ここで言いたいことは、僕自身を卑下するとか、低く価値を出すとかはなくて、「ビジネス的にうまくいってないから駄目」というのはかなり偏った見方、または一時的なものかなというところです。

僕からみた客観として、多くの読者や僕を知っている人は、僕にビジネス的成功の秘訣を求めていません。僕もそういう成功はしてないし、したいと思ってないからですね。もっとビジネスが上手い人はたくさんいて、そういう人を探してその人から学んだほうがいい。

では、僕の役目は何かといえば、アイデアを出して分かち合っていくことで、アイデア自体の価値を感じ合えたり、高めあえたりする。そういう社会がある方がなんか僕は嬉しいし、楽しいです。

ビジネス的成功とアイデア的価値観社会の成立は矛盾しないと思います。あとビジネス的成功をしたいと思ってないのは事実ですが、それって自分がやる仕事やビジネスにおいては当然一定の売上を出していってというのはあります。ここでいうビジネス的成功とは人にある程度言っても通用するようなこととか、一般の人からみても分かりやすいような「あ、この人芸能人なんだ」みたいな分かりやすいものです。芸能人になりたいとかはないですよ(笑)たとえです。僕が単にそういうビジネス的成功に囚われているだけであって、それ以外のものではないかもしれませんね(笑)

お金とか仕事の考え方って面白いです。お金とか仕事とかになると、稼げるかどうかの2択みたいになったり、お金持ちか貧乏人かみたいな2択になりがちです。もっとグラデーションと、かつ時代や社会は変化しているのでかなり多様な考え方があるのが事実です。

そういう意味で再度成功というのをまとめると、僕が人生自体をワクワクしているかどうかでいえばワクワクしていて、自分だけで精一杯で人に対する余裕がないかといえばそんなことはありません。むしろ与えられること自体、またはそういう考えや発想が出来ること自体が、満たされていると思えるしそれで十分だと感じています。ではそういう満たされる環境で自分は良いのだろうかというのが一つの今回の考察です。成功という言葉へのコンプレックスが潜在的にあったかもしれませんが、金銭的というのを外せばかなり成功しているなあというところです(笑)

むしろ金銭的成功、経済的成功をこのレベルでしてしまったらまずいくらいです。自慢しているわけでもなく、自分は常にチャレンジしてきたし、その結果が今ということであるならば、今この瞬間満足できるかといえばYESです。その上で、その次にある、面白い社会、つまりアイデアでワクワクするもの、上で言うお金持ち的成功は不要だけど、例えば人に金銭的投資をしたりとかそういうのって少しでもいいからやれる状態を目指すのが良さげだと感じました。

ワクワクする場をつくっていく

うまく成功の定義とかが着地できたか分かりませんが、少なくとも僕の言葉が嘘でないとか、本当であるためには、単純に僕が楽しいことが大事になってきそうです。というか、楽しいことをやるから、人が寄ってくるし集まってくる。これは確かです。

使命感という謎ミッションでは、やらされているだけであるなら楽しくないはずです。なぜ俺がやる?ということで話が広がらないし、面白くないから伝わっていきません。

つまり僕自身がワクワクすること自体が大事ですし、そのような状態を継続していくこと、そういう環境を作ることが意味があります。場づくりもそれに近いですし、今回のような考察も考え方を出すことで信頼してもらったり、気づいてもらったり、ということになればという感じです。

またワクワクする場とは少し違いますが、着火していくのも大事だと思っています。やりたいことがあればこうやったらいいのではないか、文字通りアイデアを提案していく。それが着火となればとても楽しい。これは仕事になりえるかは分かりませんが、時代が変わっていく中でうまく仕事化できるポテンシャルはあるかもしれません。その検証は楽しいですよね。他のやり方が違うと思うなら自分なりのやり方を提案して、考えて、検証して示していけばいいだけですから。

辛くて大変で苦しいなら続けられません。これらは肉体的よりも精神的の方がしんどいはずです。だからこそ、良い状態で良い場を作っていくことは結構な難しさがあるからこそ、価値かもしれません。

アイデアで食っていける世界を目指す

経済的成功というのが、自分が掲げる作りたい仕事で生計が成り立つというものであれば、これは形にしていきたいと思っています。僕で言えばアイデアで飯を食うということです。実際にこの表現は語弊があって、アイデアで食うといっても出すアイデアで利益を出すには、ライセンスであるような発明や売上フィーの一部などという仕組みが必須です。

またアイデアといってもコピーライティングというアウトプットでもいいし、企画書作成という形が必須です。Webサイト作成もアイデアといえますし、かなり定義がぶれてきます。

