遊びとアイデアの共通点

スケッチをやっていて思ったんですが、慣れてくるとそれで遊びたくなるんですね。例えば、みかんをキャラクター化して遊んだり、そこで楽しめるすごろく化して遊べないかと考えたりってことです。

そうやって自分で遊びを作っていくことって見過ごされがちですが、まさに遊びを作る=アイデアを生み出すと似ているんじゃないか。というのが一つの仮説です。

遊びをどこまでできるか、遊んでいるか。遊べるか。シンプルですが、遊びって奥が深いので、遊び方を見たらその人のアイデア感、アイデア世界が見えるような気がします。

遊びもアイデアも練習が大事

「どうやって遊んだらいいですか?」ってあまり聞かないフレーズです。ただ、こっちは普通にありそうですが、「どうすればアイデアが出ますか?」ってよく聞くんですね。そうでもない?

アウトプットとしては、遊び自体やアイデア自体があるとすると、どのようにやるか=遊びの生み出し方、アイデアの生み出し方、という構造な気がしてきます。

WHATとしてはアイデアや遊びがあるんだけど、HOWはそのやり方ってことですね。

どう遊んだらいいか分からないって結構「?」ですが、実際に何か買わないと遊べないと思いこんでいる人がいるとします。例えばボーリングです。ボーリングはボーリング場に行くものだは、別に間違っていないのですが、ボーリング場がないとか、ボーリング場にいくお金がないとか、ボーリングは自分にとって重すぎるとか。そうやって考えると、ペットボトルを並べて、ボールのようなものを転がす。あとは自由なルールを作る。競い合える何かだといいですよね。

これが僕は遊びであり、アイデアが生まれる瞬間だと思っています。

もっといえば、ボーリングってものがボーリング場でしかないものだ、それがボーリングなのだという固定概念がある人にはこの考え方やアイデアは絶対出てきません。

面白いですが、僕も含めて人はこういうバイアスによくはまります。でもですね、多くは色々な解決方法や色々な考え方があるわけでして、これしか駄目って多分ないんですね。

仕事もですし、起業アイデアもですし、経営方法も、働き方も、趣味もそうです。そう考えると楽になりませんか?

あと、これらは遊びを勝手に子どもができるようになることもありえますが、道具をどう使って何を得るか。そういう意味では楽しいことをどうすればいいか?に200%振っているからこそ子どもの仕事とは遊びなんですよね。でも、大人も子どもみたいに遊ばなくてもいいんですが、仕事で遊んでもいいんじゃないか。それをクリエイティブとか創造性ってそれらしく言っているだけかなと思います。

そうやって自分の仕事を面白くしてしまえばいい。それだけですが、これも練習は必要な気がします。天然で勝手に遊べるのが子どもだとすると、確かに凝り固まった大人だと遊べない気がします。でもそれは単にバイアスやスキーマで固めただけなので、外してしまえば、いわゆる見られるのが恥ずかしいとかですよね(笑)結構できてしまうはずかなと。

遊びもアイデアも正解はない

鉛筆でサイコロを作ったことありませんか?これってあり物でなんとかしようとしたらこうなったくらいで。高度なアイデアとかでもない。そういうあり物でとか、縛りをいれて考えると結構できてしまうはずだと。もちろん何かの問題解決ってそういう感覚ですぐできるわけでもないんでしょうがって思った瞬間、いやいや待て待てと戻していきましょうと。

一方で経験も必要だなと思っています。遊んでいれば自然と身についているようなことといえそうですが、それだけでなく、「鉛筆が転がること」「さいころのように止まる」ので「目を書けば数字を決められそう」って仮説検証がここにはあるんじゃないかなと。全くそれらがないなら、たどり着けないわけです。むしろ鉛筆が周りにあったからで。シャーペンしかないと、鉛筆サイコロって生まれないかもしれないですからね。

当然ここでは一つの解決アイデアを言いたいんじゃないですね。サイコロ自体を作るに言ってもいいし、10円玉のコイントスとかでもランダム感は出せますよね。1枚でなく3枚の組み合わせを使うとか。

