具体と抽象をぐるぐる回る旅は終わらない

森博嗣著「集中力はいらない」を読んでいたら、分散思考=抽象思考=よりアイデアが広がるみたいな話があって、そういえばこういう視点あったなあということを思い出しました。

正確にいえば、本著は集中もですが、具体的な思考が良いみたいなのがあるけど、そんなのあるんかいって感じになってて、確かにそうだなあと。もちろん集中や具体性を否定しているわけではなく、具体的なものの前にそもそもアイデアはわりと分散していて、僕の解釈ではパラレル、マルチな方向性=抽象思考と理解しました。

そのあたり、本を軽く肴にしつつ考えてみます。

抽象と具体はセットまたは仲良く使いつつ、ぐるぐる回る、回すは多分一生の付き合いになりそうだなあという気配です。

具体的が信仰されるのはなぜか?

具体的に考えるという形容詞的な言葉はスルーして、具体的な事象、具体例、具体的にいうとどういうこと?みたいな話があるかと思います。

仕事でいえば「これいい感じに企画しといて」といって仕事が出来る人はそれはすごいわけですが、どんなに優秀かつ迅速かつスペシャル(笑)な人でも、アサッテのアウトプットとしての企画が出てくるでしょう。ここでいえば上司や指示者の「いい感じ」を把握しておく必要があります。こういうものを抽象的な指示と言うでしょう。あいまいなイメージです。とらえどころがないですよね。

つまり、いい感じは100人いれば100人の例があるので、指示されたあなたは「いい感じとは?」というところから考える必要があります。さらには「企画しといて」とは、もしかして「企画するな」という意味になるかもしれません。いやあ難しい(笑)

では具体的な指示というとどうでしょうか。「明日の15時までに、A社で進めていた企画を実現性を含めてその実現性を担保できるような資料を作っておいてくれ」といわれたら、まあなんとなく分かります。これでも具体的かどうかはキリがないので、具体的とします。「いい感じ」より分かりやすい。

ここで色々と問題というか、考える必要が出てくる点が見えてきます。色々と書いたのは例えば以下のようなことです。

  • 具体的な指示と抽象的な指示において、指示したい内容伝達に差異がある。
  • 絶対的な具体や絶対的な抽象はない(と思う)ので、常に相対的であり、両者は関連がある。
  • 具体的すぎれば考えることがなくなる。抽象すぎれば考えることが多くて壊れる(笑)

みたいな3つがぱぱっと思いつきました。

1つ目の伝達は、具体的だとブレがないです。法律が分かりやすいかどうかおいておいて同じように解釈できるようなことだから定義文みたいですよね。抽象的だと誤解が商事やすいです。

2つ目の相対性や関連性は、要するに指示Aと指示Bとあった時、AはBより分かりやすいとか、わかりにくい。またはAといっても分からないのでBということですか?みたいな言い換えもある種の具体や抽象の話と言えることです。これを勝手に相対性とか関連性と言ってみました。絶対的な具体とは分子なのか原子レベルなのか分かりません。抽象とは真理とか、空、神みたいなものかもしれませんね。

3つ目はわりと好きな話ですが、具体的すぎれば受けた側が何も考える必要がありません。これは指示伝達において素晴らしいとも言えますが一方で考えない人が生まれます。全ての仕事がそのように教育要素なしであればいいのですが、さすがにそれはないでしょうという考えで書いています。抽象すぎてもついていけないとなります。これって目標設定とか、学び方とかもなんか関連してきますよね。

具体性信仰といってるのはある種の揶揄なのですが、それは今回で言えばおそらく1つ目の意味ででしょう。分かりやすいからという意味です。具体的=分かりやすいのは好まれるということですが、ここには罠があると思っています。

それは3つ目の考えないという話と同じで、分かりやすい=考えない=分かったつもりになるという話です。もちろん分かりやすい、で話が終わればいいのですが、実際にそれは分かったつもりではないかという問いかけです。何かを知った、なるほどと思った経験はあなたにはあるでしょう。ではそれを理解しているというのと「分かった!」と思うは別というのも分かるのではないでしょうか?

ごちゃごちゃしてきますが(笑)、結果的に分かってるとは分かってないことがあるという、全て分かってる人はまあいません。それはある種の嘘や何かが入っています。わからないという人のほうが信頼出来る気がします。という人が分からないので何も考えてないのでなく、考えた上で「分からないという態度」であるという意味です。

とりあえず、具体性信仰=分かりやすい=分かっているつもりという罠になるということを提示しておいて、そのまま逃げます(笑)そんなことないよという人はそれでいいし、分かったと思ったけど分かってないこと多いならその罠にはまってます。脱出ルートは考えるということですが、考えない人はいないと思うので、環境が大きいのではないかというところですね。

考えるとは、具体も抽象もぐるぐる回して揺らし続けること

逃げるのもあれなので、ひとまず結論として、

考えるとは、具体も抽象もぐるぐる回して揺らし続けること、と定義してみます。定義というか、これからいう話の結論です。

ここに到達するまでのプロセスというか思考をこれから展開していきます。

考えるとか、具体と抽象、アイデアとかそのあたりについて深堀りたい人は少しくらいヒントになるかもしれません。

観察自体は具体だがそこに感情や視点でもって面白くなる

観察する対象は具体的だが、収集した具体を何かしないとニュースでしかない

最近観察ノックという企画を始めています。そこでやってるのは観察です。何かを観るだけではコンテンツにならないのでそこから観察内容と何が面白いか、そこからのアイデアはこんなのに活かせないか、ちょっと引いて切り口はこれではないかみたいな企画です。