このアイデアで食うというのは、そこまで実は僕の中では限定的ではないことはここまで読めばおわかりでしょう。人を喜ばせるとか楽しませる中で、たまたま「アイデア」がある。しかも最初の方の話では、副産物的なものを捨てることで分かち合いや人に与えて豊かになる、そこから場が生まれ、仕事になるという青写真を提示しました。

僕の中ではそんな事ができるのだろうかと半信半疑で仕事をしてきました。半信半疑とは盲目的に信じるというのもおかしいし、とはいえできないといってやるのも変という意味での表現です。実際には「どうすればできるだろうか」を考えて今まで来ましたし、これからもこのスタンス自体は変わりはありません。

本ブログに記事としてアウトプットしているものがほぼ全てですが、アイデアでも稼げる方法があるし、知的生産というのはコツというかそれだけで色々言えるよなあとか、アイデアがお金になるのは今でも面白いし嬉しいです。

そういうアイデアでどこまで出来るかという実験が、シゴトクリエイターという個人事業主であり、僕自身の複業的な一つであり、一方で生き方であるともいえます。ではこの実験どこで終わるのか?一生このままなのか?という不安は消えたことはありません(笑)

不安自体はそもそも消えないです。むしろ100%成功するといわれて実績があっても「不安」がなくなることはない。「もしかしたら・・・」といえばすぐ不安が出てくるからですよね。

そういう意味で僕の戦略は「不安量産体制」を作るのでは当然ありません。そういう不安が撲滅はできないから「不安最小限戦略」ということを考えてきました。それが僕の中では、シゴトを作るにはどうしたらいいかというものでした。過去形ですが現在進行形です。例えば編集スキルがあれば食いっぱぐれないというのを聞いたらそれは確かにそうだなと感じて自分で考えてみたり、機械的なことや指示を待つだけなら駄目なら企画や何か生み出す側にいないと駄目だなと感じたりです。感じるだけでなく考えていく、実践していくのが小さなことでもめちゃくちゃ大事です。というかそれしかないです。

シゴト自体をどう作ればいいかという問いは、不安最小限化にかなり功を奏したといえます。というか狙い通りでした。おかげでおそらく一般的な考え方とは大分違って視点や生き方をそれなりのリスクを取って選択したと思っています。リスクとは失敗したら死ぬとかではないけれど、まあいわゆる普通の道は無理だなとかそういう話です。

例えば普通の転職とは何かによりますけど、転職を普通に今やってまともに出来ないでしょう。今転職したいわけじゃないですよ(笑)転職市場という謎のレールでは価値なしです(笑)だから僕が転職するなら徹底的に知り合いに頼るとか、アピールしていくしかないですよね。これを聞いてリスクがあるなと思えばその通りで、そういうリスクを踏まえた上で、何をメリットとか、得たいものを狙うかです。僕の場合は、シゴトの作り方を研究する、考えて実践してみるほうが仮にうまくいかなくても今後価値になると考えてのことです。

そういうリスクがあるというところでも、不安があって毎日生きられないとかはまずなく、むしろ不安を相当減らして生きることに成功しました。そうやって得てきたこと、仕事の作り方、色々な人との話から言えることはわりと説得力をもって語れます。

複業でなく本業一本でアイデアオンリーも面白いし、楽しそうですが、実際はそこまで出来てないのが事実です。とはいえ強がっても仕方ない面と、一方でお前の実験はそんな程度かという部分両方があります。ここで「色々やったけど出来ませんでした。アイデアで食うのは面白そうだけど、やっぱ無理ですね」というのは簡単です。そういうある種の事実はあります。むき出しのアイデアだけで勝手に買い取られることはまずないです。相当の実績を積んで結果を出せば出来るかもしれないですがそれは上でも述べたようにそこまでの成功実績はありません。

では凡人として(笑)凡人でありつつも、ではどこまであがけるか。「色々やったけどできそうな部分はあった。ではそこを伸ばしてみたらいいのではないか」という新たな問いであり、新たなチャレンジにまたトライするというのが今の気持ちですし、あまりこれ自体は変化がありません。

しかし、アイデア出しの場という場を作ってからそれでうまくいったとかではないのですが、もっと出来るんじゃないかという錯覚なり、手応えなりを感じています。こういうのはとても好きだし、大事だと思う。

それだけではないのですが、アイデアで食える世界の定義はもっとあっていいし、狭い定義でアイデアを出すことで仕事になってそれがきちんとお金になる。それはアイデア→仕事→お金という単一の流れでなく、複合的に重層的に立体的にパラレルにみたいな豊かな流れが出来るのではないか。可能性を場に見たという直感的な話です。ですから全く微妙に終わるかもしれませんが、そういう思いがあることは確かです。

