近いOSでサバイブする
僕が勝手に積み上げたOSというか、考え方は僕が勝手に解釈しているのでブレやズレや本当はそうではない、みたいなことは多分にあると思う。
という一方で、そもそも主観でないものは客観なんだけど、実は主観に結局統合されるというか、自分が見たいようにしか世界は見えないみたいな哲学にたどり着いてしまう。
最近感じているのは、従来よりもより個人の主体性というか主観がトリガー(起点)となってそこから物事が動くのではないかなというところ。
それは人生のデザインというように100年時代然り、生き方や働き方と言ってもいいし、ビジネスや仕事のあり方というのもいつのまにか「アップデート」されてしまっていた、というくらい気づきにくいかもしれない。
今回の記事の着地は、「近いOS」というつまり自分が主観で感じることや自分の体験、もちろん学んだことや客観的に感じたことも含め、距離感として近いところで積み上げることが結局今はサバイブできる、またはしやすいのではないかという提案というかアイデアをアウトプットする。
これで生きながらえるという保証は当然ないんだけど、多分僕はこういうOSをアップデートしていきたいのではないかと、思ったのでメモしておこう。
※OSとはコンピュータでいうオペレーティング・システムの略が正しいけれど、ここでは全く関係がない。単なる比喩としての「自分を意味づける考え方」「自分自体」みたいな緩やかな意味だ。Google先生はさすがにガチでOSづくる人をこの記事でチョイスしないと思いつつ、友人でOSづくりみたいな人もいるから注意書きしてみた(笑)
目次
自分が興味があることが分からない問題
これについては「分からないです」という人はかなりの悩みになりがちだが、そうでない「これが好き」と言える人にとっては非常にライトに映る問題だと思う。
着地としては、そこまで深く考えなくてもいいというと「そういう態度」がイラっときてしまうパターンもあるので、アドバイスという形はとてもやりづらい。面白いのは実際に「これやりたい、これが好き」という人はその「対象物」に絶対という感じではないということ。つまり軽いのだ。
軽いからこそ軽く言ってるのだけど、「好き」といったから「それを絶対好きであり続け、人生はそれに捧げる何か」みたいな幻想を「ない」人はいだきやすいと思う。が、これって何でもそうでないものへの嫉妬かもしれない。
嫉妬なら嫉妬として大声、または割り切ってしまえば、すっきりして別なことに目が向けられるような気がする。
アドバイスをその上でするならば
自分の興味が分からないみたいなパターンに対しては、何に時間を使ったりするか。ついついやっちゃうもの。スマホいじるとかは習慣化なのでそっちじゃないなにかがいいかも。色々はぎとっていくと、残るものがあるというか。昔やってたことでもいいような。
いわゆる可処分時間として、使える時間を何に使っているかによる。それがあなたを形成する。わりとシンプルだ。ゲームやスマホに使っているのが悪いということはないのだけど(ついこないだまでDQWにハマってたりしたが、さすがにやばいと思って消したことをこっそり白状しよう)、それも限度があるというわけ。
もちろんあなたがプロゲーマーになりたいとか、エンタメはやっておかないという仕事的、または自発的な何かでコントールしているなら止めるべきじゃない。が、惰性でダラダラしているなという意識があるならそのスマホをぶん投げて(正確にはそっとそばに伏せて)みたほうがいいというところだ。
問われるというか、結局自分が何をしたいか、必要とされてるっぽいからでもいいし、切り口は様々。なんとなくも立派な動機のような。結果的に続くなら後からいくらでも理由付けは出来る。
人生の意味なんてないというところからいえば、意味は後付バンザイなので、そういう意味で常に後からでしかない。やったあとで面白いからといえばいいし、説明が面倒なら楽しいから、なんとなくとかでもいい。特段難しい理由を並べて誰かを説得させる必要があるわけでもないなら、自分が動く理由ならそんなレベルでもいいと思う。