遊び自体は期限が短くて、サイコロ鉛筆も面白くないアイデアならその場で消えるはずです。アイデアもそうで、面白くないなら消えると。それだけなんですよね。

だからAが正解だとかBが正解だとかもない。ある時はAだったけど次はBで、次はCでとなる。時間が経ったら否定されたDがなぜかいい感じになっているとかもありそうです。

正解がないというのがポイントで、あとは少し学んだり考える必要もあるんでしょうね。

遊びが好きな人はアイデアも愛せる

逆にいえば、遊びが嫌いな人はアイデアも嫌いで、何かしらアイデアに対して称賛する態度がないといえるかなと。

先天的な才能というふうに断定してまったり、水面下や裏にある「アイデア」自体を見に行く態度がないということになる。

この態度がある人は、たしかにアイデアを生み出すのは難しい。態度を矯正して直すのは難しいしOSレベルで本質的なものなので、何が自分でアイデアだと思っているか、向き合って自分のアイデア自体を見つめるしかないのかなと思うわけです。

それが出来ないと結構きつくて、アイデアを出したりクリエイティブなことをやっていくのは向いてないか、出来ないといえる。

逆に少しでも向き合って自分のアイデアはこうだろうとか、そこで内省して修正したり、諦めずに再度やるとか、うまくいかない状態みたいなのを「嫌わない」というか、慣れてしまえば多分いくらでもそういったアイデアやクリエイティブな活動はできるかなと。

僕自身でもそうで、アイデアが生まれるとかアイデアがどうって言っているのはもっと多分できる人がいるんだけど、単に自分を過小評価しているだけでしてって仮説がある。アイデア自体もいわゆる一発で何かを解決する魔法みたいなイメージと思いこんでいる。

実際はそんなのでなく、最初のアイデアはとても言葉を選ばずにいえば「しょぼい」ものなのが多い。でもどんなしょぼくてもですね、そこから改善していけば、全く違うものが生まれる。それは気合根性というよりも、態度の方かなと。つまり、アイデアを愛している、最初のそれが悪いとか言われてもそこの内面にある可能性を見出したり、これでやれるといいよな希望を捨てていないこと。諦めるってことをしないということ。

それはいえば簡単なんですよね。でも、そこにあるのは「諦めない心」という簡単な言い回しだけど、実はそれはとてもしっかりと根をしっかりと大地に張ってですね、簡単に切れない、あらゆるところからつないで、育てていこうとする感覚であり、実践になるんじゃないかなと。そういう世界は大変というよりも、見えないからこそ、やはり「すぐ、簡単に、分かりやすい」世界ではないと。「時間がかかり、手間取って、分かりづらい」のだけど、確実に根って張れますからねと。

逆に言えば、遊びを愛している、好きならばその時点でアイデアマンだし、アイデアを出して実践しているとも言えるわけです。

クリエイティブとは遊び全体、アイデア全体

創造というのは、遊びをすることとかアイデア自体に見られるわけです。遊び方とか、アイデアの出し方も創造といってもいいので全部であり全体であると。

創造することって、今までなかったやり方であったり、楽しくなかったことが楽しくなるみたいなことかなと。そういう意味では創造する、クリエイティブなことって、遊びそのものであり、アイデアそのものであり、また遊び方もそうだし、アイデアの出し方も含まれるんじゃないかと。

これに気づけた人はおそらくですが、全部楽しいんですよね。つまらないことをみれば「どうすれば面白くなるか」と考えるわけです。「面白い人を見れば面白いですね!」と一緒にやろうとする。

とてもいい感じしませんか?これ。

僕もそんな感じで生きていますから、どんどん面白くしていきましょうって感じで締めとしたいと思います(笑)

筆者プロフィール

シゴトクリエイター 大橋 弘宜
シゴトクリエイター 大橋 弘宜
「シゴクリ」運営者。アイデアの力でお客様に貢献するゼロイチ大好きアイデアマン。ビジネスアイデア相談実績等は200超を超える。好きな言葉は三方良し。詳しい自己紹介仕事実績も合わせてご覧ください。お仕事メニューお問い合わせはお気軽にどうぞ。

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