表層的な好きと本質的な好きの違いは持続可能性にあり
表層的な好きが悪いわけでなく、本質的な好きが絶対良いとかでもないです。違いがあるという話です。
そして、仕事づくりにおいては、ここでは本質的な好きが機能するよって話ですね。
そんなことをちょっと気づいたので書いてみます。
目次
表層的な好きは、具体的で引っ張られやすい
具体と抽象の話は何度も書いていますが、あまり人気コンテンツではないっぽいので、分かりづらいのかもしれません(笑)が、そこはめげずに書き続けてきます。なぜなら本質であり、枝葉ではないからですね、と僕は考えているだけですけどね。
表層的な好きとは何かというと、悪くいえば上っ面の好きです。表面的というか。例えば、料理が好きみたいな人がいるとします。この好きが「表層的」か「本質的」かの答えはないですよ。基本として、前提として、その判断は「料理が好き」といった人がどう感じるか、考えているかというだけです。僕がジャッジしてどうかなんてこともあるわけではないですよ。何様じゃないですか(笑)
では、料理が好きという人がいたとして、あなたが料理好きだと仮定しましょう。では、その時、「好きを仕事にするのがいい」みたいなのを聞いて、そのまま安直に安易にやると「料理が好きだから料理を仕事にしたほうがいい」って思っちゃいますよね。理屈はそうです。分かりますよ。
でもですね、これは失敗というか、理屈はそうだけど、理屈じゃないですか。実際に、理屈で「正しい」からって、多くは行動の動機になりえないんですね。
もう一度いいます。理屈で動けますか?動きづらくないですか?ってことです。実際に僕が動く理由ってあまり「理屈」でなくて、それは全くないわけではないけど、多くは感情です。楽しそう、面白そう、なんか賑やか、良い空気が流れている(笑)スピリチュアル的でもないけれど、まあ本当に感覚的ですよね。
ここで、そもそもなんで理屈で動いちゃうのか?ってことです。そうやって言われたからというのでもいいんですが、「理屈」を前提に動くなんて人は稀で、仮にあってもそういう「見た目」だけですから。そこでまずミスっているわけです。
本来は、感情で動くはずが、なぜか「好き」に関してはここではですよ、なぜか「好きだから」って感覚でなく、「好きを仕事にするのがいい」なんて理屈、ここではもう乱暴にいえば「屁理屈」なんですよ。別に、この理屈が必ず屁理屈ではなくて、料理が好きな人にとって良い理屈ではないってことです。
もっと言いましょう。料理が好きだからそれを仕事にしたほうがいいからやる。うーん、これで料理をし続けられるか?ですけど、多分きつくて、多くは「なんでやってんだろ」ってなって「好きだから」やってるんだってことになります。それ以上でもそれ以下でもない。ただ好きだからやっている。それだけです。
感覚のほうが動きやすいとかあ、理屈だと継続しづらいとかってのは実は蛇足です。
ここでは「表層的」なものは、見やすいというか見えやすいですよね。料理が好きって言いやすいというか、料理が確かに好きってのは事実としてあるみたいだと。でも、それは逆に追いかけやすいとも言えるわけです。
何を言っているかというと、移ろいやすいってことです。じゃあ他に好きなことがないのか?と。その好きレベルってもう人それぞれで、「あー実は本を読むのも好きだった」となれば、それも好きですよね。
この時別に「読書」を仕事にしなくてもいいわけですが、変にこじらせて「読書も好きだから仕事にしなきゃな」とか「料理だけではオリジナリティがないから」といって、妙に混ぜてしまうと。別にそれが悪いわけではないんですが、「好き」を過重視しているという感じです。
引っ張られるとは、自分が別にそこまで思ってもないのに、理屈の重みとか、遠心力みたいな感じで振り回されると。つまり、最初に「好きだからそれをやらないと」でスタートすると、簡単に止まれないわけです。そこそこうまい比喩かなと。
本質的な好きは、一見面白くないものでも楽しめること
表層的な好きのイメージはなんとなく出来たかと思います。出来なくても、比較すればわかりやすくなるかと。
次に考えるのは、本質的な好きです。ここでも、料理が好きってことにしましょう。ですが、料理が好きって何かを掘り下げているとします。
つまり、本質的なので、「料理が好き」ではあるが、それってつまり本質的にいうと「あるパーツを組み合わせて総合的に出来るものが面白い」って感じだと考えるとしましょう。これは適当ですが、「部分」という材料を色々アレンジして「違う」ものになる面白さってありそうじゃないですか。僕もそういう意味で料理は好きなので。
これも正解があるとかではないですよ。例えばってことです。