自分が興味があることは限られるというか、1万くらいの興味とかって人間なら無理な気がする。いるかもしれないが、1日1個やったら1万日掛かる、なんか辛そうなのでそんなことはしなくていい。
自分が興味があることに人が関心があるとかニーズが有るなんてぶっちゃけ試してみないと分からない。分からないからやるのだ、試すのだという切り離しが出来てないと「分からないからやらない」となって、経験値が蓄積されない。失敗をしていって学ぶ方がラーニングが早いのではないかという印象を持っている。
この紙一重みたいな、物事への理解やズレが本当にあとで効いてくるので、小さいことといって捨てるか、それともこだわるかの目利きと判断ってもう正解はないんだなと悟ってしまっていい(笑)
自分の近くにある対象や近い感覚があなたを育てる
前置きはそれくらいにしつつ、近いOS、近さについて書いてみたい。
Webサービスを宣伝できるサービスを作って、今も運営している。気づいたら3年を経過していた。そう気づいたら・・・みたいな「近さ」が大事ということだと思う。
近くないもの、遠いものを無理にやっても多分続かない。続けるのが目的ではないはずで、近くにあることで安心や安定、または興味が勝手に生まれるというか。趣味的仕事的プライベート的なんでもいいと思う。そういう属性や何かに枠にはまるのって、自分でどうかを考えてなくて、他人や他者視点の枠で止まっているという時が大体だからだ。
客観的にいってWebサービスを宣伝したい人は常にいて、数は少ないのでニッチといってもいいだろうが、作って宣伝したい個人が多くいるということが明確になっている。そのレベルは色々あるのが面白い。洗練されたデザインだから使うかもしれないが、手作り感初心者感満載であっても信頼に足り得る何かをごまかさずにくるならありだと思ってる。それはともかく、同様の宣伝出来るサービスをあなたがはじめても持続出来ないだろう。なぜなら近くないからだ。近くにあればそれは継続を結果的に出来る。もちろん出来るケースもあるが、あなたはおそらく「近く」ないから続かないという話だ。
近いから続くが、続いたものが近くなるわけじゃない
ここがポイントなのでくどいけれどもう一度書いてみよう。「近い」から続くのであって、続いたから近くなるわけではないみたいだ。
例えば無理に「Webサービス宣伝をすれば人が集まるのではないか」(と考えてもいいけど、人がたくさんくるものではない)というのをやっても、無理している時点で辛い。自分から遠いので頑張る必要がある。
頑張ることは気合でなんとかなることもあるのだけど、気合も頑張るもメンタルも使うし何より疲れる。それが近いなら何か片手でやりながら、そういえばといって別の手で出来るくらい「近い」ならできる。気軽なのだ。遠いと、「さあやるぞ、やるぞやるぞ・・・」やれない・・・となって終わる。
異論があるかもしれない。例えば仕事も最初はワケワカメでつまんね、と思っても続けると意外に面白い。先達はそういうことかと理解したのだなと深い理解を得るなど。これも否定できないし、あるのだと思う。
一応違いをなんとなくいうと、続けると近くなるのは相当縛りがあったり、やりきれる期間とか一定の何かがあるということ。ないなら無理にやってるから辛いのだと思う。
現実的には続けるとか、好きとか、何かそういう外部の指標を言いがちなんだけど、ここで大前提としてあなたがどう思うか、心がどう反応するかだけでしかない。自分を信じて自分の心の声を聞いてみることだ。
もっといえば一昔前なら「無理してやればなんとか」みたいなのがあったかもしれない。1万歩譲ってそうなるとしても、今はもはや異なっている。それが得意な人がたくさんいて、近い人がたくさんいるから、勝負にはならない。しかも無理したところで長期の中では無理して頑張るはとても負荷が高くかつ結果になりづらい。
何かを成し遂げるイメージは凪(なぎ)
何かを成し遂げるというのは響きはカッコイイが、実際は「淡々」かどうかはおいておいて、本人は「近く」のものをやってきたら、「成し遂げたんですね!」と外部が勝手に言うだけだと思う。それくらいドライかつ客観的に捉えられる人は多分成功するパターンを知っているのだと思う。
