「仕事選びのアートとサイエンス」が面白かったので共有してみます

「天職は寝て待て」という本を改題した「仕事選びのアートとサイエンス」が非常に面白かったので共有します。

内容は転職などのキャリアをどうするかということなのですが、著者らしく結論が中表紙で出ちゃっています(笑)

それはシンプルで、仕事選びって予定通りできない。変に固執しないで試行錯誤して選んでみよう(文言は変えましたが)、ということを本文で思考していく、なぜそう言えるかということが書かれています。これを著者は「本文は脚注にすぎない」といってるのですが、まさにその通りでした。

僕自身が読んだのは、上の基本メッセージは理解できるし、その通りだと思ったのと、同時に今まで著書を読んでて面白そうだと思ったので買ったというところです。以前のタイミングでは買おうとかは思わなかったので。読書はタイミングも大事ですね。

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正解は中に探す

はじめにの章で、独自の履歴書フォーマットを使う話が出てきます。著者はノウハウ汚染という感じでノウハウ本見てもいいけど自分で考えなきゃというところを指摘しています。その中で、著者が使っているフォーマットを見たいという人が出くる話があります。

(中略)

共有するのは構わないのですが、ここでお伝えしたいのは「いいフォーマットがあるはずだから、世の中からそれを探そう」という性根に染みついた教科書的アプローチ、正解を「外に」探すアプローチは忘れて、正解を「中に」探すアプローチをとってみようということです。

山口周「仕事選びのアートとサイエンス 」光文社新書,2019,p.37より (以下同様のタイトルより)、太字は原文通り

太字にしびれたわけですが(笑)、これは何でも言えることですね。あるやり方が有効だと聞けばでは教えてくださいとなる。

もちろんこれをよく考える必要がありますよね。2つくらいありそうです。1つは「そうやって他人のやり方から学ぶのはいいことでは?聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥とか言うし、すぐ聞いて解決するのはいい。自分のやり方に固執してないし」というポジティブな見方もあります。

もう1つは、「そうやって求めることで自分で考えないのは駄目ではないか。考えた末にどうしてもというなら話は別だけど、そもそも主張が独自の、つまり自分で考えたものでいいといっていて、正解は外にないので、理解してないだけではないか」ということです。

当然著者的には後者であろうということです。僕も後者の立場です。だからこそ太字にあるような「外に」正解があるからそれをやればいいのだという考えて見せてということになります。おそらくですが、仮にこういう人が「見せて」→「見た」→「真似た」→「転職通らない」→「どうしてくれる!」ということになりそうです。まさに関わりたくない人ですね(笑)

なぜこんな思考になるのか。多分なのですが、「見せて」→「見た」→「真似た」あたりで怪しくなってきて、そこで「見せて」→「見た」→「参考にして自分で作った」という本来あるべき形はそうかなと。自分で考えろってことですね。また実際の転職で試したところで、そういう面接官は本を読んでいる可能性もある(笑)ということで、「なぜあなたは独自の履歴書にしたのですか」と聞かれたりするかも。その時、受け売りレベル(受け売りが悪いわけではないのですが、ちゃんと考えずにやると脆いですよね。深めることが大事になる)であるので返答できない。まさか「本に書いてあったのでやってみました」という時点で「(私は自分で考えていくことが苦手です)」といってるようなものですよね。と、僕が面接官なら判断します。

それで失敗というかうまくいかないことを自分のやり方が理解が足りないくらいで、他のやり方をやってみようとか、どうしてだろうかと内省すればいいものの、そこまでやっちゃうと、多分ですが「これはノウハウが悪いに違いない!」といって、やり方を提示した人を攻めてくる(笑)これはきついですね。

ノウハウってここまでくると悪いことしかないのではないかと思うのですが、おそらくここで言われるノウハウ本などは「こうすればオッケー」というマニュアルというか、「こういう質問ではこれが求められるからこう切り返せばいい。さらに次が来たら」という感じです。これってノウハウというのかな?ということですが、マニュアルっぽいです。またマニュアルが悪いというよりも、マニュアルにより考えることも可能なわけですから、言葉自体の印象にもなっちゃいます。だからこそ、単に考えずにやることが筋が悪いよねという感覚です。

