イドコロを増やして生き抜いていく

今回は軽めというか、イドコロ本を読んでいて面白かったのでその感想を書きつつ、どうやって生きていくかみたいな話を書いてみます。

イドコロを増やす

本書の主張をざっくり書けば、副題にあるような「乱世」が今ということ。つまり情報は多数ある中で、核家族で育った世代はわりと関係性自体の構築が昔のようでなく、自ら作っていく必要がある。例えばシェアハウス型でのコミュニティ=疑似家族というとオドロオドロシイのだけど、そういうのが「必要」としてあるのが今なんじゃないかみたいな立ち位置。別に本書がそれをしろってことではなく、時代の捉え方として、これはまあ乱世といっていい。

そういうところで、言われたことや言われていることに対してそのままでいると、免疫がないということだが、まあ「正気」ではいられないわけだ。そういう免疫とは肉体や身体のいわゆる生理学的な話ではなく、思考に対しても適用できるという。

分かりやすいのは、友人と何気ない話をして心休まるとか穏やかになれるのもあるが、そうでない例えば本書では銭湯のような一言二言話すか話さないかみたいな関係性や場でも、遠いとか関わりがそこまでないからこその話もできると説く。

イドコロは、居場所ではなく(居場所は重すぎる)、自然系と獲得系に大まかに分かれるという。自然系は家族や友人であったり、会社の同僚みたいにわりとコミットメントやすぐに変えるのが難しいもの。ただしこれらはじわじわと生活にあるわけで、変えがたいから変えなくていいものでもないだろう。獲得系は趣味や企画や、散歩や銭湯や行きつけのお店など様々なもの。これらは短期で出来やすいが、ただ中長期にならないものもある。例えばイベントなどは3年くらいという話もあるが、この感覚は肌感としてもそうだろうな思ったり。

それでこういうイドコロが偏っていればやはり免疫も弱くなる。というか、対応がしづらいといえる。人間関係にちょっと課題がある時に、例えばそれを会社だとして、会社だけではないといわれてもその人にとっては他のイドコロがないからきつくなる。精神をやられるというのは多分そういう時もあるだろう。だからこそ、サードプレイスではないけど、その大小や数はその人によるがそういうイドコロを作っていって、生き抜こうというのが本書だと捉えた。

だからこそ、イドコロはある程度あったほうがいい。ただそれがありすぎてもよく分からなくなるので、あくまで本書では5-10個くらいという目安を示しているが、多分これくらいで、ライフスタイルや生きる時期によって変動するのが健全な感じもする。

自分のイドコロを見直してみる

さて本書を読んで面白かったのはやはり、イドコロを定義して、それらをフラットだったり、俎上に載せる感じで可視化したことだと思う。多分だが、家族自体の関係性や家族という場つまりイドコロだが、行きつけの店の店主との会話やその店自体の場つまりこれもイドコロだが、イドコロを比較せよということでもない。

またイドコロのPDCAを回せとか(笑)イドコロの優先順位や緊急度を付けてどうこうせよ(笑)とかでもない。これらはあくまでどちらもイドコロでありどちらがいいとか悪いとかではない。また自然系とか獲得系を比較するのもナンセンスだとも思う。とはいえ、自分が無理してそこにいることもないので、自然系の見直しはややコストはかかるが、あきらかに変えていくならそこも見直しがいるのだろう。例えば、明らかに微妙な関係性の人がいたり、かかわりが微妙な人はやはり距離を置きたいものだ。その時思うのは、距離を置く場合は他のイドコロへの関係度を増やすことになると思う。つまり、イドコロが1しかなく、その微妙な人がその1にいたら、他に行くことができない。つまり相対的に他のイドコロへいくことで、その微妙なイドコロへいく頻度を減らす関わる回数を減らすのが筋が良い作戦だと僕は思う。だからこそ、イドコロは複数はほしいという感じがする

さて、そういう形で自分のイドコロを少し見直してみた。とはいえそれらをどうこうするというよりも、まずは出してみるのが良いんじゃないかと思う。その上でどうかというのもある。例えば自分が色々と誰かの刺激を得たいのに、イドコロが固定されていれば刺激にはなりづらいかもしれない。とはいえ増やしすぎてなんだか分からないのであればそれもやりすぎだ。その最適解はやはり自分で考えてやるしかないのであって正解はない。