と、少なくとも僕は思ってやっている。なぜなら本人、あなたのことだ、が日々やっていることはそれほど激変しない。毎日のスムーズかつ自然な違いを学習し、気付き、変化させていくからだ。このブログの文章が自然に変化するように自分では気づけないのだ。
だからこそ、「ある日気づいたら」というところが大事であって、それは当然「気づいたら勝手に何もしてないのになってました!」とはならない。何もしてないのにはさすがにない(笑)
何気ない動機、ゆるい動機はつよいのかもしれない
僕で言えばWebサービスを宣伝するって何気ない動機で始めたものに過ぎない。自分でプログラマとして何かやろうという気は全くないし、むしろおこがましいとすら思っている。
自信がないというよりも、単にプログラマになりたくないだけであって、アイデアがあるプログラマならいいのかもしれない。あとは単にアウトプットの一つにしか捉えてないのも興味の問題だろう。そういうところで、作ったサービスというのも開発したのか?というツッコミは出来るのだけど、それはおいておいて、何気なくやれたのは近かったからかもしれないと思いはじめた。
冒頭に言っていた「興味が軽い」とはこういうことだ。他にも興味があるから、むしろ興味が社会だから、人、人間、心理、ビジネス、デザイン、数学や理科は得意ではないものの、入り方さえ間違えなければ面白いものだと思えるし、多分思うのだろう。興味がインフレというか、どんどん増えるので、次第に興味を持ったものが薄まる、忘れる傾向にあると思う。忘れるは言い過ぎか。
挑戦する人を応援するという趣味
例えば、冷静に考えると今だから言ってるわけではないけど、最近の意識ワードは「挑戦する人を応援する」というところ。自分なりの言葉にすれば「いいアイデアですね、こうすると面白くなるかも」というポジティブなワードとなる。
否定や批判から生み出すというのもありだけど、そもそもこれは初対面でコミュニケーションをしつつ褒めていくというイメージなのでそれは論外だ。それで、そうやって何かやる人を励ますというと言い過ぎなんだけど、自分としては一人でも見てくれたとか、声をかけてくれたというのがあとでめちゃくちゃ効いてくる、と思っている。それくらい情緒的なものだと思う、人というのは。
例えばあのとき声をかけてくれたから今もやっている。これは知っている人や身内でなくても、第三者の何気ない励ましこそがバリューとなる瞬間だ。まあそれを連発するとか、必ずそうなるということはない。またそういう感謝をされたいからやっているのはやはり違う。
そう、誰かを応援するとか、励ますとは、今いったのは「直接的に届ける」ということだ。これが間接的でもいい。例えば起業アイデアを考えるのを手伝って!という仕事としてやってもいい。仕事でなくても勝手に応援してもいい(迷惑がられないようにやろう)。一期一会的にアイデアを投げつけてもいい(笑)そういうのは自由だというか、僕のアイデア次第となる。これでは「近い」かどうかは分からないだろう。僕もそう思う。
自分が充足している豊かな何かをおすそ分けする
実際は昔から、「自分がメリットになるからあなたがやってくれることで、あなたも私も嬉しい」みたいなことはした覚えがない。これは順序の問題なので、もう一度書こう。
まず自分がメリットを設定する。利益でもいい。その後あなたが儲かる、役立つ。だからあなたも私もハッピーだ。時差がない、同時に成り立つといっても、なんだか変だと感じる。それは、なぜ自分がメリットを感じてから、次に相手なのだと。
そう、まず相手が儲かることがあって自分が儲かるのだ。役立つもそれに近い。実際に相互的な意味で、GIVEしたと認識されたところであればそのまま逃げるのは気が引ける人が多いだろう。そうでない人もいるだろうが、ここではスルーしておく。