上のスライドにあるように「見たもの」「体験したこと」は具体ですし、あなたの目の前にあるこの記事も具体です。抽象的な内容でも具体というか、こういうのやめますか(笑)

ただ冷静に考えて欲しいのですが、観察した内容を淡々とレポートするのはニュースでしょう。もちろん、速報性や社会性などバリューがなければというのもあるのですが、事実の羅列にしかならない。そうでなく、ここでいう観察ノックまたは観察とは、主観としてあなたが何を感じたか、つまりここでは僕が何を考え方を書いています。

例えば柴犬が散歩していた(正確には飼い主である人間が、柴犬を散歩させていた)状況を見て「かわいいー」と思ったというのはある種日記です。しかし、なぜ可愛いのだろうか、柴犬の個体差はどうあるか、散歩の仕方は、犬の服のトレンドは何か、歩くスピードはどうか(走って散歩する人もいたり)などなどこれらの切り口を持ってみています。このあたりで掴んでもらえればこの先は不要かもしれませんが、こういう視点があれば観察自体の事実ベースが一緒で、全く見方が異なるので出てくるアウトプットや気付きやレポートが異なるということです。

上のスライドでは「落ち葉がたくさん落ちていた」というところから、「秋を実感した」「木があるから葉っぱが落ちたのだろう」「葉っぱが生え変わるサイクルだ」「焼き芋食べたい(お腹すいた)」みたいに感じることがあるわけです。

ワークショップしてきた違和感発想法とは、どちらかといえば違和感って誰もが本能レベルであるのでそれを目覚めさせる(笑)意図があります。それはきっかけでしかなく、誘導とかはないのですが、上でいえば「柴犬の散歩」をみて「何も感じない」んですとか、「落ち葉がたくさんなる」のを見て「それで?」という人は結構やばいです。

やばいというのは、脳が具体的なものを見て何も起きないということですから、アイデアはもちろん、企画も当然、新しい(既存の組み合わせ)ことも、そこから面白く話をするとかも、人や社会の興味が欠如している(笑)といっても言い過ぎではないでしょう。実際は人間は疲れるとそういうものをシャットアウトして「ご飯食べて寝たい」となるので、それは体調が悪いとか寝てください(笑)そうでないわりと通常時で上のように感じないならやばいってことですね。

ここで言いたかったのは、観察自体は誰でも出来るのですが、具体的なもの観るとはちょっとしたコツやテクニックがあるのかもしれません。ただ難しいことはなく、上のように好奇心でも、なんかいい!、どうしてだろうとまさに違和感をぶっこんでくということです。それって眠っているだけ、または意図的に殺すことで順応させる人もいたかもしれませんが、少なくともここでは違和感の睡眠は奨励しません(笑)目を覚ましてください。

そして具体的なものを伝聞するだけなら単なる事実のニュースでしかも、それに主観や何か他の情報、感情、視点がなければAさんが見た落ち葉とBさんが見た落ち葉は一緒になります。だから具体が万能なわけでは当然ないです。そんなうまい話がないってことですね。

そして面白いことに、こういう観察は具体的といっていいわけですが、その具体的なものからアイデアは出ますし、出しているのですが、具体的なものをそのまま具体的に処理しているわけではないというのが最大のポイントになります。つまり、具体→抽象みたいに変換しているのですが、これが超大事ですね。ここが分かる人は本記事を読む意味がないので、そっ閉じしてください(笑)

ちなみに事実と意見みたいな話もあります。ここでいえば観察は事実の確認であり、意見とは別です。面白いことに、ただ誰かが述べたことを記録するのは事実ですが、実際にそこにあなたがいるかどうか、質問の仕方で変わるわけですから、相互作用があることも実際でしょう。落ち葉が落ちていた事実が欲しいのか、落ちていたか覚えてないという意見が欲しいのかは状況で変わるので正解はないですね。

具体をそのままにしたニュース。それに何か付与したり加工すると表現やアウトプットになる

具体に何か入れると表現やアウトプットになる

具体のみをあなたが拾い、それを誰かに伝える。それってある種メディアです。それをあなたが期待されているとかなら別ですが、ここでは全く期待されていませんし、していません(笑)

最初のスライドに書いたことのやや繰り返しですが、実生活は具体で構成されています。目の前のディスプレイ、自分という実態、スマートフォン、メモした紙、文房具、机、あらゆる実態があります。これらは具体的です。さすがに似たシーンはあれど全く同じはないでしょう。あなたのお気に入りのボールペンはジェットストリームであっても、その本数は?ボールペン先のサイズは?色は?やはり異なりますよね。

実生活で得たこと全てが具体といっていい。というと乱暴ですが、そもそも抽象度(具体度といってもいい)は常に相対的です。実生活が一番具体的というよりも、自分が分かるレベル、人が分かるレベル、知らない人にいっても分かるレベルは異なります。少なくとも誰かに伝わるものでないと「自己紹介」ではないでしょう。その具体度、抽象度の調整を行うのがある種会話でありコミュニケーションです。

無人島で一人で生きていても表現やアウトプットがなにか本能的にあるのではないかと思うくらい、人は何かを遺す、記録するのが文明や文化の発展に寄与するのかしらと思うのか分かりませんがそんなイメージがあります。

