思考するためのブログ

ブログ論は多分2000年くらいからあるはずだが、多分ブログというのが新しいメディアだったせいか、研究している人があまりいない気がする。実際に今も進行中でなんだかよくわからんというのがある。

今回は、自分のブログ歴などを踏まえつつ、どこをどう意識してきたかを書いてみたい。自分語りの記事になっている(笑)

ブログ歴

2004年開始で17年のブログ年数

僕がブログを始めたのは、2004年2月となる。正確なのはそのブログがまだあるからだが、readmaster.netは当初は本読みメモなどを中心に社会人になってからすぐに作ったサイトで、今は本ブログとなっている。

2004年は当時大学3年生であってブログを就活では書こうというところがややブームだった。実際に書いている人は少なく、この時代はおそらくSNSはmixiなどで、多分Twitterはまだない。よって、SNSはmixiかあとはブログもプロフィールサービスみたいなのがまだまだあって、そこでやるか、あとあはまだネットがもっさりしていてブロードバンドはADSLがメインなような気がする。そんな時代なので、マニアックな印象がまだまだあった。

就活でというのは一つの理由に過ぎないが、書くことで思考を磨くというか、明確にしたいというのは大学時代でも強くあった。そして書くことは好きで、思考することも今とほぼ変わらずであった。哲学は好きだったが、考えることが好きであって、あまり誰がどういう意見を言っているかみたいな議論が好きなわけではない。

とりあえず、就活もあるし、色々ログとしてやったことを全て書くのでなく、「自分が考えた記錄」を取っておくことがこのあたりから始まった。

つまり、2004年から今は2021年なので、17年となる。当然さぼったり、毎日更新みたいなことはないので、ブログは血肉というか自分の中で手足に近い感覚だ。そこがあるかないかではかなりブログを書くという言葉の肌感覚が違うのだろうと思う。

一方で同じブログを更新し続けるのは意外に難しい。多分頑張っても2000年代のブログが今も更新して居る人はかなり稀だと思う。僕もできていないというかしていない。理由は簡単で色々人生が変化し、切り替えたり分けたりということがあるからだ。就活ブログ的なものは記錄を見る限り、就活をやっているとき1,2年は相当書いていたが、その後社会人となり、だんだんフェードアウトして、2016年では更新がストップしている。

17年もやっていると色々なことは・・・起こらない(笑)色々な人がいることはわかるが、年数がどうということはあまりなさそうだ。ただ何か書いているとか、考えるとかが同一なので、何も考えてない=書いてないとなるため、違和感となってブログでなくてもいいが、何かやろうとする、してしまう。よって多分続いているのだと思う。

閉じては開くを繰り返している

ブログ自体の開設数はそれほど多くないと思う。ただ、ブログを書いてそれを更新していくのはまあ想像通り結構タフな話だ。やる気というか、色々と書くことや考えたことがないと、そしてある程度習慣化してないとまあ続かない。

軽い気持ちでやったものは当然軽く終わるものも多く、結局色々やって残ったのが、本ブログとなる。このブログは2016年からやっているので、5年程度であって、継続からするとまだまだ駆け出しというところだ。とはいえ、社会人であったり、自分がフリーランスとしてやっているというところもあるので、意味合いは大分違うのだが。

一つ言えるのは少なくともブログを続けるなら趣味でいいと思っていて、それを自分のアジトというか秘密基地みたいな感覚でひっそりでもいいからやっていくのがいいと思う。思考が好きな人はニッチだが意外にいるし、その時、「昔こんなこと考えたな」ということで、ある程度自分のログを追えるのはとても気持ちが良い。そのためにやっているわけでもないが、忘れないためにも、考えることは面白い。

なので、たまたま就活ブログから初めて軌道にのった?だけであり、それ以上でも以下でもない。単に書くが好きで続いているだけで、今もその気持は変わっていない。

思考ログを残し考えを探る

やはりログとして残しておいて、あとでとか、メモ感覚でもいいが、そういう気持ちが強い。おそらくプログラマ的な人、仕事でやっている人でもいいしそうでなくてもいいが、この再現性みたいなことが好きな人が多いと思う。ある種プログラムにおけるソースコードやそのコメントみたいなことに近い。