こういうとGIVE=犠牲と考える人がいるのだが、犠牲ではない。文脈的にいって、近いからといってもいい。近いものはふんだんにあるし、枯渇しない。近いからまたもぎ取ってこればいい。もぎ取ったらなくなるのでは?の心配もない。常にあるからだ。育つように種をまいて育っている。無意識で育っている、またはあげてもいいものを選んでいるという感覚だ。とはいえ決して出来の悪いものを意図的に渡しているわけではない。仮にそうしているのはそれは「GIVEの格好をした打算」であるので、つまり形容詞的GIVEなのであって、実質も実態も打算だ。自分がうまいようにやっているだけだ。
豊かなものとは、ここでいう近いものだ。僕の場合はアイデアであったり、気づいたものをフィードバックするというコミュニケーションだ。冷静に自分が逆の立場で、何か伝えたらそのフィードバックを丁寧にしてくれる人は一生レベルで覚えていたりするし、簡単に忘れることは少ないと思う。それでも忘れることはあるが、それ自体もコミュニケーションの中に入ってくるとなかなかできる、やってくる人は少ない。同時にアイデアを入れてくるのはなかなかできないと、僕は思っている。
あくまで人と違うことをやろうということでなく、相手に役立つことをしてみよう、こういうことをやるといい感じになるんじゃないかと思って勝手にやっているに過ぎない。
自分のためにやるのもいい。ただ自分のためというのは自分が腹減ったからあなたは飯をおごるべきだみたいな話で、初対面なのに何をいってるんだ?となって終わるだろう。こうやって書かれるとおかしさを感じるが、なぜか状況が変われば人は簡単に「あなたは裕福だからおごるべきだ」みたいなことを言い出す。とてもおかしいのだけど、そういうことをやるのも人だ。なかなか面白いし、そういう間違いを誰でもすると思う。間違いというと正しさがあるみたいだけどそういうことではない。
僕も近いことをやっていたこともあるし、今でもやってしまってるかもしれない。が、そこに気づけば修正は出来るというところ。
近いからこそGIVE出来る。それは枯渇しないものだし、枯渇しないような仕組みを自分が勝手に作っているといってもいい。そういう形をもって「人を励ます」というか、「いいよね」といっていく。これはおこがましさを感じたこともあったけど、結局は色々なアウトプットが違うだけで、直接的に文章で、口頭で、本で、プレゼンで、フィードバックで、何気ない会話の相槌で、僕は対面した人を励まそうとしているだけかもしれない。それが僕がいう役立つであり、人のために、正確には目の前のあなたに、ということだと思う。
これが僕の謎の応援するという趣味といっておこう。趣味というのはそれでお金をくれとか、何かということではないということだ。さすらいのアイデアマンの所以である(笑)
整理してみよう。
誰かを励ますのでなく、あなたを励ます。それが出来るのは、常にそうやってきたから。何かをして喜んでもらう、会話で笑ってもらう、面白いことを言う、相手が喜ぶことを用意してみる、ギャップを楽しんでもらう、役立つかもしれないアイデアを仕込んでおく、感じた即興でノッて遊んでみる、と思わせてのらなかったり(笑)形を変えて結局は人と関わり何かを生み出すこと、関わった人でも間接的な形でも「良かったよ、次もやってね」というように、長いマラソンなり短いレースでもいいから、一つでも一コメントでも届けること。そういうOSみたいなのが出来ていた。気づいたら出来ていたというのが正しいし正確だ。
これが僕を形作ってきたOSであり考え方といっていい。なぜなら、これを昨日考えて実行したわけではない。15年くらいはやっている気がする。いやもっとかもしれない。だからこそそれが僕の人格や性格という認知を持つ人、友人も多いだろう。あいつは何か面白いぞという認知である。多分だけど、ありがたいことですね。
出来たかどうかの判定や判断は何もマラソンのゴールように決められた何かがあるわけではない。励ます人を1000人と決めてやるものでもない。あなたが仮にそういう趣味があれば決めればいいのだけど、別にそれも自由だ。その先に何を見るか、どうしたいかはわりと自由だ。なぜなら人生の意味は後付できるというか後付でしかないからだ。1000人に意味があるという人もいるだろうし、そうでない人もいるだろうというだけのことだ。