乾燥してきたから加湿器を出しましょうみたいな、季節によって変わる日々の出来事や生活というものはまさに具体的です。人との会話で気づくこともありますよね。

上のスライドに書いたように、具体→そのままでなく、何か感情や切り口があるからこそ、違う表現やアウトプットになります。

ほぼ同じことを言ってるのでこれくらいにして、最後に書いている「現代では情報過多なのでそれすらなれない」というのは、落ち葉が落ちていたはニュースにならないと思いますが、落ち葉がものすごくアートっぽい人の形をしていたらSNSで上げられ、拡散され共有されるでしょう。それがいいとかわるいとかでなく、そういう手法を誰もが出来るようになった状態があるので、どこでもニュースがあると言えます。正確には情報があるので情報過多。

人の形をした落ち葉は価値があるかは分かりませんが、そういう情報も面白いとは思うのですが、実際には「人の形」として感じた人がアップするので、加工や視点の共有があるんですね。だから事実伝達の一番上のそのまま未加工でなく、加工されているのかなという感じですね。そして当然未加工=メディアと思いたいですが、そんなことはできないわけで。人や組織の論理や理屈があるわけですからね。

具体に何かを入れると自分の表現やアウトプットになるのはそこまで異論はないと思います。とはいえこの時点で、全く思いつかないとか、何それ切り口って?という場合もあるのでしょうがここはスルーします(笑)

具体例を理解するとは抽象化して再現できること

次にちょっと抽象の話にはいってきます。

抽象→具体という移動があること自体が考えることだと思う

抽象とここでいってるのは、方法論や発想法、メソッド、やり方などのノウハウみたいなものでしょうか。発想法などは分かりやすいかもしれません。確かに発想法とは手順ややり方があり、そうすると発想を促進するという手段ややり方です。再現性もあります。

ただここで言いたいのはそういう抽象の有意義なことでなく、それをどう具体につなげていくかということです。

違和感発想法という僕が発想の源になっているやり方があります。やり方はシンプルで、ここでいってるような観察を記録しツッコミを入れてストックする。何か求められる時や自分で考える時にヒントにする。そうするとまあアイデアは出てきますよというものです。求められるときがないなら使えないし、使いづらいですがそこは発想法とは違うので置いておきます。

このやり方が有効かどうかもおいておいて、そういうやり方があるというのが抽象です。そもそも読者でがっつり読んでいても「違和感発想法なにそれ?」だと思います。

ではこの発想法を具体的にするにはどうすればいいか。ここでいうのは自分で実践したりいわゆるそのやり方が使えるということです。僕がワークショップをやって教えることは可能です。そういう営業ではないのですが、具体例をいくつか提示します。そして上のスライドにあるようにそれを理解した人と、理解してない人が生まれます。最も理解出来るようにするわけですが、理解度の差は個人差があるでしょう。

例えば、理解した人とは、頭の中の話ですが、違和感発想の具体例、または自分が考えたことから自分の経験や学んだことで抽象化しています。そしてそれがあるから再現して例えば「違和感発想」でといわなくてもそれをやっている可能性が高いです。もちろん示すことができます。

理解してない人は、具体事例を集めます。ここで具体事例の収集を否定するわけはもちろんなく、それを集めて考えるということをしないケースです。集めても再現はできません。正確には「集めてその共通項を取り出すとか、傾向を見出すことが分析なり考えること」なのですが、それをしていないということですね。その場合には、本人は考えてないからだ!ということにならず、パターンが不足しているのだ!といってさらなる事例収集の旅に出ます。

これは笑えません。僕もそういうパターンにはまることがあるので笑う意図はないです。理解してない状態、または色々と葛藤や不安から逃げる意味で「収集」というのもあります。これは心理的なものでしょう。

ここで言いたいのは、抽象的なメソッドや方法論、やり方というのは提示されても言ってる人が使っている前提ですけど、まあ理解されづらいんですね。だから具体例をとなるんですが、その具体例をそのまま今までの話にあったように「具体例→具体例」と自分に伝達して何も考えないならば学びにならないです。ここでいう学びとは、抽象化であったり、再現するために事例と自分の経験を近づける行為であったり、失敗も含めて行動して試すなどを含みます。

これらのことはごく当たり前と思う人がいるかもしれませんが、そういう人はそっ閉じしているのでなるほどなと思う人がいるかもしれません。

スライドの下半分では、それらを少しまとめてみました。

つまり、

抽象→具体化→抽象化→再現みたいにこれを繰り返すことで、思考している、考えているといっていいという話です。

具体的には違和感発想法という抽象があったときに、それを他人の例でも自分でもいいから具体例があって「考えること」が一つの矢印の移動です。次に、抽象化とはその自分が考えたことを再度まとめる、共通化する、違う切り口で考えることです。ある種の理解行動です。そして最後に自分なりにやってみるみたいなことになります。

例えば、落ち葉が落ちていたとか、乾燥しているとか、柴犬が散歩をしているというのにものすごく違和感を覚えたとします。例えば柴犬が4匹いてその上に飼主(人間)が乗って移動する状況があるとします。この時、こういう事例を僕が言うのでなく、あなたが実際に見て考えることが再現ということになります。同時に再現の前に、「違和感発想法」というものがあり、「違和感にツッコミを入れる」ことをやるやり方をある程度聞いたみたいな状態だと思うので「犬が人を運べるとは!」みたいな驚きがあるわけです。そして再現とはそのネタを記録して、依頼があった時とは「新しいモビリティー(移動を役立てるもの)を考えて」といわれたときに、「犬が移動するという視点はありかも」(実際はないですが)となるわけです。

これは切り口です。魔法のじゅうたんでもいいですし、ドラえもんに出てくる道具でもいいですし、落ち葉がひらひらしているのは何か使えないだろうか(緊急時の着地に空気抵抗を最大化させるとか)という視点です。

