manavee本を読み、学生のピュアさや内面の葛藤とか嫌いじゃない。むしろ好きだなと思った話。

青臭い話というよりも、以前manaveeのサイトで公式で反省ポイントが書かれていて学びになるみたいな話を書きました。manavee(マナビー)の失敗から学ぶ

代表者というか、正確には創業者というべきで、花房さんは面白そうだなと思い、本を買ってみました。予備校なんてぶっ潰そうぜ。という本です(笑)

簡単ですが、そこから感じたmanaveeというよりも著者の生き方というか考え方を踏まえて、いくつか考えてみました。

manavee本をよむ

この本は、2009年頃から着想し、時系列でマナビー自体が成長していく切り分け方以上に、著者である花房氏の学生時代に作ったサークル活動でもあるマナビーへの思い、とくに内省としての「精神的な」部分がたくさん吐露されており、しかもそれに対して悔しいという結構「内面」が書かれている本でした。

そういう意味で全体的には、「教育格差をなくそうとする活動団体の記録や考え方を学びたい」人にとってはこの本は大きくハズレで、一方、花房という一人の人間がチャレンジしていってその人間関係構築がお世辞にもうまくなく、プレゼンもそこまでで、また商売についての葛藤を常に持ちながらも、本当に自己との対話(チームメンバーとの議論はしているのだけど)が多めの本となっています。

乱暴に言えば、活動における創業者の内省録とか、日記的な読み物としては面白く、著者の表現は自己愛もありながらも、決して自分に対して甘い誘惑で終わらせるのでなく、少しでも努力していく方向がありながらも、結局は今ひとつ垢抜けないところで終わるという感じです。

どこの大学生でもサークル的なことは自分の熱意レベルでやっているだろうし、主張としては小さく始めていって飽きたら辞めるという趣味や遊びでも良かったのかもしれない。けれど、それでは教育格差というのは解決できないからこそ、成長していくことを目指したものの、というところで、本書は成長していって3年後のおそらく最も成長したであろうところで終わっています。

教育ビジネスは否定される

マネタイズについては、誰しも通る道と僕は思っていますが、ある種商売やシゴトというところで何を売り、何を買ってもらい、何を提供し、何を提供するとお金になるか。僕はそこまで思わないものの、人によっては「人に迎合する」というレベル感で捉える人も多いのでしょう。例えば値下げもそうだし、値付けすらそうだと。人に認められるためにやってないんだと。でも、それが売れなければスタートラインにも立てない感じがある。

僕が大学生の時と照らし合わせると、今時の学生が、何か「マネタイズ」「ロジック」「ディスカッション」「スケール」「マッチング」(笑)といったカタカナを使って武装しようが、学生である時点で社会人からは舐められるのが相場です。舐められるというと言葉が悪いのですが、学生としては「勉強させて頂く」なんて言ってても、それって社会人の僕から見れば「なんだか学生っぽくないな」となり、学生が「分からない」といえば、「そりゃそうだよね」となります(笑)要は経験が足りないで片付く話も、青臭く泥臭く考えていくと、哲学の話にはなるなあと感じたところです。

逆に僕が学生当時にそこまで何かをやりきれなかったなと思っているのですが、それってまさにサークルやお遊びであり、学生卒業すれば終わりみたいな刹那な感じや無責任感が好きではなかったのでしょう。とはいえ就活記録みたいな同人誌を作ったりしたのですが、それもサークル的なノリだったと思います。今でもそのメンバーと連絡を取ることは・・・ないですね(笑)

青臭さとしての、教育は商売やビジネスではないんだ、それらが根底にあるからこそ、著者はマネタイズチームの研究ややり方、ビジネスモデルも「将来的にはやりたいけど」といって、結果的には受け入れられずそのまま反故にしてしまいます。また、スタートアップやベンチャー系の金融マンの話も正論だけど解せないとしてこれも中止します。これこそ青臭さであり、学生らしさだと逆に僕は新鮮というか、そうでないとなあと感じました。

教育ビジネスを学生がやろうということが、この言葉自体がやや偏見もありますが、やはり背伸びしている。いや、学生がビジネスをすること自体が背伸びだと。背伸びを学生も社会人も、周りも誰もが「背伸び」だと認識しつつも、動いていく。そういう中で成長しかちっとハマルこともあるんでしょうが、その確率は至極低いと僕は思っています。

この本がでた時点では何が起きるか不明だったわけですが、3年後にマナビーは解散となります。この判断はどうかはおいておいて、著者の行動力は素晴らしいもので、同時に著者の中では、チームを作ったり、コミュニケーションしてモチベートするのは得意でなく、また1から10などの成長ステージは合わなく、出来れば職人や一人でこもってたまに話すくらいのスタイルが最も合っている。つまり一人起業家が最も向いているなと感じました。共同創業者の夢を見つつも、共有できるレベルは知れているという葛藤だったり、ボランタリーで手伝う学生について感謝をしてるといいつつも、自己の内面全開で「俺は学校の講義は放棄して、その時間をマナビーに費やしているが、お前らは片手間だよな」という、まさに今から見れば「痛い」人なのですが、一方で当時、著者であればそれが全てでイライラ自体は収まらなかった、そんな等身大の台詞や考えがバンバンでてきます。