自然系イドコロ

僕にとっては家族もだがわりとドライというかまあ人によるのだが、あまり儀式的なことは重視していない。とはいえ、だから関わらないわけではない。その匙加減が難しいというか、人によるし、家族による。とはいえ、自分の意見はあってどう考えるか。考えがないという考えとして、基本的にそこは前提としていると思う。

これは友人と作ったイドコロがあるが、これらは獲得系ではあるものの、親しい友人であれば自然系となる。

感覚的にはこのイドコロが僕にはいくつかあって、話せる人がいるのが多分恵まれているというか、単に幸せな気がした。

よって、この自然系イドコロにとくに不満がなるわけではないので、より獲得系を増やしていったり、いじっていくことはできるのかなというところがある。

獲得系イドコロ

これは例えばワークショップ企画のようなものを、2010年頃から意識していて、色々変わってきている。ただ賞味期限というか、関係性があるので、つまり友人らの意識も変わるし、やることも変わるので、3年くらいが限度な気がする。そうでないことがあってもいいが、ある種のテーマ性を持ってワークショップをある程度やるとまあ良い意味で飽きる。飽きるとは、得たことも多くあるので、そこでプロジェクトを閉じるのが賢明だと思う。僕の場合は自然解散が多い。

ぱっと思いつくところでは、自然系と重なる感じもあるが、

  • アイデア仲間
  • プロジェクト仲間

があり、これらはややテーマは異なるがそれぞれの信頼性というか、関わりがあって緩やかにオンラインでつながっている。当然話したいなら話せるというもの。また自然系に近いというのは関係性が高い、中長期の関わり3年を超えているので、自然感がある。

その余力ということでもないが、以前はワークショップであったり色々やってきたが、コミュニティみたいなのを意識するとあまりうまくいかないか、オンラインではそこまで成功体験がない。よって、ここは焦らず粘っていくという感じもする。

イドコロとはややずれるが、自分の中ではこのブログもある種のアウトプットではあるが、全く読まれてないわけではない(笑)ので、少しずつでもいいのでこういう考えがあってもいいのだというような、適した人と関わるというイドコロ的なブログであったほうがいいのだろうなという感じはある。コミュニティというと重いので、イドコロくらいな感じが嬉しい。

他にも今は顔を出してないものの、いくつかのプロジェクトがあったりなかったりする。そういうものを少し前はかなり増やしていたが、今はかなり減らしていて、集中していた時期だったかもしれない。ただ本書を読んで少し増やしたり、イドコロを意識的に作るのもいいなあと思っていて、そこはうまくやっていきたいところ。

このイドコロの数や質はもうアイデア次第なので、どうやるかが面白いところなので、ぜひ読者諸賢も工夫して面白いものを立ち上げるなり、ハードルが高ければどこかに一緒に潜り込んだり、運営をしてみたり色々とやり方はあると思う。

とはいえ無理しないのが大事

例えばイドコロが5個あって、3個しかないという人がいるとする。5個あれば幸せか3個あれば幸せではないかはまあ話がナンセンスだ。数ではない。幸せならそれでいい。

数を増やしたところで逆にストレスになるなら意味がない。緩やかなというのがポイントで、そういう関わり方もあるというのが良いともう。

具体的に考えてみたいが、これは解像度がかなりいると思っている。それは「イドコロ」ではないとか、そうだというのも解像度によって変わりそうだ。あと、関係性を作るのがあまりうまくない人だと、やはりイドコロとして人を介在するものが少なくなると思うし、ハブ的な人は逆にイドコロが多すぎて「イドコロ」として認識してないと思う。その場合は人単位やプロジェクト単位で芋づる式にとらえている人が多いのだと思う。

良さげなお店を見つけたり、たまに行く

住んでいるところの周りに良さげなお店を見つけられるかは、大したことがない話に見えてかなり大事だと思う。なぜなら応援したい店があるとか、たまにいくというところでそこの場が好きならやはり活力になる。分類すれば獲得系イドコロになる。

当然自分が苦手とか好きでない場もあるだろうから、そこは距離を置いて、そうでないところ、つまり自分がいいなという人や店や場を応援することだ。

例えば少し行ったところにあるレストランというか飲食店があるのだが、そこは値頃だけど上手いというのがある。しょっちゅういくわけではないが、年に何回かは行く。ある種の遠足みたいな感じで楽しめる。日常に接する場でもないのでそれはそれで面白いというようなものだ。