これが出来る人は違和感発想法に飛びつくことはそもそもないです。では違和感発想法はそういう抽象化出来ない人を鴨にしているのかというとそれはないです(笑)悪さをする人はそういうことをやれるのですが、僕は悪くはなれないっぽいですから(笑)単にそれで発想に役立つならなんなりというところですね。

それはいいとして、違和感発想法でなく、全てのあらゆる具体でないもの。例えば教科書や本、まとめられたものは、抽象的なものといっていいでしょう。それを具体的に考えるのはわりと大変です。戦国時代をどう理解すればいいか。具体化できないので頭の中で記憶のみ、断片での一問一答になって歴史なり勉強が嫌いになるのではないかとも思ったりします。実際は歴史となると文化、とくに今の時代に生きているものが多いわけで、そういうところから入ると具体化できそうです。ここでは再現はちょっとずれるのと、抽象化とはおそらく歴史から得たことをどう捉えるかによって変わるのでこれっていう正解みたいなものはないです。

ここで超大事なのは、理解した人は再現できるわけですが、抽象化を全くしてないと、具体例の例示、具体例のExcelファイルが頭にあるまたは忘れるだけで全く使えません。具体例を見てすぐ使える人は、具体例→抽象化→使えそうな切り口という視点で取っているから使えるのであって、具体例が使えるという意味とは別でしょう。

理解できない時、または理解してないとは、抽象、正確には何かしらの知識や見たもの、観察したもの、聞いたものをそのままにしていないかということです。目新しいものや知らないものなら「そのまま」でも「面白いね」になるんですが、それが溢れている今であれば何も起きないでしょう。むしろ、埋もれてしまうといっていい。

しかも具体例の列挙などはコンピュータが得意です。人間以上にあるメモリやディスクに書き込めば終わりです。まとまりや意味がある共通化をすることが抽象化とするならば、そうしないと自分の中で使える引き出しに入らず、ずっと未整理のまま片付いてない状態となり、いつかその具体例は捨てられてしまうイメージになります。

誤解がないようにいえば、何も知らないからその分野、例えばWebデザインについて知らないから勉強をする。だからWebデザインの基本と言われるものを勉強するのはありです。ただこれも抽象的であり、それらが具体例ですといってサイトAのデザインはこうやります、困ったらこうしますと言われても、頭の中だけの話です。仮にそれを完璧に覚えても抽象→具体化の点で人の具体例をなぞっているだけなので定着はしないでしょう。サイトAのデザインはこうですというときに、自分の頭でツッコミや批判的な見方を入れつつ、自分なりの切り口、視点、考え方をその場で入れろというわけではないですが、何かフックがなければ全て流されていく気がしています。そうでない人もいるかもしれませんが。

Webデザインはこうすればいいというある種の抽象化を自分でしたら理解したといえるし、それを示して「こういうコンセプトだからこうしました」と技術的に示したら完璧でしょう。最もそれはWebデザインという意味ではいいですが、仕事になるとか誰かが満足するとは別という点も大事です(これもある種具体と抽象が相対的であったり、絶対がないということとリンクします)。

逆に理解度チェックとは、既に示した具体例Aでの記述を覚えていればいいのでなく、具体例Bとして出して、抽象化したら出来るものを設定すればいいことになります。理解しているとは「具体をコピー貼付けでなく、抽象化し別の事例でも再現できる」ことですから。例えばWindowsの操作の理解とはブラウザソフトを使おうがワープロソフトを使おうが基本の見た目は同じですから、右上で「×」ボタンを押してプログラムを終了することで、未知のソフトがあっても終了出来るでしょう。これをブラウザソフト→右上の×で終了、ワープロソフト→右上の×で終了、と覚えているだけでは応用が効かないとなります。

具体例コレクターがなぜ微妙になるかといえば、考えてないからです。考えてないと抽象化が出来ず、対応する具体例がないという思考?になります。そうするとドツボにハマります。これは、自分が遭遇する色々な未知な状況や分からないこと、どうしたらいいという時も同様です。多くの人、僕も含めて未来は分からないです。というか分からないです(笑)だから未来は考えなくていいということでなく、では知らないことがあったらどうするかとなるわけです。

つい最近もパソコンのトラブルやプログラムがうまく動かないということがありました。こういう時どうすればいいかというと、プログラマなら当たり前なのでしょうが、また何かしらメーカーとしてものづくりをする人もでしょうし、ある種何かを作る人に言える共通のスキルがあります。それは問題の切り分けというものです。これ自体は特殊なことではないのですが、逆に切り分けの精度が悪ければスキルが疑われます。また高ければ尊敬されるかもしれません。具体的にはプログラムがうまく動かないという認識かつ表現は初心者プログラマが行う行動です。これが悪いのでなく単に解像度が低いだけでしょう。一方上級者であれば、そういう「動かない」という事象から過去の経験も含めて想定される事象と切り分けの予想も出来るでしょう。問題は何かというという問題解決という思考でも大いに使えます。ただ新しいものを作る課題設定や課題発見とはなりづらいです。

乱暴かもしれませんが、問題発生時のトラブルシューティングは、うまく動かない→どこが動かないのか→関数AなのかBなのか→Aのどこか→Aの変数が初期化されてないのかみたいな話でどんどん深堀りします。問題を抽象的と捉え、その具体度を深めていく行為です。これは抽象→具体化のループをかなり多くやることになります。