プログラムを扱う場合何が起きるかというと、不具合が大体発生する。しないものはない。その場合不具合調査をするが、その時どこが問題かを考えることになる。当て感といってもいいが、論理的に「Aで問題が起きるのってBというケースだよなあ。じゃあBを見てみるか」というようなことを何度も行う。推理的でもあるが、論理的な作業なので、感情は不要。もちろん面白いとかはいいが「動かない!糞!」みたいなことで作業が止まる人は向いてないので、わりと冷静な人でないと厳しい。というか、そういう仕事だ。

論理思考が得意とかと重なるが、そういう仕事をしていたこともあって、よりプログラミングと思考することは溶けていったと思う。境界がないということだ。だから、考えることも、プログラムを書くことも似ていると感じる。そういう思考のパターンというか種類は色々合っていいと思っている。

自分が考えたことを自己満足として載せることに抵抗がある人もいると思うが、今こういう考えをして居る人はどこまでいるかは正直分からない。SNSの利用者側でアウトプットをしないという人は一定数いるが、別にしてもしなくてもいいのだが、「することがない」というのが今だにあるはずだ。それはTwitterでもなんでもいいし、ブログでもある話だ。何を書いていいか分からないということだ。

でもそもそもとして、何を書いていいか分からないので、書いたらいいことを教えてくれという時点で色々と筋が違っていると思う。これはやる気とか自発性というよりも、その問いがある時点で「客観視」されたブログがあり、道具として見えている。例えばメガネをかけているなら、両目を開けて見ていると「メガネのフレーム」は気にならないし、気になってもフレームを見ているという人はいないだろう。しかし、片目を閉じて見ると、フレームが俄然気になる存在になる。そう、自分はメガネをかけているのだと気づく。これが道具を意識しまっているということだ。

ブログとかそのツールを意識してしまっていることで、「この道具どう使えばいいのだろうか」だとやはり書くという利用にいかない。使えないのだ。そういう疑問はあまりなくて、自分が書きたいことを書けばいいという「アドバイス」が見られるのだが、これはアドバイスとしてはそのとおりだが、道具として見ている人にはほとんど意味がないアドバイスだと思う。

自分が書きたいことを書いてみる、それをログとしておく。あとは、メモなり、調べたことを残す。自分の考えを残すことで、別に先祖代々何かということはないし、教科書に載りたい幻想はない(笑)そうでなくて、市井の人として、現代人であるが、こういう考えの人もいるし、わかる部分はあるなあとか、それはちょっと違うなあというところで、サンプルとして残っている、参照可能な材料があることを目指している。そういう意味ではとてもささやかな試みだが、シンプルにこれを友人に通じる言葉でいえば「百姓一揆」でしかない。

またはマイプロジェクトといってもいい。マイプロと呼ばれるのはワークショップやプレゼン的手法を指すが、マイプロ自体はもっと緩やかなもののはずで、自分がライフワークでもいいし、なんか調べたいこととか、研究したいこととか、なんか気になる、もやもやを大事にして消し去らず、心の中で向き合うみたいな。そんな活動をイメージしている。僕ならブログを書くということがそのものではないが、やはり自分が気になったことや考えていることをだすことはある種のマイプロだ。分かりやすくいえば、アイデアについてその発想から企画実行までの一連の流れはビジネスでもいいが、そうでなくてもとても興味がある。

その興味が変わらないので、一生やってられる、書いてられる、ネタが尽きるというのがない。逆にネタが尽きたら興味がなくなったというだけであり、一生でないなら自分が死んでいるということもある。これは肉体的な死でなくても、精神的な死でもある。好奇心がなくなったらやはり死だと思うので、なんでも面白がれる術はバカバカしくてもいいから身につけておきたいという感じはする。