既にここで言えるのは、
表層的な好き:料理が好きというところで、それだけで止まっている。まさに表層的である。ただ具体的には「料理」というのは挙がっている状態。
となるわけです。
本質的な好き:料理が好き。さらにいえば、材料などを組み合わせて作られる、生み出される料理、調理された一見想像ができないものを生み出すことが面白い。
って感じで、大分違いますよね。
ここで、本質的な好きは、ポータブル可能です。ポータブルとは、持ち運び可能、汎用性があるといってもいい、そういったことです。つまり、抽象度が高いんですね。
逆に言いましょう。「何かを組み合わせて生まれるものが好き」って他で言えないですか?これはもう想像力の話です。
正解はないのですが、例えば接客。コールセンターでのクレームを受ける仕事があるとして、それも「お客さんの会話」という材料を組み立てて、クレームではあるが理解して、それを受けつつ、単に怒られるだけでなく、相手をそこからどう懐柔したり、違う形で受け流したり、というゴールが変わったりする妙が面白い。
ってのも一つですよね。コールセンターの仕事がどういうものかは想像ですが、例えばそうやって感じる人もいるかもな、くらいです。
例えば、スポーツで、サッカーのコーチをしている人がいるとします。コーチは毎回違う選手や相手に対して最適なアドバイスなり、それこそコーチングですよね、選手が主体的に動ける環境づくりをするとかで、毎回違うと。これも毎回材料で組み合わせて出てくるものは違うよね、ってなりませんか?
こじつけでもなくても、僕はそう考えたってことです。抽象度が高いってことはそういうことです。これらの具体的な、コールセンターも、サッカーコーチも、同一に捉えられると。
ここで気づく人は気づくのですが、つまり、具体的ではないんですね。抽象度が高い(材料→作り上げる妙)みたいなものがあれば、具体的な仕事って何でもいいってなるんですね。もちろん、本当に嫌な具体的な仕事もあると思うんで、文字通り「なんでも」いいとはならないんですが、そこはご愛嬌で。少なくとも具体性が高くて、これしかダメ!ってことではない融通や曖昧さがあるという感じが伝わればいいかなと。
ここで明確なのは、本質的な好きであれば、もっといってしまえば、つまらなさそうな仕事も楽しめるんですよ。それこそコールセンターのクレーム受けってつまらなさそうではないですか。それこそ、サッカーのコーチは分からないですが、トレーナーとか裏方のアップ相手とかそういうのってめっちゃ見えないので地味ですよね。そういう仕事がどうでなく、「表層的」でものを見る人は「地味」だから、ダメとかって思い込んでいるんですよ。きっと。ゆえに見ようとしない。
でも、やってみると「あれ、クレーム受け面白い部分があるぞ」とか「アップ相手でもこうすると選手の力が120%上がるぞ」とかそういう発見がある。それも、部分→完成の面白さって言えるわけですよね。
つまり、具体的な仕事とか見えるものってどっちでもいいと。そうでなくて、その中でむしろ面白さを見つける力とか、経験でもいいし、そういう癖というのが本質的な好きって言えるんじゃないかと。
僕はそう考えたよって話です。
表層的であれば行き詰まり、本質的であれば生き延びる
留意して欲しいのは、表層的に反射的にこれやりたいからやるってのを咎めているわけではないです。ここでは好きというところを持って、それを仕事にしたほうがいいっていうのは全然いいんですよ。でも、その掘りが浅いと、つまり本質的にあまりにもなってないと、次の表層的なものに引っ張られると。軸がないといいかえてもいいかもしれませんね。
少しまとめると、
表層的な好き→表層が面白い仕事×面白さを見つけることは発揮されない→クリエイティブではないからこそ、少しでも稼げないなど表層的な軸や評価で躓くと、すぐ「できない」と感じる。
って感じです。
本質的な好き→表層はつまらない仕事×面白さを見つける力、または事実や経験によって、いくらでも面白さを見つけられる。多少つまづいても関係ない。
ここで、抗うというか、持続可能性が高いのって、明らかに後者なんですよ。抽象度が高いってことは、持ち運びが出来るので、どこでも使えるといっていい。そうやって磨かれた「好き」って、趣味の釣りでも、誰かとの雑談でも、ご飯を食べる時でも、それこそぼーっとしているときでも勝手に育てられるという感じです。正確には、抽象的な「好き」があって、各自の場面、状況、事柄の具体的な好きと作用して、そこからさらに純度が高い「好き」を生成しているという感じです。