近いOSでサバイブしよう
たまたまとしっかり断っておくけど、僕は励ますとか、役立ってもらう、面白がってもらう、違う視点も大事にみたいなところが近い。そうでない人もいるだろうし、あなたはそうではない可能性が高いだろう。近いと感じた、後付でもいい、近かったんだろうなくらいでもいいわけだ。
自分が考えた結果、試行錯誤して見えてきたものが結果的に「近さを感じた」ものがあった、という結果論に過ぎない。
文章や小説が近い人もいれば、何かをまとめるのが近い人もいれば、写真や映像が近い人もいれば、人が笑顔になった瞬間が好きでそれが近い(それを集めるか、作品とするか色々だ)人もいるだろう。これはもう人の数以上あるのだろう。僕でも1つではないからだ。
本当になんでもいい。くだらないとか、高尚とか、人に言える言えないとか、とりあえずそういう外からの評価、自分からの勝手な評価もひとまずおいておこう。本当においておこう。
遠いOSに気をつける
その近いOSを潰すというか他人が、とくに遠いOSを持つ人が「それ近いから役立たないよ、僕は遠いよ。ほら頑張ってるでしょ」といっているのだ。これはとても滑稽である。「それは遠いから頑張ってないと維持できないんでしょ。頑張るとか維持しようなんてしなくても私は近いわ」ということで話が終わるのだ。隣のOSは近く感じるのだろう、実際に近いからこそ、遠い人は近さに憧れるあまりに嫉妬をしているかもしれない。
近いOSをどんどん育てよう
近いOSを認識できたら、上でいえば一つの記事コンテンツ自体を更新し続ける(毎日にらめっこしているわけではないが)とか、アイデアを考え続ける(お題がないならストックして自主的に楽しんでいるし、社会の理解になるし、いいことしかない。もちろんそれを否定する環境にいてはだめだろう)ことも近いからできるといえる。
そういう意味でプログラミングは遠いのだけど、実は効率化や同じことをやりたくない=プログラムで解決するというのは近い。そもそもプログラミングは0→1という枠で好きだったし、今も好きだ。構えてやるプログラミングは遠いということなだけだ。
文章も近い。意識をして書いて何かお金の対価を得ようとすると、それはプロである。プロとして何もなくて書けるかは怪しい。一方で、書くことが近いからこそ、書くことが無尽蔵にできるわけだ。
遠くなるとは条件、環境、体調、インプットやアウトプットの精度、諸々の要素が関係してくると思う。嫌いになるという衝撃的なこともあるかもしれないが、仮に僕が文章をかけなくなったとしても、書かなくなったとしても、何かしら文章的要素、つまり抽象度を高めた、現象を把握する、別視点で考えるということはずっとやっている気がする。
もっといってしまえば、近いからこそ会得したり何か抽象度が高い本質を得たのか、それは分からない。が、そういうのがあるからこそ、「それでなくてもいい」となる。見える何かでなくてもいいとなるのだ。といっててなくなって慌てるのかもしれないが(笑)
近いことが実はやりたいことだったのかも
近さを意識出来たら実はそれが「やりたいこと」だったかもしれない。または「やり続けているのだからやりたかったこと」かもしれない。
これらに正解はないのだけど、そうやって近いことはとても楽しいし、面白いという理由で、同時に誰かに役立つとか、励ますみたいなことが出来るからこそ、つまり色々な効用があるからこそ、やっているかもしれない。
そこで、あとは近さを意識できて、ああこれ近いなと思ったらそこに体を乗せる、預けるというイメージが大事かもしれない。無理に近さに合わせることもない。合わせたくなっときに、近さでいいか、みたいな割り切りというか、自分がやりたいことなんだけど淡々みたいな感じでやる。
これが出来ていれば永久的にそもそも何か終わることがない。なぜなら、例えば僕が人を励ますことは、具体的なこととして、誰かにアイデアを届けるということは具体的だ。しかし、その具体性が大事ではなくて、誰かを励ますという抽象化されたほうが大事だ。