そんなわけで、自分に思考、考えるは切り離せなかった。また離すつもりもなかった。疑問に思ったら調べたいし、考えたい。面白い意見なら聞きたいし、理解できないことも耳を傾けたい。政治家みたいだが(笑)政治家ではない。そういうところで、大切なものはというと、かなりシンプルで人が何を感じているか、そして面白いことはなにかを聞きたい。そこからくらいしかその人の理解は出来ないと思っているからだ。

思考するには書くことが必要だ

固定概念ではなく、そういうバイアスがあるとき外したほうがいいし、他にもっと方法があるかもしれないとも一応は考える余白はある。

例えば、書くことをせずに考えられるか?だ。実はこれは厳しいと思っている。頭で考えたことを、そのままにして、常に保持できるかというとできない。記憶というか、頭に残らないので、消えていくのだ。だから書く時、頭の中身を出す感じはするが、一方で「忘れる」ためにも書いている。

雰囲気でいえば、頭の中→メモする→書き出す→整理される→まとまると同時に忘れる感じだ。だから全て同時的であり、どれも欠かせない。

逆に書かないとどうなるか?だが、頭の中→メモしない→頭の記憶リソースとくに短期記憶のみに頼る→色々忘れる→覚えてない→毎回頭出しが時間がかかる→色々混乱する→整理されない→頭が疲れてしまう

感じとなって、まあワークしない。一言でいえば、疲れるし、微妙だということだ。書いていれば忘れられるし、クリアになる。クリアになるとどういうことかというと、頭を別のことに使える。

これは、PCでいえば、メモリはフラッシュメモリで一時的保存でしかないが、HDDやSSD(SSDもメモリですね)などの記憶媒体なら書き込んでいつでも出せる。スピードが前者が早くて記錄が弱いが、後者は遅くて記錄がしっかりできる。頭はメモリ的に使って、メモや思考ログはHDD的といっていい。丁寧にいえば、一時的なことは頭で考えるのが向いている、セーブしたり記憶するのはストレージとして保存するのがいい。それは多分変わらないので、最適なんだと思う。理由は脳の構造や神経的なことからも多分言えると思う。

逆に論理や思考が得意でない人はあまり紙に書いてない。まとめるのが得意でない。やってないからという経験値もあるが、思考のセーブという言葉に驚くか、普通と感じるかでタイプが分かりそうだ。

音声入力などもあるかもしれないが、場所が困るので結局書く、キーボードを叩くはまだまだ続くのだろうと思う。

思考するから書くし、書くと思考出来るので書く。書いて書いて書きまくって、その後にどうなるか。世界はどうなるか分からないが、小説を書きたいとかはないけれど、世界がどうなっていくかはわりとひどいことになっても良いことになっても誰かが記錄したり、書いていくことは「消えない」と思う。別に仕事としての記者になるとか、メディアがどうということはないのだが、誰かが勝手に考えて社会を形成するわけでもあるまい。その関わり方は人それぞれでいいが、態度をどうしようが、生きている限り関わりから逃げられることはない。

ネガティブな意味ではなく、どう転んでも人間である限り関わるのだ。だからこそ、思考するし、考えてしまうなら、記錄をしていく。

そういうかなり呼吸する感じで書いている。ブログを書いている。だから続いているのであって、続けるという意識はないことが伝われば幸いだ。そもそも意識していては続けられない。無意識でいけるか、そこにあるか、呼吸したり、手足のようにあるか。ブログをそれだと言い切れるかどうかはどうでもいいことで、自分にとってそういう手足のようなツールや道具、時間や場所があれば充足するのだと思う。そうでないとストレスや落ち着きがなくなる。それだけだ。

SNSとは何が違うか

当初メモでSNSとの違いも書こうとしたので申し訳ないレベル(笑)で書いてみよう。

SNSは例えばTwitterやFacebook、インスタグラムなどでもいいが、まあそういう個々の利用者が投稿して、友達や知り合いなどと共有するツールのことを言う。これがハマって今は普通になっているが、適応するまでのタイムラグはあったと思う。