ノウハウとは何かですが、ノウハウ本でいえば、またはノウハウ記事でいえば、それを調べたり、試したり、考えて、「こういう時はこうかもしれない」「結構やったけどそういう傾向があるといえる」というのを科学でなくていいので、自分は経験値として理解していることだと思います。逆に共有したところで、ノウハウって濃いものが多いので「おお、そうなんだー」でそれを生かしてというのは、結構できないのが普通です。企画とかも同様で、成功例の企画は条件や色々な要因が重なっているわけで、というかそうでない「どこでも使えるノウハウ」は、抽象化されていきます。

逆にいえば抽象化されたノウハウは、「ちゃんと考えよう」みたいなことや「ターゲットを決めよう」とか、「予算を決めよう」みたいなことになります。教科書っぽいかもしれませんが、教科書は答えが書いてあるから必ずそういう答えがあるのだという癖がついていると、自分で考えてこうですとは言えないんですよね。

批判っぽく書いていますが、僕自身もその思考プロセスは分かります。勉強したり学ぶ時に「こういうときどうすればいいか。ぐぐったら何か出てこないか」→「出てこない」のが普通ですから(笑)そこを楽して「正解が出てこれば考えないし、どこかにある」と思ってしまいますよね。

プログラミングとかでも初学者の人は本に書いてある、詳しい人は全部知ってると思ったりすると思います。多分ですがこれは半分間違っていて、詳しい人やプロはむしろ分からないから調べたり、分かる点と分からない点を明確に分けたり、どういうときにその状態(プログラムで起きた事象もだけど、分からないという心理状態も)になりやすいかを知っていてそこからアプローチしている気がします。知っていると書いていますがその知ってることって限られていて、多くは知らない、分からない。むしろ未知へのマインドセット、どう取り組むかという構えな気がします。これが「中に」探すアプローチに本質ではないかなと僕は考えました。

ここで難しいのは「中に」正解はあるのだといって、自分の頭で考えてばかりいて何か生まれるかということです。これも限度がありますし、本読むことは「外に」正解を求めてないかとならないかみたいな杓子定規的な考え方です。ぶっちゃけこのあたりは、哲学というか考えるとキリがないのですが「あるAがいいと思ったからAにした」というときに、必ずAがいいという保証はないです。

上で話として「中を探す」というとき、常に中を探せばいいかというと、真逆で「教科書的アプローチ」が正解な時もあるかもしれない。つまり人に聞いて正解は外にあるのだということがです。これもバランスでしょう。

トイレの詰まったものを治すノウハウはあれど、ノウハウ自体を覚えておいて中身、つまりなぜそうすると治るかを知らないとか考えないと、他との重なりが弱いため、使いづらくなります。感覚的ですが、学びの応用が効きづらい印象です。面積または体積が小さいというか、もっといえばノウハウを点と捉えると微妙で、出来れば最低面積的に伸ばして、または可能ならそれを他と合わせて体積化していくほうが僕はいいのではと思います。

例えば「中に探す」アプローチが出来ないかもねみたいなくだりは、実は先回読んだ守屋さんの本にもありました。記事には書いてないと思いますが、本の中にあったはずです。うろ覚えですが、セミナーとか講演で「これが良かった。こう選んだ」というと、その良かったり選んだ方が「正解」だと考えてしまう思考です。もちろん、それはある人がいてその人のバックグラウンドであり考え方や性格がありその仕事があり状況がありそこにたどり着いただけであってそれを考えずに、選択状況を取り出して「こっち」か「あっち」を選んで正解として覚えるのはかなり筋が悪いという感じがします。

一方でじゃあそういう教科書的アプローチが実は有効であるというのもあるはずです。例えば法律です。法律にあるから、根拠や論拠があるから、そういうルールや条例等に則る場合はやはりこの「中に探す」アプローチは異端児過ぎます。

読者なら分かると思いますが、ここで言いたいのは教科書的アプローチが絶対駄目ということではないです。著者も、そんなことはいってなくて、「履歴書の話したら見せて」ってそれ自分で考えてないでしょ。という話だけです。もちろん自分で考えて「見せて」というなら、その考えを述べてみたらというだけです。納得出来れば見せるでしょうし、微妙なら見せないとかもありえます。

それらを踏まえた上で、これは色々考え方があるとは思いつつ、正解がないことをやり続ける、つまりアイデアを考える、それを提案する、仕事にするということは正解がないことの連続です。というか合った試しがない。こうなると何が起きるか。いくつか書いた気がしますが、クライアントが良いという評価が正解となります。これって、クライアント=外かもしれないですが、面白いのは、クライアントが見えてないところを拾ってきて提案したら通った場合それってどこに正解はあったのかということです。それこそが考えた成果かもしれないですが、そういうのは象徴的であって、レアケースかもしれません。

