情報を浴びて精選、吟味しなければどうなるか?

おそらくですが、情報がそのままあるので、使えるとか、少なくとも自分の身になることはないだろうと。

仮に「情報を浴びるだけ」とは、情報を見ただけでも「浴びる」ので、それだけだと。脳の機能としても、それで「浴びる」だけで覚えたり、理解出来れば全く世界や人間は異なるものになっていると言えそうです。記憶という概念が要らなかったり、理解という概念も違うくらいの革命だからです。

よって、浴びるだけではほぼ何もなく、そこから考えていく。吟味でもいいし、あれかなこれかなという実践、行動といってもいい。検証作業とか、仮説検証といってもいい。

当たり前の話ですが、このあたり「吟味」等は頭を使う、カロリーを使う、考えるために、面倒や手間、正解がないんですね。なので、楽をしたいと思う人は考えるのをショートカットをしようとして、吟味をサボると。何が起こるかというと、情報で「正しい風」のものを得て、それを正解とすると。

著名人が言っていたから、政府が言っていたから、周りが言っていたから、偉い人がいっていたから。そこに自分で考えるという言葉はなかなか出てこなく、他責というよりももっと前の、他人の脳をそのまま使うという感じが強いと。これをある局面でよくいえば「自分より賢い人をうまく使っている」なんて言えるのですが、どう考えてもこれはただの手抜きなので、ギャンブルレベルで「その正解風の他人」が良い人であればいいですが、まあそういうことってないですよね。

なぜ考えるのを止めるのか?

シンプルに手間であり、正解がないので終わりがないからですよね。この作業が苦痛という人もいるでしょう。あと、それ以上に楽をしたい。痛みを和らげたいという意味で、即効薬として何かで代替したいという人もいると。

いずれによせ、考えるのをやめたらそこで終わるというのが僕の考えです。終わるとは人間の死です。

一方で、考えなくても生きていける。例えば、自分のこの宅配しているピザを届けてお客さんに喜ばれるのだ、それが楽しいと考えているよ。というコメントがあってもなくても、ものすごく無愛想でも(評価は悪いですが)ピザを届けてくれると。そういう期待値はおいておいて、それは「考えなくて」もできると。生きていけますよね。

というと、なぜ考えると死ぬのかと、そしてそうしなくても生きていけるはめちゃくちゃ矛盾しています。

矛盾だから駄目とかもなく、そういう合理的に生きることを良しとしないというか、合理もほどほどということが直感的に言えることかなと。直観でもあります。

つまり、人間の死とは、考えなくても生きられる=生物的な死はないんだけど、人間的な社会的な意味での死という感じです。いや考えなくても生きていければそれでいいという人はそれなりにそれでいいと。単に僕が嫌なだけですから。ここは信条の話です。

どこで高まりや社会性を得るのか?

思考などをしない場合に、気持ちが高まるとか、面白いとか、それこそ先の話で「情報を吟味しない」のですから、どうしても流されるかなと。社会性とは他人との関係性から、知らない人とのコミュニケーションとか色々ですが、それって人っぽいなあと。そういう人っぽさ体験を得られないというか、得てもなかなかトレーニングできないのでうまくいかないかもと。

孤高に生きたい人はいるかもしれませんが、わずかでしょう。適度に孤独もあり、適度に社会性もある人が多くで、そういう社会設計があるのではないかと。といっても、それが多くだからそれに従えとも全く思っていなくて。

断じなくてもいいのですが、自分は考えなくていいのだ、うまく乗り越えてやりきって見せるというところでその選択肢を選ぶのであればそれでやると。それは迫力があるし、表面的な批判は消し飛ぶわけです。逆に表面的な決意であればそれは簡単に論破されるし(論破の意味はごくごくないのですが、そのごくごくなさにも負けるという例え)、簡単に諦めてしまうのかなと。

思考なくして、それらは見えない。つまり、気持ちが高まる、面白い、どうすればより成長できるか。人と関係をうまく築くには?などの疑問や問いが生まれないか、生まれた瞬間に潰すみたいなことをやると、本当に考えなくていいわけですね。

マーケティング的な考えはめちゃくちゃ批判されてもいい

これはポジションに注意したい概念ですが、良くわからないCMでもなんでもそれがSEOとかWeb広告とかSNSとかなんでもいいのですが、それで煽って買わせると。または煽ったことすら思わせないことは、秀逸なのか?結果で、商品やサービスが売れることで「良い」となる正解があると。それが至上命題というか、全てですから。

ただ一方でそれを詐欺とは言わないですが、品の問題でしかないと考えています。人を操作して売上を上げるってちょろいわけですよね。人はそんなに馬鹿ではないと信じたい人は、思考している故に言えるのですが、していないとそんなものかなと思ってしまう。

これをかなり曲解したものでいえば、お金儲けが汚いということを本能的に思う人はこういうマーケティング的なことを批判したいのかもしれないし、否定したいかもしれないなと。そう考えるとわりとまともな気がしますが、多くはそのレベルでなく、単に自分が関わらず、手を汚さずにお金を得たいというところかもしれません。

社会的仕事が賃金が低いというのと似ていてなんともモヤッとするところがあるのですが、そこにマーケティングが入りづらいし、入れるとなんだかなと思う直観はもしかして「お金儲け」に対する概念がそこにあるというか。未だにですが、キレイに儲けて社会貢献がめちゃくちゃ胡散臭いのと、それを言い切れる胆力は詐欺師かあ、あとはすでに述べた「社会的価値」はお金にならないか、しづらいというところで着地しそうなって話になるんですよね。

着地点はかなり難しめ

ただ情報を浴びてぼーっとしていても思考にはならないと。

とはいえ思考しなくても生きられるのであえてやるかは結構信条問題。ただ社会の環境や設計もあって、そもそも学べるのかどうか。それが活かせるかとか。

そして社会的価値の事実として価値を評価されない、少なくとも金銭的価値はないからこそ苦労がセットされていて、それなんでだろうと思う人もいるはずと。楽に売上KPIとして操作するほうが楽だと、だから情報商材で売り抜けるなんて禍々しい意見もあるのだろうと。悲しいですがそういう事実があると。

思考しないと人間の死だなと。僕はやだなと。一方でそれでもいいやという人が多ければ社会自体がおばけのようにあるのだけど、何もそこに実態はない。これは怖いなと。実態の確認はどうするか。それは思考だけなのか?

難しいことばかりですが、少なくとも僕は考えたいしわかりたいと、わからないものもわからないといいたいと。そういう感じで生きることのログとして。シゴトクリエイターってそういう意味では哲学者っぽいですね(笑)

筆者プロフィール

シゴトクリエイター 大橋 弘宜
シゴトクリエイター 大橋 弘宜
「シゴクリ」運営者。アイデアの力でお客様に貢献するゼロイチ大好きアイデアマン。ビジネスアイデア相談実績等は200超を超える。好きな言葉は三方良し。詳しい自己紹介仕事実績も合わせてご覧ください。お仕事メニューお問い合わせはお気軽にどうぞ。