逆に励ますというのが残っていれば、例えば趣味ではないのだけど、サーフィンで華麗なステップで人を魅了して「励ます」のもありだと思う。このあたりは無理にこじつけてるかもしれないが、本人やあなたが思えばそれでいいのだと思う。あくまで具体性に意味がないということを言いたいだけだ。
もちろんそれはあなたがやれるという意味においてであって人をそれで説得するなら話が別だ。自分がやれるというのと、人がやれるのは別だし、自分がやれるから人がやれるわけでもない。サーフィンで励ませないならサーフィンをしないだけだろう。
絵を描くことが近い場合は、絵を描ける、描いている、気づいたら描いていたのだろう。もうこれは特性といっていい。一方でそれなら何か絵の仕事をすればいいとなるが、別に仕事にしなくてもいいと思う。無理にやると近さが消滅する。多分これがたまにある「趣味を仕事にしない」という考え方だ。これは趣味自体の近さという距離が壊れるからだ。趣味の距離感、車間距離を保ちたいのだ。
仕事はそれを乱暴に踏みにじる可能性が高いから(そもそもなんでもお金に換算してしまう。お金で買えないものがあると感じている人ほどギャップを感じるだろう。)もちろん仕事をコントロールして、乱暴な距離はスルーすることでもできるが、それが嫌な人もいるのだろうと思う。一方でできればどちらも普通にできるだろう。
そういう近さを大事にすることが、多分短距離やスナップショットでなく、マラソンや長距離や動画的な意味で、持久力や中長期的に役立つ気がする。だからこそ、自分が大事にしているものこそが近いのだろうし、近いものは大事にしたほうがいいという話だ。
今回書いてみたワケ
この近いOSとは、近いというニュアンスのことは書いたことがあるしそういう視点は大事だと思う一方で、何かしら「近い」のでは客観性や評価、実力に結びつかないのかなと思っていた。
一方で年齢も重ねてくると変われない部分が出てくる。例えば単純に面白いことをしていたい、みたいなことだ。面白いこととは自分が楽しいと思えることである。端的に娯楽ということでなく、役立つとか、興味をそそるとか、昨日と違うことみたいなイメージだ。
そういうのって大人になれば子どもが未熟であったなら、消えるものだと思っていたりした、少しくらいは。しかしどうもそうでないらしい(笑)自分を再度確認したところ、まるっきり変わってない。いや変われないのだと悟ったのが今回のエントリの動機だ。
じゃあ一生そういう近いOSの生成物、クリエイティブ、アウトプットは自分世界や主観世界のみであって、外的な世界や社会で評価されないのか?というとそれはない。もちろん、全く社会と関わらない生活で、誰とも話さない特異な状況なら別だ。そうでない限り、あなたと近いOSと社会(働く人、ものを買う、様々な接点があると思う)とつながっているわけだから、あとはそのパイプラインがある前提でいえば、どうフィードバックやアウトプットをしていくかだけとなる。
例えば、従来では出来なかった、一方では埋もれてしまうと言われるが、インターネットで発信するとは言い尽くされているようなことだ。これも丁寧にやっていくとあなただけのワールドなりあなただけの何かが出来るから気長にやるほうがベターだと思う。ブログでもいいし、SNSでもいいし、手段は色々だ。ビジネスでもいいし、ボランティアでもいいし、それらの活動形態は問わない。それに反応する人やいいなと思った人が反応してくれる。ゼロという世界もあるが、そういう時こそ「あなたは誰かの支持を得たいためにやっているのかどうか」という点で折り合いをつけていけばいい。一人のユーザーしかいないWebサービスと100人のユーザーがいるそれは、後者が100倍の価値とはならないだろう。同時にそれらの比較はあまり意味がないといってもいい。
このネットで何か出来るのも、今の時代ならではだと思う。近い→すぐ出来るということにもなる。もちろん人によっては文章が近いがネットは遠い人もいるだろう。その人にネットで無理に書けとは全く思わない。オフラインで文章を出すのもありだろう。あなたなりの距離感、近さが大事なのだ。