だから、アイデアマンがもっといい感じで活躍出来る社会といってもいいし、アイデアを出す人がお金もだし、仕事もだし、生き方としても報われるということです。それはその人が報われてないということでなく、もっと価値を見出す人はいるだろうし、もっといい感じになるんじゃないか。着火でもいいし、その人のプロジェクトを応援し続けるでもいいし、アイデアパートナーでもいいしなんでもいい。1mmでも前にいくことを応援できるのではないか。そんなことを感じました。

同時にそういう目標というか、視点で試していくととても僕は面白いです。もちろん僕の存在はアイデアマン的社会があるとしたら、まあいたよねくらいかもしれません(笑)いやいたかな?くらいかもしれない。認知や露出を残すことが狙いではないのでそこはスルーしつつも、単に自分はもっと出来る、もっと成長出来る、もっと影響を与えあえるみたいなことをイメージしています。

まとめ

大分長くなりましたが、僕が今回言いたかったことをものざっくりまとめると、

  • 現状人生は全然不満じゃないしむしろ満足。一方で仕事というのはこれやれば成功するっていうのは見えたわけじゃないしそんなのは多分ないと思ってる。
  • ビジネスとか商売は、単純に訓練や学習をつんでいけば、下手になることはなくて、多少は昔よりはビジネス的視点も上がってるしうまくなっているはず。というか上手くなってないと萎える(笑)
  • 経済的な成功をしてない自分が語るのは説得力のなさはあるし、そこを突かれたら終わりだと思いつつ、経済的成功者になりたいかというと疑問が残る。逆にいえば、経済的に生活出来る人は多いわけで、贅沢言わなければ生きられると。とはいえパンのために生きるのみあらずなところで、どう生き抜いていくかが人生は面白いだけって感じ。身の丈で暮らしていってというのが出来ればいいし、その中でコントロール出来る仕事やまさに食いっぱぐれない仕事術みたいなのがあればいいだけともいえる。これはお金とか仕事とかビジネスになると途端に金持ちor貧乏かとか、社畜or自由みたいな二元論でなく、もちっとグラデーションだなということ。
  • 冷静に考えれば僕にそういう経済的成功を求めている人はいないはず。いたらミスマッチなのでそもそも読んでない(笑)むしろ、ワクワク感とかモチベーションを保ちチャレンジし続けたり、着火のコツとか、アイデア出しとか、アイデア自体(副産物として出てくるもの)を求めている人が多いはず。という意味では僕が成功法則を語る意味はないし、語れないからこれはしっくり来る。これは大分消化できた。あと仮に期待されても出来ないものは出来ないし、ということでまあもちろん学び方は人それぞれなので学べるならぜひぜひご自由に。
  • その上で、満足した人生は終わりでなく、これからも続くし生きていくのは変わらない(笑)そういう時にやりたいのは、アイデアが報われる社会とか、アイデアでもっとわくわく出来る場や社会があることなんじゃないか。そういうことを試していきたいから、アイデア出しの場なんてはじめたのは筋が良いと思う。
  • アイデアで食うというとなんかカッコいいと思う。けど、一方でそれに拘ることもなさそう。知恵を使って稼ぐのであればあまりやり方や形にこだわることこそハマっているといえる。とはいえどこまでアイデアで食うかによる話でもある。今でも企画とアイデアで食っているかといったら黒い嘘ではないけど、独立して一本ではないので白い嘘。だからあえてアイデアで食ってるということもないので好みかなと。

な感じでしょうか。多少漏れはあっても今回は振り返りで色々と気づきが多かったので、この気付きが自分の糧になりそうですし、ついでに読者におすそ分けって感じです。

おわりに

今回のアイデアを分かち合うという視点や振り返り自体は、あやえもんさんの本「大好きなことでお金を稼いで、独立をする方法」を再読しながら考えたものです。読んだことがある人は影響を受けていることが見えるかもしれませんが、読んでない人には新鮮かもしれません。気になる人はぜひ読んでみてください。面白いですよね。

その中で勇気づけられた一説があったので引用します。

100%なれると信じていたら、思考と現実の食い違いは「失敗」でなく「フィードバック」

(中村あやえもん著「大好きなことでお金を稼いで、独立をする方法」より引用)

僕が解釈しちゃったかもしれませんが、このフレーズはものすごく強烈でした。僕は確かに成功者ではないなあと思っていました。というよりも成功者ってなんだと感じたので、考えていくと上で書いたように成功の定義によりけりです。そして、自分の内なる心で考えていくと、結局お金が全くなくて生活に困ったら駄目ですけどそうでないならわりと幸せだなあと。面白い人周りに多くてなんか楽しそうだし、僕もそれなりに自分の人生は今も楽しいからですね。これって端的にいって「成功している」ということになります。まさに灯台下暗しです。成功しているから満ちていると言えます。気づけばあったというのはまさにこの流れであり、くだりですね。