少なくとも言えるのは向き不向きは考え方というのはリンクしていて、正解がないものへはそれに対してチャレンジしていきたい人がやったほうがいいです。ストレスが過度にあるとか無理と思う人は辞めたほうがいい。逆もまた然りです。

ただ著者的には、本書的には、そういう向き不向きもものすごく駄目なら駄目かもしれないけど、大体向いている仕事なんて妄想というか想像でしかなくやってみないと分からないし、しかもやってみたらすぐそれで判断できるかというとやっていたら「わかった」がおきて「面白い」ともなるので、なんともいえないということが書かれていたりします。

絶対はない、くらいがあるほうが健全ですね。

身近に問題解決がない話

好きと憧れの混同という話です。コンサルティングファームで働きたいというけれど、それは憧れであって、好きではないよねという下りです。

(前略)

例えば「問題の解決策を考えるのが好き」と主張して、経営コンサルティング会社への転職を希望する方は大変多いのですが、そういう方に、では最近考えている問題を取り上げて、どのような解決策が適切なのか、あなたの考えを教えてください、と振ってみると、まともな回答が返ってこないケースがままあります。

同タイトル、p.95より

この手の話はここではじめて聞かずに外でも聞いたことがあるはずです。例えば就職活動をした人なら、自己分析をしたりして好きってなんだ、仕事ってなんだという問いをしたはずです。

旅行会社というのがあります。昨今はツアー旅行の企画自体も変わりつつあるはずですが、旅行が好きだから旅行会社へいく。なんか通りそうですが、少しでも分かる人なら「旅行会社は仕事でやるわけだろ。旅行しにいくでわけではないのはわかってるよね?」ということを聞いてくるはずです(笑)仮に「旅行好きだから、仕事も旅行でいいだろう」は危うい。

仕事とは何かということですよね。旅行会社の仕事は、仮に営業であると商品を売るわけです。商品とは?旅行会社によりますが、仮に旅行ツアー企画を旅行に慣れてない人に提案してそれを買ってもらうスタンダードっぽいものがあるとします。すると旅行代理店であったりそういうツアーを売れる店や法人にアタックすることとなります。富裕層などであればもっと違うアプローチかもしれませんし、直接お伺いするのかもしれない。分からないですが、「旅行が好き」でそれをカバーできる、その仕事をしてもいいと思えるかどうかだけですよね。少なくとも「北海道って楽しいしいいよね」ということでは選べないはずです。

北海道にしかも皮肉なことに行けないかもしれない(笑)添乗員となって行けるからいいという話も、添乗員は旅行を楽しむのでなく、お客さんをもてなすのであり、色々な嫌な客(笑)を対応しつつ、とはいえお客なので頭ごなしには言えないので、それらをケアしつつ。ザ・サービス業という感じですね。それは北海道へいって「ああ、のんびりしていいなあ。ご飯うまいなあ」ということでは決してない。それは客です。仕事なら「ああ、また北海道でコンビニおにぎりか!」みたいなことになりかねないわけです。

著者はさらに続けて、例えば問題解決が愛しているレベルでやっていれば、仕事から離れても勝手に自分でやっているよねという話をしています。これはその通りで、それを「期待する」のはどうかと思いつつも、好きとはそういうことかなと。仕事の時はそれが「好き」です、他は嫌いですってのはちょっと不自然すぎる。このあたりは「仕事のONOFF」とか切り分けみたいな話と重なってきます。これも向き不向きというか考え方によりけりなんですよね。

例えばアイデアが好きとかビジネスアイデアを考えるのが好きだからみたいな話ってあまり聞かないのですが(笑)仮にそういう方がいたとして、では「信号待ちの時にどうその時間を過ごすと面白いか」を考えてみようといったら「そこでネタにもよるのですが、数時間は何もなしで話せるレベル」でないと、まあ「好きですよね」とは言えないということです。

ここで間違えてほしくないのはそういう好きになりたいのかどうかもあります。世の中には「好きが分からない」人も結構います。そういう時、それって好きアプローチで探すから、そういうことを「言われている」からとなるのですが、ぶっちゃけ外野の話であって、自分が「そういう好き嫌いでない」ところで、「こういうことをやると喜ばれたからそこで働きたい」と考えていればいいのではないかと思ったりします。こういう話の時になぜか「好き=仕事にするべき」とするのはやりすぎだなと。