僕の場合はアイデアを出し続けてきた。もちろん多くは失敗というか評価されてない。が、粘ることで(無理してないのがポイントだ。もうここまで読んだ読者なら分かるだろうが)、近さ故にやり続けられる。僕はそういう近いという環境構築をすること自体が大事だと思ってきたし、そうやってきたんだけど、結果的にそれが自分を構築し、ワールドを作ったといっていい。妙な宗教でもないし、自己啓発でもなく、非常に凪なんだけどワクワクしているという感じだ。伝わるだろうか。
それで評価されて仕事になったものもある。実績もある。それ以上求めるとなると、これ一本で食えるビジネスを作ることになる。もちろんそれを明らめたわけではない。ただ、どこまでいっても際限はないというのは人間の欲求としてあるわけだ。そうであれば、キリをつけるわけではないけれど、一旦仮に近いということを意識してみたら、とても豊かで、とても幸せではないかと思ったということだ。
これを資本主義の脱退者(笑)とか言うことももちろん出来るのだ。しかし、その評価するOSは見方は本当にあなたが思ったことなのだろうか。そう本当に感じていればあなたとは馬が合わないし、そもそも本ブログ自体を見てないだろう。それは単に誰かが作った価値観に乗っかっていて、自分の頭で考えてなかったり、単に多数派っぽい雰囲気を見つけてそちらになびいているだけではないだろうか。それであればとても面白くないはずだ。自分でコントロールできず人の言うなりだからだ。もちろん言いなりでいいという人は、そもそも自分でなんとかしようとしないからこの考え方自体がアウトオブ眼中である(笑)
最近作ったというと大げさだが、産んでくれたという、ありがたいことに、講演の依頼だったり、ワークショップの依頼だったり、直近だと登録している企業から直接オファーがあったり(なぜ僕が?と思ったが)、面白いことが起きている。これも一朝一夕ではない。だから長くやれということでもない。くどいけれど、それが近かったからだ。アイデアもたまたま近かったといっていい。なぜなら生まれてからアイデア出しをしているわけでも、学生時代にアイデア出しをしたいなんてほとんど思ってなかったからだ。きっかけや偶然、自分に出来ることだったり、他の要素、性格、特性や持ち味との兼ね合いでしかない。アイデアで励ますってなかなか特異だと自負しつつ。
結局これは近いOSで近いからやり続けられるという近さありきの話だ。そしてそれに少しだけ、僕ならばシゴトづくりをしていきたいという、資本主義へ反骨精神しているわけではないんだけど、社会と対話すると結局落とし所はそうなる。たまたまそれがシゴトづくりという折り合いだったといっていいだろう。実際はもっと原理的に自給自足とかをやる人もいるだろうし、ヒッピーみたいな感じになる人もいるだろうが、そこまではいいやと思ったしやれない(笑)そうでなく、自分なりのやり方でやってきたらこうなった、いやこうなっている、そしてどうなるだろうかという自分への期待を感じつつ。
何か好きなことをやればそれでいいのだとは僕は思ってない。ただ近いとは、わりとしっくりくる表現でもある。なぜなら、好き以上に経験や体感、価値観も入るし、続けられるかどうかもわりと分かる。無理して近いは遠いことだし、遠いと思っていることが実は近いなんて比喩も分かりやすい、と思う。近いことが好きならそれは良いのだろうし、近いことがあまり好きでなくてもなんとなく単に受け入れ問題なだけだ。仕事名や職業ややっていることがしっくりこないとか。もうここまでこれば直観やあなたが考えてどうかを判断してそれでいいじゃないかとなると思う。
何か生き方のヒントになればとても嬉しい。
筆者プロフィール
- 「シゴクリ」運営者。アイデアの力でお客様に貢献するゼロイチ大好きアイデアマン。ビジネスアイデア相談実績等は200超を超える。好きな言葉は三方良し。詳しい自己紹介、仕事実績も合わせてご覧ください。お仕事メニューやお問い合わせはお気軽にどうぞ。
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