一方でブログはそれより古い。本ブログのように、記事として主に活字を読む。これらの文章は口語体ではないので、である調だと読めない人がいるかもしれない。それは気にせず書いているが、普段の言葉遣いはある程度出るものの、「話すように書く」はわりと難しいらしい。

なぜかといえば、話すのと書くは違うからだ。溶かす、つまり境界をなくすには、それなりに書いて、それなりに話して、それぞれやって、感覚がつまり相手からも自分からもだけど、あまり差異がないのであれば、溶けると思う。ちなみに僕は溶けている。

メッセージやメールも話すように書いているし、書いているこのブログも話すように書いている。である調でも、ですます調でも誰かに話すように書いている。だからブログを書いたなーっていうよりも話したなという疲れが出てくる。面白いと思うかもしれないが、文章が得意な人は多分こういう感覚だと思う。

逆に苦手な人は、書く時に話すように書けないので、時間がかかったり、何度も書き直したり、書いては消すのでまとらない。余計な事を言ってしまったり(僕がないわけではない)、書くべきことが漏れていたりする。実際に相手を前にして伝えたいこととなると、なかなかコンパクトにまとめるのは難しい。とはいえ、仮想の相手と話していても「これは好きじゃない?」とか「これ好きでしょ?」みたいなことをいわれて怒る人はいないだろう。これは要するに相手のことを考えている余裕があるかに近いと思う。なければ、自分のことだけを書いていて、伝える余裕=相手がこれなら理解できるかなー?というのがなくなるからだ。

そうやって溶けているので、文章イメージと僕の話すイメージはあまりズレがない。逆でもいい、僕が話した人が僕を読む文章イメージはずれがあまりないだろう。もちろんラジオのパーソナリティみたいに、話すことと顔が全然違うとか(笑)想像した人ではなかったみたいな期待値ギャップは常にあるとは思う。

で、SNSとの違いだ。SNSはあくまでつながりや交流がある。ブログでそれをやるようなトラックバックとかが懐かしいが、そういう時代もあった。今もあるんだろうが、ほぼないとすら思っている。それはおいておいて、ブログであれば一個の意見や考えがしっかりとある。それは形式として文章であり、記事である程度論理を組んで示すからだと思う。それくらいのUIUX的な意味でしかない。論文とはいわないが、固いのだ。

SNSは軽い。気軽に打てる。話し言葉でもいい。論理より直観、感情で行ける。システム1が作動してそのまま反応することで、まあ炎上なども起きる。問題は感情をそのまま話し言葉にして出すことは、本来、SNSが普及する前は「物理的」に近しい人、つまり、家族、友達、職場、学校、趣味の場など限られた空間でしかなかったと思う。つまりクローズドということだ。SNSはそれを全てをつなげてしまったように見える。つまり、学校Aの話も学校Bに飛び火して、学校A+Bで学校の見える化がされる。言葉ヅラはいいのだが、これらは見たくないものも見えるし、見せなくていいことも見せることになる。これは考え方次第だが、多くの情報は「どうでもいい」ことが多い。

これはどうでもいいとは、情報Xに対して興味を持つ人の数が常に少ない、つまり知らない他人が何を食べようが別にどうでもいいのだ。価値を仮に持つとしたら、芸能人とか有名人であったり、あとはその友達とかだ。知っている人なら「単にそれ美味しいよね」という話になる。それをあえて他に見せる必要がない。論理としてはそのとおりで、SNSが広がったのはそうではなく「つながってほかの人と交流できる」のがいいと思われたからだと思う。

実際にメリットというか、知らないことを知れるとか、スピード感から色々と良いこともあった。一方で炎上なんてのも日常茶飯事になった。まあゴシップ的なことやどうでもいいことをネタにしてという人もいるのでそれはもう信条や価値観として(多くは仕事か客観視不足くらいだと思うが)スルーしていく時代だし、そう捉えている。

