他人への批判には「嫉妬」が込められている

シゴトクリエイターの大橋です。

少し前ですが、批判ということをする場合に、嫉妬がそこに込められているケースがあるよねという話を見かけました。実際にその通りなのですが、批判する側としては多くは「へー」で放って置けるのですが、火の粉が飛んできたりしたら払いたいし、あとそれよりも嫉妬はあるだろうなあというのがあります。

例えば自分がうまくいってる時に、あまり何か言われても気にならないけれど、うまくいってないと他人を見て何かいいたくなるものです(笑)これはもうしょうがない。僕も分かります。僕は神じゃないです。

ただそれをそのままやっちゃったり、ただの嫉妬だと何かそのままで芸がない感じですね。もちろん発言や思想は自由なのですがそれを今では簡単に発信できるようになってしまったわけですね。それがいいこともあれば悪いこともある。難しいものです。そのあたり今回は考えてみました。

単純な批判はあり得るか?

まず人の批判についてです。自分の批判は建設的なことも多いのでスルーするとして、人を批判する時ってあります。その場合批判ってよりよくしていく意味もあるのですが、多くは単に非難で悪いところいってるだけのような印象です。

批判と非難の違いは言葉というよりも、ゴールや狙いが違っていて、例えば研究であれば批判的な意見を述べることでより発展させるとか、ダメ出しなのですがそれって駄目なところをつついて改善していく感じですね。これも万能でなく「そんなこと言われてもなあ」で終わることもあるでしょう。改善していけば完璧という考えもまた微妙なのでそのあたりバランスになりそうです。

少なくとも、僕が誰かを批判する時単純な批判として、相手に関心がないならやらない気がします。心理的に嫌だとしても、相手に関心があることで批判が成立するし、その時間が無駄ならスルーされる、というかするのかなと思います。

単純な批判はあり得る。ただ問題はそういう単純に相手に良くなって欲しいみたいなことも、相手によったりするのでなんともですね。このあたりはコミュニケーションの話です。

嫉妬は批判にどう含まれるか

批判をする時、とくに自分がうまくいってないけど他人がうまくいっている場合において、大体嫉妬です(笑)嫉妬というと悪いイメージですが「うまくいっていていいなあ」は悪い感情ではないでしょう。あこがれとかは悪くないからですね。ただあまりモチベーションにならないというか、僕はあまりエネルギーになりません。なぜなら他人は他人で、自分は自分だからです。

引いてみれば、自分のことに集中できていれば他人は気になりません。もちろん常人を超える批判を浴びるようであれば「おれ何か悪いことしたのかな」と弱気になりますし凹むでしょう。相当訓練を積んでも人間はやはり弱いものだと思います。僕は打たれ弱いです(笑)

自分のことに集中できてないからこそ人が気になるのだし、人が気になってしかも成功しているように見える(実際にしてなくても、うまくいっているように見える)のであれば、批判したくなるんでしょう。批判でなく嫉妬なのですが、「私はあなたが羨ましいのだ」というとちょっと劇的なセリフ(笑)なので相手に対して認めてしまってちょっとこっ恥ずかしい。だからこそ、「相手はうまくいってるけどここが駄目だよね」という批判ライクにしてかっこよく言っている。実はそのカッコよさは1mmもないのですが、当人はそういうキライでやるしかない。

そこまで考えてしまうと切ないというか「嫉妬的批判」「批判風嫉妬」なんでもいいのですが大いに認めてあげてしまって、どうぞどうぞどうぞというのがいいかもしれませんね。

少なくとも人を批判する場合、自分がうまくいってないだけであればただの八つ当たりなので、格好悪いですよね(笑)

相手をただ褒めるだけというのはありえるか

実際に人のことを褒めたり、いいよねという人というか状態は奇跡のように感じるかもしれませんが、まず自分がうまくいっていたり、良いという感覚を持ってないと出来ないと思います。

ここがめちゃくちゃ大事なのですが、自分がうまくいっている感覚がないとか、全然駄目だと本当に思っている人はやはり人を褒められないというか素直に認めないのかなと思います。

とはいえ、ものすごい実力者が一般ピーポーの行いをめちゃくちゃ褒めるとまた怖い感じもしますが(笑)そういう例外はおいておいて、多くは自分もうまくいっているから相手を認められる。そんな感じがあります。

