自分がワクワクする研究的なものを人生でやったほうが良さそう

色々な人の考えに触れていると、なるほど、研究とは仮説を立ててそれを丹念に検証していくことだなと再確認できる。

それを感じて思ったのは、やはり自分も研究をしたいというか、ここでは心躍るワクワクしたようなことと言えばいいが、それはかなりの直観であり感覚となる。

人の考えを示すということで自己承認欲求を満たすというのは「分からないでもない」が、そういうのはあくまで「自分の考え」を補足するか、統合しつつというところであって、切り離すというのも少し違う(ここでは研究対象ということではない。もちろん研究として人の考えから学ぶことは普通だらおう)

僕なら、アイデア自体の発想をどこまで細かく分解できて、再現性の高いものができるか(またはできないか)というところがある。この興味は消えないのと、アイデア自体の価値自体は今後一層増える。

同時にアイデアがあるなしという単純なことでなく、そのアイデアの実現についても人のパターンや感覚があって、仮にXという手法を示して再現性が高くてもそれは社会的に変化するので常に再現できない。むしろ再現率が高いといっても1割位もあればいいのではというところで考えると、常にこの「考え」自体も変わるところが僕が面白いと考えているのだと思う。

こういった研究というのは、自主研究だろうが、研究者の研究だろうが(いわゆるお金を研究で得ている人)、何でも良いと思っていて、自分が調べたいことがある、それをなにかしら分かることが出てくる、喜々としてこんなことが分かった!ってやはり原点本質レベルの面白さや動機づけになるんだと感じた。これが面白いからこそ研究は辞められないというものだろう。

自分がワクワクするものの見つけ方

まずこの手の話は、ワクワクするものが見つからないというネガティブな話がよくある。結論としては頑張らなくてもいいので、見つかるというか、多分既にあるのだけど、多くはないと思っているマインドセットやフレームを外すことからとなる。

ここが強固な人は「私はこれが好きなのだ」という言葉がとても辛いみたいだ。重いといっていい。「好き」というと、好きの証明をしないといけないみたいな拷問といってもいい過ぎではない。

でも、「好き」というなら「証明しろ」なんていう人がいるかどうかはおいておいて、そんな偏狭な歪曲したコミュニケーションはまずない。というか、仮にそれがあれば「おかしなコミュニケーション」だとまずは言っておきたいし、僕はそう思う。

次に「頑張らない」というのは、そもそも頑張って自分が好きなものを見つけるというのは人生ではない。というのは、好きなことをやる人生を否定するわけでも肯定するわけでもないからだ。僕は好きなことをやったほうがいいと思うだけであって、では他人がそうなったほうがいいというと「あなたの価値観」がそうならそうすればいいとなる。本来あるべき姿はそうなんだけど、なぜか社会や共同体や色々な制約や何かでどうもそれっぽい「正解」があると錯覚する。が、そんなのはない。と言い切っておこう。僕はそう本当に思っていると再度くどいが書いておく。

ワクワクするものは、「好き」と言ってしまうこと。好きといっても、好きの証明がなくてもいいと全肯定されること。この時、肯定は他者からの承認をイメージするが、どちらかといえば「アイデア自体が好き」という僕なら、「アイデアは黙って受け入れる」みたいな、ある種のモノがある種の生き物として、心があるかのような感覚だ。実際にはないのだけど、「ああ、なんか無心になれるわ」と一回でも、一秒でも思えればそれだけでエモい。そしてそれは興味の変遷もあるが、ほぼ人生において大きな影響を良い意味で与えてくれると思う。

見つけ方のノウハウはない。が、研究という意味では、「これなんか調べたいな」とか「これなんだろう」とか。そういうものすごくシンプルなこれなんだろう?を気にすればいいとなる。一杯あるから。驚くほど。それが見つからないのは「ノウハウ」がないのではない。見えてないという、ある種「星の王子さま」的にいう、心の目みたいなやつだと思う、確かあったはず。