ここでいえるのは、好きって言葉は誰でも言えちゃうのですが、好きのレベルは人それぞれです。という意味でリトマス試験紙的な見極めとして、指標はないのですが、例えばレベルとして「該当するものについて1時間くらい何も見ずに話せる」くらいでないと好きとは言い難いかもしれません。15分じゃ駄目ですか?みたいなことを読者が言うとは思いませんがそれこそ上の話で書いた考えてない証拠ですよね。時間の長さでなく、自分でやっていることが自ずとあるよね、それをちゃんと気づいてまとめるというか、言えればいいというのが本質です。

他にもモチベーションとして憧れでは続かないはずです。憧れていたからという人はいて結果を出す人がいてもそれに惑わされてはいけません(笑)憧れだけではなく、憧れ+好きがある人が「憧れていたから」ということを言うわけですから。その人を攻めるのも本末転倒ですが、その点きちっと分けて理解していくのが大事ですね。

この話は漫画家になる話みたいなのものを思い出したわけです。漫画編集者山中さんの話です。

レアケースはあるとは思いつつも、この漫画がいってるのは「漫画との近さ」であり、「漫画を描くことが日常」であると言っています。ここでいう日常は、「漫画家」という仕事があれば漫画が描けるということではないです。ここで思い込みや勘違いとしては「漫画家だから漫画を描ける」のはある種憧れでしょう。実際は漫画を日々「仕事でなくても描く」からこそ、漫画的視点や世界観が生まれていって、仕事になる。漫画を日常的に描いている人は、仕事で描いてなくて、アニメを見たから描いてみるとか、描いている作品があるから続きを描くとか、面白いことがあったので文章よりも漫画で描いている、とにかく描いているんですね。

ここでポイントは「描こう」という意識や意図、または決意があればあるほど出来ないはずです。決意というのが最も強い心の現れでしょう。「よし漫画を描こう!」といって決意して描けるならばいいのですが(笑)掛けないはずです。意識が強いあまりに1日いや、15分で終わるかもしれない。それって貴重なガソリンを一気に使って移動したけどそれで終わったという感じです。もっといえば、日常で書いている人は「ガソリン」が無限というか、勝手に生まれてくるので「じゃあ溜まってるし使うか」くらいを無意識でやっている。これが描くのに近いってことでしょう。

もちろん、漫画家という仕事をするには、漫画を描いているだけで自動的になれることはないでしょう。ただ、この身近にある、特別でない、大したことでないという感覚が「漫画」にないと結構きついのではないか。これが好きということです。くどいですが、漫画を1日一回も描かないと漫画になれませんかという質問を子どもがするならかわいいものですが、大人がしちゃうと考えてないってことになりかねません。まあといって質問をしなくなるのも微妙なので、ここでも考えていきましょうってことになります(笑)

大したことがないというのは、労せずリターンがあるとか、呼吸するようにとか、解像度が勝手に高くなる、ついつい勝手に考えてしまう。これらって行動習慣もあるので、それらが複合的になっているはずです。

やや自己啓発的であるものの、あやえもんさんの記事では、言葉が強いですが「ゴミ」と表現しています。

ゴミとは客観的な価値がないということでなく、「あなたにとってのゴミ」つまり、上でいう「大したことない」と同様です。自分にとって、問題解決も、漫画も、アイデアを出すことも、大したことじゃない、ゴミだ!価値ないよねーくらいで肯定しすぎると駄目ですけど(笑)、価値転換のタイミングがあるはずです。意外に喜んでくれる人がいるとか、君のそのやり方いいよねとかとか。

身近にあることって何か。大したことないなあということを探すと意外なヒントになるかと思います。それらを思い出した話でした。

子どもに褒美を与えて練習させてはいけない

音楽家の鉄則のようで、これは外部の報酬が内発的なモチベーションを壊すということです。音楽家の話は知らなかったのでそうなんだと思いつつ、こういった報酬でモチベを壊す(むしろ報酬が上げると考える人が多いかもしれませんが)方が興味深かったです。

(前略)例えば音楽の世界では、子どもに褒美をあげて練習をさせてはならない、という鉄則があります。褒美で釣って練習させると、その子自身が持っている「楽器に向き合う」「上手になるのが楽しい」という内発的な動機を麻痺させてしまう恐れがあるからです。