じゃあこの楽しさをキープすればいいとかっていう感じでなくて、自分は何をしていたのかというと、上でも書いたように友人と独立した時は不安が相当あったので不安を減らす工夫でした。端的にいえば、仕事を作る力を磨いておけば人生の自由度は増すということです。少なくとも減ることはなさそうです。

それって簡単に出来るものかというとそうではなさそうですし、時間はかかるだろうと思っていました。現在これという成功方法や成功法則を言える立場じゃないです。(仮にあっても成功の状態や定義が異なるので、現在でも「成功の仕方」というと経済的にお金が得られてみたいな成功の話しかなさそう。それは求めているものでもないし、そもそも違うので、ずれる)

でも、あやえもんさんの言葉がそういう状態に勝手に刺さりました。自分はシゴトクリエイターとして何をするかしているかというと、商売のネタ、ビジネスアイデア、こうすれば人が喜ぶ、人が興味を持つ、人が動き出す着火剤、心理的なもの、面白い事例、考え方から学べそうなこと、そういう諸々のアイデアをぶつける、提示すること。そういうことなんじゃないかと思いました。

これは再確認したといえますが、これらはどうすればシゴトをつくれるだろうかという実験であり、物好きかもしれないけれど多分気になる人は気になるネタのはずということです。少なくとも僕は気になる(笑)単にうまい儲け話ではない、工夫や実験の塊だからですよね。そのニーズは一定数あるはずという感じで。そういう妙なモチベがあるので、ブログが続けられるといっていいでしょう。

そうなると、僕は100%シゴトクリエイターになれるというか、なりたいと思ってないのかもなといえます。またはシゴトを作る力を本当に身につけたいのか?という問いでもいいです。でも、「思考と現実の食い違い」はしょっちゅうですから(笑)、自分はこうするとビジネスになると思ったけどそうでもなかったなとか、うまくいくアイデアだと思ったけどお客さんに刺さらなかったなあとか、そんな現実はしょっちゅうです。その食い違いを僕は失敗と思っていませんでした。失敗といっても失敗じゃないと思っていたんですけど、それこそまさに「フィードバック」でしかないんですね。

逆にいえば、僕は何かしらシゴトの作り方や生み出し方があると思っていてそれを100%信じているしあるからこそ、今までの食い違いはすべてそのためのフィードバックなんだなと。そうストンと落ちてきたフレーズだったわけです。

アイデアなんかでビジネスになりようがないとか、アイデアだけでは駄目とか見慣れた考えです。そういうのを踏まえた上でじゃああなたはアイデアでなにかやってみて形にしたかどうか。多くは黙るはずです。なぜならそこまでやってないし、トライしてないし、一回やって諦めたりということが多いからです。この場合は失敗でしょう。でも、そこで「これはうまくいくはずなんだけど、そのためのフィードバックを得た」と思えるかどうか。そうなら多分あなたも、僕と一緒で「できると思ってやっている」人です。僕も言葉ではあまのじゃくに「できないかもしれないと」言ってますけど(笑)それは「不安的」な心理に忠実であって、一般的に「どうすればできるか」なんて考え方自体がクレイジーな方でしょう。どうすればできるかOSがインストールされているので、失敗ありきですし、その上でどうすればできるかというフィードバックを得てまた試す。

だからこそ、僕は自分に対してだけ言えるのですが、「100%出来ると信じているのだから、多分100%最初のイメージどおりじゃなくても、何かしら形になることは間違いない」といえるんですね。これがもしかしたら僕の最大のモチベーションの仕組みかもしれません。出来ると信じているというのは、ある種これだけみれば盲目的で意味がない、幻想です。しかし、実践して試してこれじゃないとダメかもしれないなと考えた上なら最強の自家発電装置だなと言えそうです。

久しぶりに長くなりましたが、書き終わって大分スッキリしました。何か気づきやヒントになれば幸いです。

以上、成功者からの告白でした(笑)

筆者プロフィール

シゴトクリエイター 大橋 弘宜
シゴトクリエイター 大橋 弘宜
「シゴクリ」運営者。アイデアの力でお客様に貢献するゼロイチ大好きアイデアマン。ビジネスアイデア相談実績等は200超を超える。好きな言葉は三方良し。詳しい自己紹介仕事実績も合わせてご覧ください。お仕事メニューお問い合わせはお気軽にどうぞ。

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