では上手く行ってないときはどうなるのか、またはどうすればいいか。嫉妬批判になりそうですよね。実際そうなりがちなんですが、そういう時こそ自分に集中したり、または人の行為の良いところだけ見て受け入れる。そこはかなりマッチョですが自分を受け入れたり、自分を素直に認めていくこと。そこで突破口が見えるのかなと思います。少なくとも素直さがない場合駄目とは思っていなくて、それにまさるエネルギーやナニクソと思える心があればそれがエネルギーになるかなと思うからです。

悪循環としては、うまくいってない→人がうまくっているようにみえる→人を批判する→自分何やってんだと思う→集中できてない→人を見る→うまくいってないことがより自明になる・・・エンドレスみたいな感じですよね。

一方で良い循環なら、うまくいっている→人の良いところも認められる→自分も集中できる→人をほめたり、自分も良いと思える→より成長する→どんどん成長する・・・エンドレスですね。

最初のフックがうまくかかることでどんどん成長出来る一方で、少しでもかけ間違えると全然うまくいかない、数学の二次直線でしたか、グラフの角度みたいなものですかね。係数でしたか、それが1より上であればどんどん伸びるけど、少しでも下がってたら下がると。そんなイメージです。

このとき自分がただ相手を褒めるだけとかってありえるかですが、あり得ると思います。ですが、悪循環にいる人はそれをできそうにないなあと思います。良循環であれば普通にできそうです。

そう考えると常にというか概ね、良い循環にいなければ自分も、人も適切に評価できないし、見えないなあということが言えそうです。

ただ人に対して言いたいだけの人も多い

自分がこう考えたからそういう意見を言いたいというよりも、チャンスを待っていて今がその時である!というように一斉に言う人もいます。これは態度としてはあまりよくないと思っていて、会議のときは言わないのに後で個人的に言ったり(この行為が駄目なのでなく会議の時に言えない理由があれば分かる)、または勝手に応援をする形で応援をして、困っている時は助けもしないが自分にとって良い行動をしたら「実は俺は応援してたんだ」とか言ってしまうタイプの人です。これも態度としては微妙でしょう。

というかそれは応援というよりも、結果的に寝返る(笑)だけなので主力になりえない。主体性や何かがない典型的な状態であって、応援者もでファンでもない、それはただの日和見としか言いようがないと思ったりします。

そういう人は「チャンスが来たら、自分に攻撃が当たらないところでいうだけ」になります。これはこれで賢いなんて思ったことは僕はなくて、それはやはり参加してないし、バッターボックスに立ってないのでカウントされないよねと思います。

問題はそういう遠距離攻撃が実はそれっぽく批判風にしているけど、概ね嫉妬パワーをためてある程度たまったら発散みたいな感じでしょうか。愚痴を言うなとはいいませんが、言語化するとかっていうのはちょっとレベルが低い感じがします(笑)

おわりに

今回は批判が嫉妬になりやすいというか、嫉妬しているから単なる非難が批判風に見えるみたいな話をネタにしてみました。

嫉妬や羨ましいという心理や妬むということは人間の心理にあることで撲滅することは出来ません。ですが、そもそも自分を肯定し、相手を受け入れる人にとっては多くは嫉妬というかその個性や人の在り方で「バランス」が取れると思っています。つまり、自分の在り方が人へのスタンスや社会のスタンスを決めるという当たり前のような話です。

だからこそ、「あ、自分単なる嫉妬を批判っていってるよね」という時は黙る。ただひたすら黙る(笑)悪態をついて何かっていうのも格好良い大人でもありません。それを突破する程の何かがあればまた別ですがそういう時は、嫉妬とか批判とかという次元ではない話になっていそうですね(笑)

筆者プロフィール

シゴトクリエイター 大橋 弘宜
シゴトクリエイター 大橋 弘宜
「シゴクリ」運営者。アイデアの力でお客様に貢献するゼロイチ大好きアイデアマン。ビジネスアイデア相談実績等は200超を超える。好きな言葉は三方良し。詳しい自己紹介仕事実績も合わせてご覧ください。お仕事メニューお問い合わせはお気軽にどうぞ。