では、課題発見みたいな話はどちらかといえば、今ある事象具体から抽象化することでしょう。つまり、落ち葉が落ちていたことから、木があることとか、秋になったとか、上位概念に行くことになります。プログラムがうまく動かないというのを抽象として扱わず、具体として設定します。どういうことかというと、プログラムが動かない→他のお客さんも同じ課題を抱えているのではないか→同じ課題を解決すればビジネスになるのではないか、などです。ここではプログラムの上位概念のパソコンとかOSとか、そういう話でなく、他の人もという視点でした。だからこれは抽象化する時「Aさんが起きた事象」が「Bさんでも起きる事象」と捉えたり、またはそういう事例が起きていればまとめて捉えられるかもしれません。だから、切り分けとは逆とは言いませんが、やや話が異なります。

とはいえアイデア発想では上位にいくといい話でもないので抽象的に考えるのがいいとかでなく、ここまではあくまで物事の理解が抽象→具体化というところから発生しているよね、というくらいです。

具体を「ゆらす」ことで自分に定着させる

具体的が悪いと言ってるのでなく、それだけでは何も使えないのではないかというところです。その考えを延長させると、知識のみとか、頭でっかち、または具体例まで1から10まで説明しないと動けなくなります。

じゃあ具体の反対の抽象が良いというわけでもなく、まとめるとか、圧縮するというところではいいし、応用もできるのですが、そもそも最初って具体的経験ですし、見て知ったことなどの「抽象度」は分からないわけですから、具体的経験が必須ということです。

最終的な結論でも、そもそも最初に提示したものも、具体が良いと悪いとか、抽象が良いとか悪いとかでなくて、それらは相互補完であるし、どちらも大事という話でしかないです。むしろどちらも大事だから丁寧にいこうというほうが主張に近いです。

上のスライドでは、やや繰り返しにありますが、具体的なやり方はなるほどと思っても、実際に抽象化したり頭で考えないと定着しないということです。具体的という罠には分かった気になる=分かってないのに、ということで再現できない、示せない、応用ももちろんできないという罠があります。

何度も述べていますが、具体のままがそのまま使えるのは、細かい指示や一問一答、対応が決まっている(変化しない)ことなら良さそうです。ただ、それが変化するとバグるわけですね。変化しないならいいのですが、実際は人は変わるし、社会も変わります。一昔前のルールというのを考えれば一目瞭然ですね。

ここで一つの提示として、考えることが大事なのですが、それではよく分かりづらいので、例えば抽象を具体化するとか、具体を抽象化するなど抽象度を変えることを「揺らす」と表現してみました。それぞれの抽象度をNとした時、抽象度が高いものをN-1として、抽象度が低いものをN+1みたいに示すとします。その時、その抽象度レベルの数値をよりずらせば思考のジャンプがしやすいのではないかというところです。一方でコミュニケーションのズレを無くすには、この差異を小さくすればいいということになります。

例えば、「今日は急に冷え込んだな」→「冬将軍、木枯らし・・・朝寒いと夜に温かいものが食べたくなる」→「鍋の具材や鍋の出汁などが売れるに違いない」→「暖かくなったら贅沢にアイスも食べたくなるかも。セットで鍋のシメのアイスを棚作りにしてみよう」など、スーパーなどではそんなことが普通なのでしょう。もちろん発注や棚の権限周りはあるのでこのまま出来るわけではないのでしょうが。この場合は、連想や想像になってはいるものの、「寒さを感じた」→「寒さを感じる」→「人は寒いと暖を取る」→「温かいものを食べる」(人の基本的行動)というような動きになっています。寒いはあなたの具体ですが、人間の基本行動的な保温行動はやや抽象的といっても怒られないでしょう。正確にはこの場合、寒い=気温変化=気候変化=地球の話みたいなほうがそれっぽいのですが、あんまりおもしろくないので連想と想像で着地させています(笑)

この矢印の動きが揺らすイメージです。連想や想像も同じく揺らすといっていいでしょう。揺らしが多ければ当然思考のジャンプになり、最初の主観地点から遠い地点に行くので「思わぬ」アイデアや発想になるわけですね。とはいえ、やりすぎると一周します(笑)例えば、甲子園→高校球児→高校生がやる他の対戦→まんが甲子園、などは面白いですが、まんが甲子園があるなら野球スポーツなどもあってもいい→すでに甲子園がそれ、みたいなダブリです(笑)ダブるのが駄目というよりも、考えた証明にはなりそうですし、甲子園を知らないならそういう発想もありですしね。

コミュニケーションでいえば、「このファイルを送っておいて」という抽象度が高い指示を「誰にどのファイルをいつまでに」というようなことがなければ伝わりません。それを補って話すと具体度が上がりますし、省略すれば文脈依存した状況を共有している人しか伝わりません。コミュニケーションにおいて組織や人で専門語、そこだけしか通じない言葉が出るのはそこを省略したり効率化するからですよね。ファイルを送る人が決まっていれば省略できますが、毎回違うのにこの指示であればうまくいかないわけです。

ですから、初対面の人であれば、そういった普段使う言葉を控えておいて、相手に伝わる言葉を選んで使うのがベターとなります。それによって抽象度ソナー(どこにあるかを探るという意味)を放つことで、返ってきた言葉や理解度に応じて言葉を変えます。これを繰り返すことで相手に伝わる言葉の抽象度が分かります。もちろんこれは、話す内容についての知識や文脈がある程度分かった上ですから、それがないならそんなソナーは打てません(笑)