他にも個人のやっているお店とか、最近は移動販売の人で気に入ったところなら2回以上、つまりリピートしているところもある。そういうものは一過性であったり、商売的な面もあるが、やはり大事だと思う。

趣味を通した集まりなど

僕なら読書などがあるので、読書会はわりと関わりやすい。昔は主催していたこともあるがこれもまあ疲れる面もあるので、参加者としてやるのがわりと最適といえる。その代わり主催者にリスペクトしつつとか、あとは場に貢献する感は意識している。ただ楽しめないと意味がないので犠牲感はもちろんない。

僕のシゴト上、企画もの、つまりある種プロジェクトがあってそこに参加してということは比較的やってきた方だと思う。とはいえこれらはリソースもかかるし、コミットメントも求められるので正直数でなく、誰と何をやるか、どこまでやるか、どうやるかで、人との関係性が大事になる。

これもたくさんやればいいわけではないが、とはいえ全くしないとなまってくるので、カンに近いが、「なんかなまっていたり、刺激が少ないな」と思ったらわりと攻めるタイプ。つまり獲得系イドコロを作るというのもある。

例えば、読書でも古書、つまり古本を売るようなイベントが昔好きだったり、関わりがあった。それもまだ余韻はあるが、さすがに出品企画とかイベント運営に関わるのは辛いというかそこまでやる気がない。だから参加者としてやるかというテンション。こういうのは自分の心の声や状態、無理しないというのがいい。ずれるとなんか搾取されたり、徒労に終わるからだ(笑)とはいえ最初から上手くコントロールしていい感じに出来るなんてことはないので、これらもやはり試していってなれるとか、適切な判断をしていくのも良さそう。

ただ最初から損得で考えたり仕事のようにしては駄目なのだろうというのは分かる気がする。

というわけで、少し振り返ってみてやはり適切なイドコロだったり、関わる人があるととても楽しい。QOLが上がるので、適切な場を持つのもいいし、参加もいいし、どちらでもないものでもいいので、あるといいのだろうと感じる。

イドコロを増やす時のパラドックス

ある種の矛盾でもあるが、例えば仕事でも経験がないと未経験では相手にされないみたいなことがある。これはある種正しいが、経験をどう積むか、経験というのは一体なにかを分解していくことである程度見えてくることがある。

ここでイドコロについては、いきなりイドコロだ!といって企画しても転倒するし、挫折してもう二度とやるかとなってしまう。よって、親しい人と「やってみたらいいとか、面白いよねこれやってみるか」くらいのノリでやってみてはどうか。またはそれくらいにならないなら無理してやらないとか。

この感覚は自分でやるというのでなく、誰かに「こんなことを考えているのだけど」と話してみると良いと思う。それで壁打ちして固めていくのがいいと思う。

最初は誰でも初心者なので、イドコロなんて獲得は大変だと思っているとまあ確かにしんどいというか、ハードルが高い。カンタンだとも思えないのであれば、趣味とか面白そうとか、なんか気になるというところで、怪しくないところをうまーく見つけて探していくと。面白いことに、怪しい人は怪しい人を集めるし、そうでない面白い人は面白い人を集める。これはもう決まっているので、最初からうまくやるのでなく、外さないとか、やばいとおもったら撤退する常に退路を用意していくのが良いと思う。

別にそれで人生をかけてとかではない。様々な人と場をみていくと、いかに自分の考えが小さいとか、偏っていることが分かる。というかその連続なので、柔軟にイドコロを作りつつ、生きていくのがやはりいいなと感じた。

というわけで、イドコロを何か探している人はおすすめの本でもある。ただ、別にこうすればいいって本ではない、ノウハウではないので、感覚として自分で考える刺激やヒント、参考にはなると思うので、イドコロの把握やメンテナンスやあり方は色々考えても良いと思う。

筆者プロフィール

シゴトクリエイター 大橋 弘宜
シゴトクリエイター 大橋 弘宜
「シゴクリ」運営者。アイデアの力でお客様に貢献するゼロイチ大好きアイデアマン。ビジネスアイデア相談実績等は200超を超える。好きな言葉は三方良し。詳しい自己紹介仕事実績も合わせてご覧ください。お仕事メニューお問い合わせはお気軽にどうぞ。

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