僕はアイデア出しを仕事にしていますが、何度も言っていますが、アイデア出しをしたいという感覚はないんですよ。というよりも、本質的な好きというのは「誰かを喜ばせたい」「役立ってもらいたい」「面白がってもらいたい」くらいなんですよね。であれば、ぶっちゃけなんでもいいと。まあこの時なんでもいいは言葉のアヤで、嫌な仕事は嫌ってだけなんですけど。
そこに答えがあるやつとか、何度も同じことをやり続けるとか、作業性が強いとか、保守的であるとかはまあ向いてないだけです。それだけです。
順序としては、曖昧ですが、アイデア出し的なことをやったら喜ばれると思った。そしてそういうのをお金をとって依頼があれば仕事になると思った。やってみたら、少しずつ依頼が来た。それをやっていったら、仕事になっていった。だけなんですよね。そこに好きというよりも、面白そうとか、自分の持続可能性が高かった(これは僕の能力とか資質とかでなくて、他にも色々やった中で飽きが来づらい、飽きなかったという意味でです)ものがアイデア出しだったとかってことです。
アイデア出しだけでなく、調べること、リサーチすることもそうでした。そうやってメタ的というか、汎用性が高いスキルというか、仕事というか、経験ですよね、最後に残ったものというか、抽象度が高くいえば、「誰かに喜んでもらえて自分も飽きなくて正解がないやつ」みたいなのがそういう具体的なものだったんですよね。逆にいえば、これってクリエイティブ的なことだから、大体そういうものはやれるって感じがあります。やるかどうかはおいておいて、面白いと感じるのはその通り心から思うからですね。
表層的な人は答え合わせや正解がない世界を恐れている
おそらくですが、表層的な好きで振り回されてなんか違うなー、ってことを抱いてあまり変化がないとか、変わらないって人は、正解とか、何か答えがある世界観で見ているんですね。そういうものはないです(笑)それだけです。
表層的な好きはいいのですが、そこから頭からつま先まで全部好きみたいな純度100%の好きを求めちゃうんですよね。それが正解思考という意味でここでは批判の対象です(笑)
誰かからもこれが好きといわれている唯一無二みたいな正解っぽいやつ(そんなのはない)があるって幻想を抱くわけです。こういう幻想トリガーで動けばいいけど、答え合わせベクトルが強くてそこで止まっちゃうってことですね。
自分が考えるものさしとか、まさに「本質的な」とは、自分がどう感じているかというコアな話であり、誰かと一緒ということはなくて、自分で考えたものとなるわけですよ。先の本質的な好き、料理なら材料→完成する妙でしたよね。それは具体的であって、別にコールセンターでもサッカーのコーチでもいいと。僕なら別に「人が喜んでくれて」みたいなものならわりとなんでもいいと。そういうのが本質的ってやつです。
「好き」って理屈で重視しがちですし、そういう声もありますが、ちょっと怪しいというか、疑うくらいで全然オッケーです。ただのものさしの一つでしかないってことです。好きから入ってもいいけど、好きでやれば全部うまくいくなんて、自分で本当にそう考えて試して思えばいいですけど、そんなの未実証のものって怪しいですから、眉唾でどうぞってことです。僕の話も含めてですよ(笑)
別に嫌いから探してもいいし、楽しいとか、なんかいいとかでもいいし、これ地味に気になるとか、わからんけどやっちゃうことでもいいわけですね。そういう「ものさし」を無下にせず、そこを良い悪いといわずに受け入れている人は、「好き」に固執しないのではないかなと。
好きってやり方もあるよねーくらいで、それこそ表層ですからね。本質的にいえば、ぱっと考えると微妙だけど実はここが面白ポイントがある。それこそがまさに本質的な話となるわけです。
トータルで考えると、着地点は表層から入って本質的で磨いて、表層で降りる
じゃあ一応まとめてみます(笑)
まず、経験をしたり色々するってのは、本質から始まるなんてないです。だから基本色々やるって表層っぽいんですよね。色々やって「面白そうだったけど全然だった」みたいなのなんてめちゃくちゃありませんか?そういうのがあると。
そうやって色々表層をやっていると、「何か本質的に見える」ものもある。それっていきなりできないので、学習なら経験がいるし、それこそ好き嫌い、苦手得意とか色々あるけど、まあその人なりに何かみえるってやつがそれですよね。年数とか目安はないと思いますが、集中したり熱中していないと出来ないかなというところは確かです。石の上にも三年はちょっと古い感じがしますってくらいですね。