ここでは揺らすという表現で、考えるということをもうちょっと身体的に表現してみました。実際は考えることなのですが、抽象レベルを高低させると考えていることになるかなというイメージです。もちろんくどいですが、そのアウトプットが、例えば寒いから鍋アイテムを充実させようというのは「よくある」ともいえますが、そういうアウトプットが良いかどうかはまた別の話です。ただアウトプットまでいけるかどうかは、揺らすことが必須とも言えそうです。なぜなら、具体のままでは使えないからですね。

自分が考えることから逃げることは多分できない

どんな完璧な事例も結局自分に落とし込んでどうかということ

具体例コレクターの話は先程したのでここでは割愛します。簡単にいうと、具体のままでは使えないのだけど、それを収集しただけで考えない人という意味です。具体例自体を集める行為を否定しているわけではないのであしからず。

このスライドではやや重複感はありますが、例えばうまくいった事例や話、それはビジネスの成功事例とかでもいいわけですが、自分に適用できるかどうかは別です。では成功事例も失敗事例も事例に価値はないかというとそれは乱暴です。実際は自分で咀嚼(そしゃく)してよく噛んで消化するように、考えることが大事です。自分の状況ならこうなるかも、今は早いかもしれない、この視点は参考になる、などと理解したら学んだといえるでしょう。当然それを自分で試す、機会を待つ、知見を得てまとめてアウトプットしてみるなどその学び方は色々です。

この考える行為自体は人間らしいと思うのですが、誰かがやってくれないものです。考えることを代理やプロに任せるのはありですが、それとあなたが考えなくていいは別です。考えられる人がある範囲では省略したいから任せるのはあっても、分からないから丸投げするように、自分で考えることを放棄すると、そもそもアウトプット自体(任せたもの)が評価できないんですよね。これは面白いなと思う一方、全てに通じる必要があるのか?という疑問も生じます。一応僕の解釈を言うと、それこそ抽象化や応用でカバーするということになります。

上であげたように、問題解決におけるプログラムのバグ取りは抽象化すれば、組織のコミュニケーションを活性化するとか、水道管のつまりを解消するとか、色々なものに応用ができるはずです。もちろんその時、組織改革などに詳しくないとか、水道管とか知らないみたいな話はあるわけですが、そういう基本知識やストックと、考え方は別というところで、考え方の習得のほうが時間がかかるので、ショートカットできるはずです。つまり、基本的な水道管や水回りの知識を得れば、ある程度何をプロがやっているか分かるはずです。その場合自分がやらなくてもいいわけですが、分かると理解が早いし、悪質な業者からも身を守ることになります。

結局、自分で考えて学びましょうという話にしかなっていませんが、具体→抽象であったり、見たものを考える、聞いたことを本当か疑ってみるなどワンクッション置くだけでも大分変わります。当然ここに書かれていることも疑ってもらえればいいかと思います。異なる点は違和感として賛同できる部分は賛同してもらえればいいというところで、それこそヒントになればという姿勢で書いています。

自分が考えたものはアウトプットしていくことで学びが定着しやすいです。それで、最初の示した第一弾、プロトタイプ、サンプル、最初のプログラム、最初の記事、粗いものなどはやっていくと変わってきます。同じものでもいいですが、何度もやっていると最初と全く違うものになります。掃除機という製品で考えてもいいし、今書いている記事は書き方がいいかどうかはおいておいて、当初手書きスライドをアップするなんて考えたことはありませんでした(笑)そのあたりの変化もまた変わるということで、それは人によってやり方があるというところと、その人の学習ややりたいことなどによって変わるだけという理解です。

作業は変化しないが、仕事は変化する

少し視点を変えてみます。

上のスライドでは、作業ははじめから終わりまで一貫して同じです。例えば作業ということを軽視しているわけではないのですが、ブログ記事を書くことを作業とすると、「ブログ記事のアイデアを集める」→「ブログに書く」→「ブログを公開する」の繰り返しです。集めるとか、書くとかがクリエイティブだと思っていますがそれも人によるのでしょう。ちなみに僕はブログ記事を書くことを作業とは思ってません。タスクと作業は違うと思っていますが、言葉の定義感なのでここではスルーします。

仕事ははじめから終わりで変化があります。これは僕が新卒で働いた時の上司の受け売りでもあるのですが、何度考えてもやはりそうだなと思ったりします。つまり、変化を仮にしないことなら結果的に作業となります。もちろん、同じことを丁寧にやり続けることもあるだろうとは思いますが、そういう場合大体その人のカンも含めて、考えや感じたものを反映させていることがほとんどです。

逆にいえば、作業的にやると変化がないので、同じことを繰り返す人には苦痛でしょう。僕はそうです。逆に仕事的にやると、作業も面白くなります。右手でやらない理由はないので左手でやってみるとか、その変化させられる領域が広ければ楽しくできる気がします。

実際には作業的なことをやらないと仕事的に転化できないのはあるのですが、これはどちらかというと基本的知識やストックの話であって、作業的なことは誰でも代替できるとすると価値が低くなります。例えばコピーを取るというところで、やり方を教わればコピーは取れるはずです。一方でコピーを代行するビジネスがあるわけですが、とはいえ高い手数料を取ることは出来ません。仮に代行することでものすごく価値があるならば価格が上がるはずです。例えばスピリチュアルですが、あそこのコピー屋さんでコピーとってもらうとプレゼンに成功しやすい(笑)みたいなものです。笑い話ですが、そういうものにすがるのはわりとありだと思うのでいいとしても、価値がそれで上がるかは疑問です。例えばそこにしかない設備がある、ニーズはおいておいてプレゼン資料で何に使うかを言うと最適な見せ方を提案してくれるなどです。こうすると話が変わってきますよね。