SNSは早く、感情的、一瞬で終わるといえばいいだろうか。残るのは交流として会話的なことやその時のコミュニケーションだ。

ブログは遅く、論理的、記錄して長く紡ぐ感じだ。亀に近い。だからブログを30日書いて何か変わるみたいなのは違うし、まあ嘘だろう(笑)

SNSを僕が使わないわけではないが、使ってきた人でSNSだけでいいやって人はまあ少ないのではないかなと思う。というかたまたま僕がそう思うだけか、多くは疲れていて「知らなくていいや」ということでSNS離れというSNSサービス事業者にはネガティブだが、生活者としては極めて健全だと思う。逆にブログサービスとしてはブログブームが常に起きてもいいと思うけどそうはならないかなと思う。

思考することが面倒だし、時間がかかるし、伝えるのはわりと面倒だからだ。伝えなくてもいいというか。SNSなら端的になったようになるし、早いから反応も分かりやすい。

そういう違いがあると思う。どっちもメリット・デメリットがあるので、使い分けは当然と思いつつ、思考するならブログに敵わないと思う。

それは、ログとして残せるのものそうだし、参照リンクとして参照できるし、ストックとなっていく。例えばTwitterのつぶやきを参照してブログ記事に貼るのはあるし見かけるが、これはブログが主であって文章がなければ謎の記事となる。逆にTwitterでブログ記事リンクを貼ってもまあ記事を読む負担がかかるのでこれも導入としてはいいが、ストックすることにはならない。だからこそ、速度はTwitterで担保して、詳細はブログを見てねとなるのだろう。逆はなさそうだ。ブログを見てSNSで追ってねは「速報性」が欲しい人はあるが、思考をTwitterで追うことは出来ず、つぶやきを追っても感情的な吐露や蓄積にしかならない。

もちろん、固いつぶやきをしている人ならありえるが、それもいくらつぶやきのタイムラインを重ねてもちょっと物足りない。単に情報の密度であるとか、色々あるが、まあSNSで思考するのはちょっときつく、メモとしてはありだが結局まとめたり、整理したり、書いていく時のネタにはなるが、それまでで、最終的には思考としては文章一定以上の記事になると思う。

もっといえば、ここでいう思考とは、考えた記錄や考えたこと自体だが、「ご飯上手い」とかでは思考ではないということだ。「なぜご飯が上手いか」を書いていくこと。良いことがあったから、疲れていたからかしみたのか、それとも特別な日だったのか、久しぶりの友人との会話だったからなのか。そんなことを考えることが思考ということだ。そうでない、感情の反応はまあエンタメや面白がってという娯楽ならいいが、多くの人はその娯楽を求めると思わない。ただ同様に思考する人が多いとも思わないので、結局はブログで思考はマイナーという感じもするし、メインやメジャーにはならないと思う。

それを良しとか悪いとかもなくて、手段でしかないブログであるからこそ、僕は単に思考の道具としてこれからも書いていくし、書いているだけというところだ。

おわりに

ざっと書き出してみて、やはり思考するために書くことが大事で、かつたまたま自分になったのがブログだったのかなと感じる。

SNSを最後に比較してみたが、SNSは別に否定しないのだけど、それほどのものだろうかということもあり、冷静にかんがえると「飯うまい」は価値がないというか、それでどうしたとなる。もちろんそれは知り合いなら「良かったね」ではあるが、そうでないなら意味はない。その意味がないのを見て、反応することがどこまでやれるかだ。

暇で仕方がないならそれでいい(笑)けれど、あとそれで楽しんでいれば余計なお世話だろう(笑)だが、そこで「疲れたな」とか「なんでこんなことしてるんだろ」とネットサーフィンならぬSNS時間で疲れるなら、まあとっとと寝たほうがいい(笑)それか好きな人とご飯を食べて楽しんだほうがいいという感じだ。

というわけで、これからもどんどんどんと考えるブログを書いてみたいということが再確認できたとす。

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