同タイトル、P.206より、太字は原文通り

余談ですが、僕も小学生の時にピアノ教室でピアノをやっていたことがあります。練習が嫌で嫌で、またピアノのレッスンもめちゃくちゃ嫌でした。結局は途中で辞めることになるのですが、練習したりとかそういうのが楽しいって感じはあまりなかったですね。そういうところで逆に音楽を演奏するとかってのがある種楽しいという感じには僕の中ではなってないです。音楽自体は嫌いじゃないんですが(笑)

さて、その一つとして紹介されているのが、「洋服屋と悪童」の話です。簡単にいうと、洋服屋が悪童に野次を飛ばされて悩んでいて、その悪童に野次ったらお金を出すと。喜んだ悪童はもっと野次を飛ばすものの、時間が経つにつれてもらうお金が減っていったのでもう野次を飛ばすのが見合わないとなってやめてしまうという話です。

自分で野次を出したかったという内発的動機づけがあったのに、報酬により外部の動機づけ=お金がもらえるからやる、ことに転換し、それにより、そのお金が減っていくので「やめよう」となっていくと。この時減ったら「本来俺らは野次りたくてやってたのではないか」と気づけばまたやじるのですけどね(笑)

この話自体は出典等は分からないのですが、例えばこんなブログで書かれていたりします。なるほどなあと。

勉強の動機付け(教育リテラシー)

ここでは、第一次大戦頃で、かつ米国南部で、ユダヤ人排斥が強いエリアであって、その時にユダヤ人が洋服の仕立て屋を作ったところ、少年がユダヤ人!と野次ってきたという話となっています。

金額はどうでもいいともいえますが、10セント最初もらえたので、5セントになり、1セントになって、文句をいうのはやはり興味深いところです。

先の大したことない話と真逆かもしれませんが、思考実験として、大したことないという内発的動機づけが強いものに対して「漫画1ページ100円」として「大したことないのに買い取ってくれるから」といって、喜んだ。その後、「50円、10円」になって、モチベが激減して辞めるとかはもしかしたらあるかもしれませんね。

これは低報酬が壊すというよりも、報酬が動機づけを転換させたというのがポイントですから、あくまで大したことがないというのに、報酬価値をつけてそこで「稼ぐ」と難しいかのかもしれません。これはあやえもさんが詳しく書いているところですが「そのゴミ自体を売る」とうまくいかなくて、そこから発生したり出来てくるアウトプットなど加工したもののほうが良い気がします。

ここはまだまだ検証中ですが、アイデア自体も思いついたものをそのまま売るとか買い取るというのもありますが、それ自体量産しても、見合う価値転換や価値にしあげるのは、別視点が要ります。とはいえ、その内発的動機である「このアイデアをこうしたらもっと面白くなる」という時、実際にそれを依頼されなくてもやってしまえるわけで、そのやってしまったものを出していくと。そうすると、永遠にできるし、かつここでいうコアな内発的動機にアクセスされないためにいけるのかなと。

ある種ルータなどのファイアウォールみたいなものです。あくまでルータでインターネットを出来るけど、そのつながっているPCにはアクセスできないようにする。内発的動機から価値を産み出すものは出来るけど、その内発的動機そのものは報酬等に変換しないということです。

このあたりは心理の動きなので簡単ではないですが、おそらく野次をしたい→野次というアウトプットとするならば、野次自体を報酬化することで、野次をしたいものも薄まってしまった。そうであれば、漫画にしてみたい→漫画にした、漫画をお金にした、漫画のやる気がなくなったも考えられます。アイデアもアイデアを出したい→アイデアを考えた、アイデアにお金がついた、やる気がなくなったということです。

ここで立ち止まってみたいのは、漫画を描きたいそのもので漫画をしているかということですよね。正確にいけば、漫画を大したことないけど描いていて、その描いたものは適当なメモであはは楽しいくらいで。でも今度はもっと違う切り口で描いてみる。デジタルから手書きから、ナプキンの上に描いてみるとか、色々遊んでみよう。という中で、その手書きゆるゆるなものが評価されてお金になったら、それは「漫画を描いている」意識やモチベーションを侵してない気がします。