では、作業と仕事で揺らしているのはどっちか。当然仕事となります。あくまでここでいう仕事の定義から、僕が考えている仕事という意味でです。アウトプットが変わっていきます。それは考えて気づいたことを入れていくことでもあるし、工夫やアイデアを入れることになります。

ところで、昔アルバイトで工場のラインでみたらしだんごのケースを並べるだけの作業をやっていたらそこにいた社員に褒められたことが意外でした。何を言っているかというと、前にいたアルバイトはそのケースを並べるという単純ともいえることができなかったようでした。等間隔に置くと思われがちですが、実際はベルトコンベアは一定で動くものの、工程毎に人がいて人がやっています。つまり、ケースを置いたらその先に団子をおく社員がいるのです。これを無視すれば等間隔で終わるのですが、無視できないんです。つまり、等間隔でなく、社員が団子を置く一定のリズムにあわせて逆に間をあけたり、つめたりと調整する。主導権はケースを置く上流でなく、ボトルネックになる団子にあるわけです。団子ケースを資材ケースの束から取り出し、ベルトコンベアの上に一個ずつ置いていく。これは作業でしょう。最もその社員の指導の仕方もあるわけで、等間隔におくなでは意味がないですし、どのように伝えたらいいかが出来なかったからこそ、前のアルバイトはうまくおけなかったのではないかと思ったりします。

何かを考えるとき、または何か学んだとき、読む、観る、聞く、調べるでもなんでもいいのですが、それ自体は他人の考えですし、誰かの見た話ですし情報です。だからこそ、自分に落とし込むには自分で考える必要があります。二次情報なら1.5次情報のようになるべく主観に寄せて1次情報にしていくイメージです。実際は1次にはなれないわけですから、逆に1次情報である生の体験が大事なんですね。当然、生の考え方、考えも大事です。

最後に書いたのは、この矢印の移動です。考える、揺らすということでいえば、揺れるので見た目は「何も起きてない」ですが、脳エネルギーなりを使います。だからアイデア出しをするとか、考えたり話すとものすごく疲れます。お腹が減ります。それを再度するにはご飯を食べしっかり休むことが大事ですね。逆にいうと体調が悪ければ思考は冴えないですし、そのあたりは基本前提というところでしょう。

自分なりにぐるぐる回してみよう。多分楽しいと思う。

結局ぐるぐる回るのだな

これが最後のスライドになります。

結局結論として最初に提示したことと、今までの話のまとめというか繰り返しです。

何かしら知識やニュースや生活で感じたこと、これらは全て具体とすると、そのままでは使えないとなります。実際には具体度は異なるのですが、1次情報の方がよりパンチがある加工はしやすいはずです。ただ脳が寝ているとそのまま通り過ぎていきます(笑)僕が全ての見たものに対してツッコミを入れているわけではないです(笑)ただ、なんだろうなというところの余地を残し、アンテナを下げない、捕まえに行くという昆虫採集みたいなノリが大事かなというところです。

実際にそういう感覚は、日常が100としたら、10もないのでしょう。本当に普段のちょっとしたことで捕まえる感じです。それくらいかなと勝手に思っていますが、毎日激変すれば今度は不安定すぎて何もできない気がします。全く同じ過ぎても逆に駄目な気がします。なんとも正解がないところです(笑)

そうやって、毎日何か観る→感じた→やってみる。まさに具体→抽象→具体→抽象を繰り返すです。PDCAサイクルというとなんとも寒い感じがするので言わないのですが(これがまさに分かったつもりになりがちだからです)、実践して失敗したり、足りないところを持ち帰ってまた試す。それを繰り返して一定のところや目指すところまでやってみる。そういうループや繰り返しをやる、しかないんですね。これは手抜きたいといったら、人間が終わるというか考えることをやめるので、基本そうなると他人のルールや他人の生き方に合わせていくことになります。これはめちゃくちゃストレスだと思うので僕はおすすめしません。こういうと自分が支配者に回るみたいなのは極論すぎて、少なくとも全部委ねるのは危険ではないかくらいで着地しておきましょう。実際に僕が一人で生きている出来ているということはなくて、社会から還元されて生きているということでしかないですから。

ぐるぐる抽象なり具体なり、または実践なり工夫してまた試す、振り返るみたいなことってめちゃくちゃ疲れます。実際は疲れるんですが、めちゃくちゃ楽しいです。疲れる<楽しいので、休めばまたやりたくなります。これが最近書いた話でいえば、近いOSの話ですよね。一回書いてもういいや、次はないなと思ったとしても一瞬で回復する、少しで回復するからまた出来る。回復しないなら次はないですからね(笑)

結論的には、なんともありきたりになりました(笑)

ここまで考えて言えることは、考える行為を手抜いた場合に出てくるものは多分しょぼいというところです。逆にこれをやっているとなんとも太いがっしりした感じになりますよね。

着想のきっかけ

最後におまけみたいになってますが、そもそもこの抽象と具体の話は本ブログでもたまに書いています。まああんまりまとまってないことこの上ないですが(笑)

最初にあげた森博嗣本がトリガーです。

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この本自体が分散しているみたいな世界観というかストーリーがあって作者らしいなあと思ったのですがそれはおいておいて、分散思考的なものは多分抽象思考に近いです。厳密にどうかと言われるとまあ分からないですが(笑)

例えば切り口という話です。ある具体的な体験において、切り口が重要なのは分かると思います。切り口があればあるほど違う角度から見えるので、より立体的に体験や本質に迫れるというものです。抽象的にふわっと捉えておいて具体的な30度から見上げた180cmくらいの高さからの目線でみたいなことでなく、映像として動かすみたいな感じですかね。周り360度からカメラで観るみたいなイメージですが、それがまさに「色々な角度から見える」ので、優位みたいな感じです。具体的に視点を決めるよりは。