見ているけど見えてない。禅問答みたいだが、物理的には映像として光の反射で目に脳に神経に刺激として風景や景色や人やモノが見えているけれど、その内容や中身やそこから感じること、それこそ自分が感じたことが「見えてない」というわけだ。

それに思い当たるなら、感情を出していくことがレッスンとなる。さああやってみようとなるが、ここはそういうメンタルクリニックではないし、素人の物言いに過ぎないことをゆめゆめ疑うなかれというわけで。

研究、自主プロジェクトの寿命は多分長い

人生におけるワクワク価値なんてものは勝手な話であって、僕が僕でやりたいと思えばやればいいし、あなたがそう思うならやればいい。という態度こそが価値があるだけだ。それ以外にそういう態度が「他の人にとって」癒やしになることもありえるが(笑)例えば勇気をもらったとか、それは全て断言できるが「副次的」でしかない。メインではない。つまり独善独断というか、僕があなたが勝手に決めることだから生まれる価値でしかない。決めないならどうなるか、何も生まれない。結構面白いと思う。

僕の中で自主プロジェクトとしてアイデアの話をしているが、これも生まれてからあるわけでなく、仕事をしたり考えたりしながら出てきたテーマでしかない。また変わると思うが、今はそれが楽しいしもっとやりたいと思う。

そういうこれ面白いかもなをまずやってみる。駄目なら次をやる。その繰り返しにおいて、優等生的な考えてしまうかつ動けない人は「それやってうまくいかないならどうするのか」「うまくいったらどうするのか」ともう考えすぎである。それを誰に説明する義務があるのか分からないが、妄想の投資家なのか、妄想の親なのか、妄想の大臣なのか、妄想の彼女なのか知らないが、妄想の世間かもしれないし社会かもしれないが、そんなのは「妄想」なので、妄想でいいとすればいいと思う。

面白いなら熱量が生まれる。それは僕がそう面白いと心で思うから生まれるのだ。あなたがそうだからそうなのだ。心は見えないと言ったし書いたけど、見えないのだけど「心から」発動すれば、熱量は面白いように分かる。続くという指標は一面的ではあるが、心からやると熱量が生まれるのでまあ続く。続けたくなくても続くといっていい。当然続けるから良いとかでもなく、続けたくなくても続けなくちゃなんてのもあるわけで。

その時熱量を受け入れること。受けて冷水を浴びせて冷ますのが一番失礼というか、心に、熱に対してということだ。それを冷まさないまでも、保存するか、どっかに保持するか、忘れないことがめちゃくちゃ大事だ。忘れないなら熱量、熱、心はきっとどこかで動く。多分そのタイミングは機会は人によって、人生がある程度数十年はあるはずでそこでどこかできっとあるのだと思う。タイミングは分からないが、きっとそういうのはあるとややスピリチュアル的だがそういうスピリチュアルって僕は結構好きなのでそう書いておく。

今うまくいかないからずっとうまくいかないわけでもない。今うまくいくからずっとそうだ。というのもないはずだ。変化や流れがあるし、それも運がある。それらを受け入れてしまうと、嘆くとか後悔って言葉が消えて「ああ、こんな感じなんだな。じゃあ次はどうすればいいかな」とポジティブという姿勢を無理に作らなくても、また歩き出せる。

それこそが自主研究なり、自分が何か調べるプロジェクトだとか、これをやりたいんだ、研究したいんだってことが生きがいになるとか、面白いことなんじゃないかと思う。

記事を書いた人

シゴトクリエイター 大橋 弘宜
シゴトクリエイター 大橋 弘宜
ビジネスアイデアメディア「シゴクリ」運営者。まずアイデアを出すアイデアセッターであり、生まれてくるアイデアをビジネス化出来ないかを考え続け、手を動かすゼロイチ大好きアイデアマン。ビジネスアイデア相談やビジネス企画の実績多数あり。毎日生まれるアイデアから世のために貢献していくスタイルです。好きな言葉は三方良し。詳しい自己紹介仕事実績も合わせてご覧ください。お仕事メニューお問い合わせはお気軽にどうぞ。

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