音楽家の鉄則も、子どもにという話であるので、また練習という点もあります。つまり、仕事としてその報酬を与えるとは別であって、例えば練習して音楽家になってそれでお金をもらうのは当然という教育もあるはずですから、練習であるとか、子どもであるということで、仕事としてやると「奪われる」のは、その設計や仕組みが弱いのかもしれません。趣味でやることを仕事にすると趣味でなくなるみたいな話もありますが、これがうまくいく、つまり趣味を仕事に出来る人は結構その趣味と仕事のバランスやここでいう設計や仕組み、モチベの維持を相当作り上げている(または勝手に)気がします。モチベこそ最強ということを知っているからこそ、大したことない機関で回せるというところが最大のライフハックとも言えるからですね。

付随する業務は基本無料はきつい

これは電通での話として、営業をしていた著者がビジネスとして仕事として当然メディアの広告枠を広告主に売ってその手数料を得るのが仕事としています。それは分かるのですが、著者が電通を辞めた理由として、仕事への評価が欲しいということが書かれています。

意味が分からないと思っていたのですが、どうもそういう手数料以外は、今はどうか分かりませんが、基本無料のようです。それを著者は、賽の河原のようだ(これは救われるからまだまし)といい、シューシポスの岩とも表現しています。終わりのない徒労を意味しているようです。

つまり、掲載手数料以外が「おまけ」という仕事になっている、認識がそうだということです。

これらをもって、著者はこのように指摘しています。

(前略)

 広告代理店におけるサービスはまさにこれと同じで、終わりがありません。なぜ終わりがないかというと、「頭脳労働を無料で提供する」という構造にになっているからです。

 無料であっても提供するものが形ある商品であれば、それを届ければとにかく一度仕事は終わります。ところが頭脳労働というのは明確な納品がない上、会社であろうと家であろうと飲み会の席上であろうと、どこでも仕事することが可能です。

同タイトル、P.214より、太字は原文通り

働く部署やクライアントなどの違いがあれど、そのように感じたということは結構辛いですよね。仕事って終わるし、プロジェクトは終わるからこそ出来るというのは大きいですから。

アイデアを考える、新規企画を考える、何か考えてよ。これらの見えない「概念」「アイデア」を無料と捉える人は多いです。なぜなら誰もがそれは出来るからです。

例えば日本人にとって日本語を話せるのは価値というよりも、普通です。だから「日本人に日本語を話せるから教えられる」は価値になりづらいのと同様、「アイデアを出すのは誰でも出来るからアイデアって価値がない」というような捉え方です。

ではターゲットを外国人に変えれば、コミュニケーション方法として英語を話せつつは必須ですが日本語を習いたい人にとっては価値です。またアイデアも出ない人には価値です。他にも、細かいですが、日本語におけるビジネスでの使い方を知りたい人はそれが大きな価値になるし、アニメや漫画の日本語の意味をもっと知りたいという人もそれが価値です。アイデアにおいては、ビジネスアイデアが欲しいけど浮かばない人には価値ですし、アイデアの出し方を知りたい人にもそれを出せる考え方は価値となります。

何が言いたいかというと、頭脳労働を無料で提供するというのは、サービスとして見られていない、むしろ「サービス=無料」という概念となっているわけですが、その構造や仕組みにいれば無料となります。そこから脱するしかなく、またそういう市場でつまりアイデアが無料の市場やフィールドでやってはいけないとなります。ただこれはアイデア自体が価値があると言ってくれる人をみつけるか、買ってくれるとか何か手応えが欲しいところですよね。

もっとも仕事として勤め人として評価という意味では、どれだけ考えてもやってもそこは「対価」での評価はないので、あくまで広告掲載というところのみとなる。これをどう考えるかとなります。

僕としては知的生産やそこでの対価をいただくのは当たり前という感覚なので、広告代理店的な考えとはいえ、付随するものが無料になってしまうのはショックというか、辛いなあという感想です。

逆にいえば、アイデアにお金を出せるか問題も出てきて、結果的にアイデアは磨かれて企画や新規ビジネスプランになるとか、対象であるお客さんが欲しいものに仕上げていく必要があるのは確かです。それを手抜いて「思いつきが売れる」と考えるのはいささか甘いのですが、一方でそういう夢がないわけでもないくらいがいい認知かもしれません。そういう枠で考えながら、どうすればアイデア価値を高められるかというのがシゴクリ、僕のプロジェクトといってもいいわけですから。