ただ具体的に突っ込んだ方が深くいけることもあるので、もうこうなってくると何がなんだか分からないです(笑)だからこそ、抽象と具体は相関がありつつ、相対的だし、関連性があるのだろうという理解です。くどいですが、具体的に考えればいいのだとか、抽象的に考えればいいのだとか、どっちかに決めるみたいなことは微妙でしかないですね。

この例からもわかるように、抽象的なものは本質を突いていて、正解に近いものであり、求めるものの正体に近づく指標となる。一方、具体的に示されたものは、単に物体が限定されるだけで、本質でない可能性もあり、もしその個体を見失えば、目標が消えてしまう。

「集中力はいらない」P.122より引用

この例とは、面白いものが欲しいという多分こどもがいたとして、本質的に面白いものが欲しいのだけど、具体的に何が欲しいの?となってその具体的な例えばNintendo Switchだったとするとき、実際はそうじゃないみたいな話です。

そういう意味では抽象化と共通化は近いのですが、具体的に娯楽や面白いと思うものを並べていった時に、抽象的な面白いものにたどり着けるかはちょっと分からないです。とはいえ手がかりがないので並べてみるのかなと。ただ面白いものというとき「おもちゃ」という既製品や「ゲーム」というデバイスだと思いこんでいたけど、実は「ボードゲーム」で対戦して人と遊びたいが面白いものなのかもしれないですよね。こればかりは本当にやってみないと分からないですし、こういう「実は違っていた」という話は、具体化の失敗でもあるかもしれません。

もちろん抽象的に面白いものといってるだけでは何も始まらないので、そのヒントを得るために、ぶつける具体として「おもちゃ」「ゲーム」などのジャブやソナーを打ってそこから探るのはありです。面白いという抽象的な概念的なことは、実は何を面白いと感じるかという頭の中の話になるからです。例えば面白いというのは、ギャップです。完璧なものが崩れる爽快感、勧善懲悪的なストーリーとか、もう色々ですよね(笑)

そしてその流れで、アイデア的な話も。

このことは、自分自身への働きかけでも同様で、たとえば思考が抽象的であることは、将来の広がりを持ち、柔軟で応用の利く理屈を持つことにつながる。具体的思考が、一本釣りなのに対して、抽象的な思考は、網で漁をするようなもの、といえばわかりやすいだろう。

同著、P.123より引用

なるほどなーと思ったわけです。

昔、1年の目標を具体的に立てるってなんだろうかと思ったことがあるんですね。もちろん1年でこれやるっていうのは分かりやすく、それやると達成感があったりして(ないわけではないから)。でも承認欲求みたいに、僕はこれを掲げましたやりましたってどうなのかなと(笑)別に誰かに言うこともないわけで、特段自分がやるなら自分が書いて忘れないとか自分で完結するなあと。

そうなると、コンセプト、つまり抽象的なものになっていくぞと。例えば自由に生きたいみたいなものは分かりづらいですが、仮に僕がそれで意味を理解してそれで行動できる、または応用が利く、アイデアが膨らむのであればそっちでいいわけですよね。森博嗣的にいえば、網で漁をするわけなので、そこから色々と魚に出会えるし楽しいみたいな。一本釣りでイカだマグロだと決めても面白いし、結局両方面白いんですけどね(笑)

やや無理でもないですが、最近の学生の前でアウトプットした話でいえば、アイデア出しということを決めてなかったからこそ、着地したというか。もちろんあなたは何をするのですか?する人ですか?と言われると具体的なものが問われます。が、実は人は具体を知りたいというよりも、「想像出来る何か」を知りたくて、むしろ未知を期待している可能性も高いかもしれないなあと。具体的に決めることが良いことならば、10年前にアイデア出しでやるぞと決めたほうが良かったことになります。

ですが何かを決めてやりきるってどうも合わないというか、ズレてしまうんですよね。興味がブレるし、他の興味をそこにもっていくのが燃費が悪すぎるというイメージです。むしろ今でさえ、少しはまともに着地しているかな?くらいですが、ぐるぐる具体の周り、その具体が中心にあるのかそもそも抽象が中心なのか分からない(笑)のですけど、ぐるぐる回っているイメージしかないです。その中でたまに「あーこれかな」というところで、前へ進む(前がどこかは分からない)感じです。

そういう意味で勝手に僕の中で思考は抽象的くらいでいいかなあとか思ったりしたんですね。

といいつつ、実際は具体度をチェックしてどこで当てていくかを探りつつ、そして抽象レベルでも具体レベルでもコミュニケーションしていくというところが面白いと感じています。

このあたり非常にすっきりしたのは、友人との会話で普段は一緒にいないし仕事も全く違うし、経験や環境も違うのですが、抽象ベースで話せるので具体的にこうだというところがないので会話が早いです。早いというレベルではなく超高速といっていいでしょう。抽象→抽象で会話が出来るのは、その抽象で何を言うか、言いたいかを具体を相手に任せてというリレーが出来るからですね。もちろん分からないことや知らないことは普通の会話になるわけですけどね。

この抽象会話の意味するところは結局それによって、具体化するエネルギーを減らせるのでより「相手は何を言いたいか」「面白い共感はどこか」に集中できるといっていい。これってまさに抽象思考なんだけど集中していて面白いなあというところです。

そんな形で面白い本なので良かったらチェックしてみてください。

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