その上で本質が見つかったら、「あれ、ラーメン屋で働くのなんて全然おもしろくないけど、意外にお笑いと共通するところがあるな」なんて気づいて、自分のお笑い芸に活かしたり、「お客さんに熱々のラーメンを届ける」みたいな感覚が実は好きだったみたいなことに気づく。これも適当ですよ!でも、そういう具体→抽象→具体ですよね、ここでは表層→本質→表層みたいなことですね、それで、自分のお笑い活動でもいいし、別の表層、例えばものづくりとして趣味でやっていた電子工作でオルガンづくりみたいなのがあって、そっちに生きたとか。
この時、熱々のラーメンみたいな感じで、お客さんにその場で一緒に体験できる「ライブ」をオルガンで出来たら面白いと考えたとします。それで楽しいなら、ライブもやるし、楽器も作る。そこから、ライブ依頼もあったり、楽器作り=オリジナルのやつを作るって仕事が生まれることもありそうです。これなんかは、まさに持続可能性が高いものを見つけられたって感じがするし、本質的っていえると。
でも、本質がそのまま本質としてあったのではなく、表層から見つけて、本質を得て、さらに別の表層で試してみたいな。これはシンプルに数回ですが、これを数回ではない、数百回(笑)とか毎日試すことをやっていって見つかる感じがします。苦行ではないですよ、なぜなら楽しいからです。「自分が本質だと感じたこの感じは実は本当なんだろうか?」ってことです。それを検証する冒険の旅って感じで僕は楽しいし、多分これを感じている人は楽しいはずなんですよね。
よって、表層で始まって本質に行かずにそこで他の表層へいったりとか、あと理屈重視で「好きを仕事にしたほうが良さそうだから」みたいなところってまあそれはどっちともいえないんですが、本質に行かないならば、突っ込んで掘り下げないならば、結局同じことの繰り返しです。
ここでは表層であり続けると。それだけを批判しないのですが、その表層がいつか本質に行くかは誰にも分からないです。僕も分からないです。なぜなら、それこそ、あなたが、自分がですよね、考えてこれかなって試行錯誤の末、つまり自分で獲得するものだからですね。だから答えがない。答えはだから自分にあるのっては、文字通り真理なんですよ(笑)それだけです。
そこに表層から本質に行くまでの回数は?とか、期間は?とか、そういうことがまさに「正解思考」です。別に命をいきなり失うとか、相当苦労しないと出来ないことでなく、ちょっと試してみるってことですよね。それって出来るわけでして、多くは技術、ここでいえば、表層→本質化するというところでの、思考の技術というか、行動の技術みたいなものが大事なのかなと。これもノウハウでなくて、こうすると深まるっぽいなって自分で検証していって身につけたものっていう意味でのあなたの技術ってことですよ。それが大事かなと。
そうやって見つかったり、発見したり、これかなー?って汎用的なもの、抽象的なものですよね、本質的ってことですが、それがあれば、まあ仕事づくりとしても、ぶっちゃけ色々なもので「楽しめる」し「面白い」ので、具体的な何かっていうのは、見た目が違うだけで、「本質はかなり似ている」わけです。
僕ならアイデア出しとかリサーチってのが分かりやすいですが、別に資料作りでも本質的であればやるし、そうでないなら作業っぽさがあるならやらないってだけです(笑)そうやって純度を磨いていく必要とか、さじ加減は色々ですが、例えばラフスケッチみたいなものなんてやらないんですが、必要であればやるってことです。それが相手がお客さんが喜んでくれるならってことですよね。相談的なこともやるし、アイデアのWSもやるし。それってくどいですが「お客さんが喜んでくれるなら」ってことですよね。またまたくどいですが、それも作業性が強いなら断るかなってのもありますから絶対ではないですよ、大体はってことです。
そうやって、本質的なものってこれって言えないし、あなたの感覚もありますが、それをすぐ結果を出せるとか、そういうことでなく、大切に磨いていって、時にはあらっぽくしてもいいので、検証して耐えていくというか、表層は捨てて良いので、本質を捨てないって感じですかね。
うまくまとまった気がしますが、そんな感じで、表層的な好きを追いかけてなんか違うなって人は多いと思うので、ぜひ本質的な好き、つまり抽象度が高い好きを獲得してもらうといいのでは?ってことでした。それがあれば、本当になんでも面白いと思うし、楽しいので、ストレスは相当少なくなるかなと思います。
筆者プロフィール
- 「シゴクリ」運営者。アイデアの力でお客様に貢献するゼロイチ大好きアイデアマン。ビジネスアイデア相談実績等は400超。好きな言葉は三方良し。詳しい自己紹介、仕事実績も合わせてご覧ください。お仕事メニューやお問い合わせはお気軽にどうぞ。
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