一方で掲載できればゴールで他は無料でやっても全然オッケーというのはビジネス的にはありかもですが、そこで働く人が必死で考えたものややってきたことがおまけっぽくなってしまうのはどうなのかともいえます。例えば提案を通すことで必死になって通ったものの、通すから他のアウトプットは無料でとなるとまあ話が違うことになります。

考えること、資料を作ること、全て時間を使うし、構造や仕組みで稼いでない(自分が動かなくても)のであれば、行動自体を何か特定の条件や依頼でやることが「価値」です。そこをどう考えるか。非常に考えさせられました。

思考回路の焼き直しは面白い

最後に紹介するのは思考回路の焼き直しという話。著者が、広告代理店→コンサルティングファームへ行った時に、上司と12時間くらい詰めて話した後に得たというものです。つまり、広告代理店とコンサルティングファームは似てるようで違うと。

ざっとで書いてしまいますが、まずプランニングの精度が前者ではきっちりで長め、コンサルだと短時間でラフだけどそこそこのもの。コンサルのアウトプットがざっくりだと駄目なんでしょうけど、とはいえ時間かけて詰めるというよりも、短い時間でいい感じのものが求められる。これだけでも同じような資料作成なり、リサーチでも全然違ってきそうです。

実現可能性は前者はやれて当然というかやれないなら意味がないのできちっと固めてという感じで、コンサルはざっくりの「仮定」ありきでという感じ。

最後の権威であるオーソリティの扱いは面白くて、前者は使っていく感じで、後者はそんなことはけしからんという感じです。

ふと思ったのは、コンサルティングとは結果的に知的生産のアウトプットの質が求められるので、それを外部が言ってるからでは弱いんですね。なるほどなあと。

そしてここで言いたかったのは、思考回路の焼き直しです。つまり上の3点が違っている発見はいいとして、広告代理店で「思考回路」が出来ていたわけですね。その思考回路が回路Aならば、コンサルでは回路Bが必要。となると、思考回路を新規で作る(焼き直す)必要がある。実際に回路Aで応用が効く、使えるものがあるというのはあるんでしょうが、全然違う。むしろ苦労というか、その「回路A」にこだわると厳しい。

そんな話だったと思いますが、非常に面白いですね。似ているけど、全然違う仕事って沢山あると思うので「肩書」が一緒だからいけるでしょうとか、業界の作法さえ覚えればとかって軽く考えて痛い目にあうパターンかもしれません。そういう意味でもやってみないと分からないということかもしれませんね。

だからこそ、基本メッセージの2つがポイント

まとめ的なものはないんですが、結局本書は、冒頭で紹介したように、計画通りとかいくものではないし、試行錯誤して考えていくということをどう著者が導いたか、考えたかということになります。という意味で本文は脚注というのは言い得て妙です。

このメッセージで励まされる人は多いのではないでしょうか。もちろん、これって何かになりたい人を否定するわけじゃないのですが、とはいえなりたいものと何をやりたいかは違うわけで、そのあたりの感覚やどう考えるかを自分でやってみるといいということになりそうです。

もっといってしまえば、一人ひとり考え方は違うし、やり方は違うのだけど、適当にやればいいわけでもないけど、とはいえ適当さも大事でというふわっとした感じにもなります。とはいえ、哲学的にいえば、結局自分で自分の人生を考え、仕事を選ぶ、作るなどを通して考えていく。まさに哲学っぽいなあという感じがしました。

ゴールとか、正解とか、これがどうだってのはないんです。こうしろ、ああしろって本じゃありません。私はこう考えた、あなたはどうだという著者からの問いかけということになります。問いかけをうけた読者であるあなたは、考えてしまうはずです。もちろん考えなくていけるかもしれませんが、そこは自分と向き合うことになるでしょう。そこから逃げて何か出来ることはほぼないと僕も思っています。圧倒的に逃げれば何か見えるかもしれませんが、圧倒的に逃げるって最早プロですからそこまで逃げ切れないのが自分でもあり、多くの人じゃないかと思います。

これは今の時代がとりわけ不安定だからとかそういうことでもなく(多少はあっても)、結局決められたゴールがあるほうが生きやすいと考える人が多いか、そうでないほうがいいのか、そういう社会に揺り戻しだったり、長期的にみれば平均値になっていくみたいな感じもしました。

どうすれば自分の仕事を高めたり、転職も含めて何かやりたい仕事につけるか、巡り会えるのか。そういう人は読んで損はないかもしれません。また仕事について深めたい人もいいのではないでしょうか。

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