だからこそ、完全ではないものの、ボランタリーの大学生が講義をしていくことでコストをかけずに、広告や寄付などで補うというモデルがおぼろげながら見えてきます。一方で、著者自身は自分でプログラムを作りまたは大阪から仕事を得たりと奮闘しています。一緒にやってきた創業メンバーともどんどん別れていく形で、それは読んでいるとそうなって当然であるという面と同時に、そうでしか物事は進まなかったという甘い正当化の2つの側面を感じました。

詩的であり学生の勢いを感じた

著者の表現はところどころ繊細が垣間見える表現で、言葉にしていることは100%そのように思ったからではなく、みんなが言っているならという点もよく出てきます。それによって、何を考えているか分からないというメンバーの不信感も募ります。

でもそういう一人きりの彼であればマナビー自体は大きくすらならずに終わるわけですが、メンバーによってそれらの組織サポートがなされ、読者としては完全にメンバーにそれらのサポートや組織づくりは任されてて、そうであれば、著者は営業や開拓、Webプログラミングのみで突っ走れたかもしれません。しかし、代表であり創業者であるため、「お前がやりたいのはなんだ」「なぜやったのか」を聞かれ続け、結局それらに対してはある程度吹っ切れて言葉にしていくことができるようになった、わけですが、それでも、スッキリした感はなく、もやっとしたものをそのまま持ち越す感じを受けます。

ビジネス=継続=お金=認められるというのはかなり微妙だと思っていますが、とはいえ、教育=非営利=継続できないというのも乱暴だなと感じます。多分社会起業家的な位置づけうまく着地すれば多分ですが、マナビーは成功したのだろうと思います。しかしそれは出来なかったし、やれる感じでもなかったし、それは実力や運など以上に、著者が最終的にWebサイトに出していた「ナイーブ」という点に現れているな思いました。

つまり、著者は不器用だけど行動力があり、変な人と思われてもやってしまうわけで、そこが魅力であり、多くの人はそのやってしまうスケールや行動力に魅了されたのではないかなと。しかし、そういう天才的な魅力は実は自身からみれば、「社交の場、人に何かを伝えること、見せ方、人との関係づくり」は最も苦手なところで、不器用なりにやっている外面を期待値を高く評価されたのかなという感じです。

0から1を速攻作れる人には、1から10にできる人や仕組みがなければ、0から1になって終わりなのかなと思います。一方で、1から10出来ても1がないと出来ないわけだから、0から1の人がいなければそれも何も生み出せず終わります。

またアウトプットしますが、そういう大きくするとかはおいておいて、活動が定着し、事業が安定する、または一定の仕組みづくりには「人を頼れるという自立」が大事で、著者にはそれが欠けていたし、そもそもそこは自身の力でカバーするのでなく、役割分担や切り分けが必要だったのかなと思います。著書の最後で著者自身がメンバーとなり、代表は譲ったという話が出てくるところで、そういう見切りをつけたのかもしれません。

人に頼れたり任せられる人がいるのは豊かだなと思う一方、そういう頼れる任せるとは言うほど簡単ではなく、信頼関係を構築したり、関係がなければ出来ません。

まさにそれこそが良くも悪くも学生の経験の無さであり、ピュアさや素朴さであると。でも、失敗すると分かっていても突破したり、突っ込んでいけばなんとかなると思う気持ちは大人になるとどんどん寂れていきます。そういう意味では羨ましいと思える人もいるでしょう。逆に言えば、著者が人間関係を円満に構築しチームと良い関係を作っていく時にはそもそもマナビーではないし、何か違うものだったのかもしれないと思うと、もう何が正しいかは分からないと思いました。

世の中は二元論で割り切れない

僕は大学生の時によく思ったのは、世の中には二元論的に成り立っていて馬鹿とそうじゃないかみたいなことを面白がって考えてました。例えば馬鹿な人は馬鹿であり続けるというような考え方です(笑)今思えばあほらしいのですが、当時は真剣にそう考えていたものです。青臭いですね。

もちろん、学習をしたり学ぶ姿勢がなければその通りなのですが、人は成長し変わります。もっともその成長を待てるほどお人好しか関係する何かがあるかはおいておいて、そういう度量が問われます。また短期とか長期という期間という概念も入ります。同時に学生ではないなら、その生き方を自分で受け入れることになります。ニートをして50才になって生きられてもそれは誰に文句を言う話でもなく、病的な何かでないなら、自身が責任を負うことになります。自分を育てたまたは産んだ親に悪態をつけるのはなかなか難しい。しかし、悪態をついて世界が変わるならいいのですがそうではないので、現実を受け入れつつ進むしか無い。

ピュアな成功というか、継続するイメージを思い描く時に、泥臭い作業は出来るけどもそれらはメンバーや自分だけで守られるわけではない。単にサービスと見れば、高校生からの評価を上げていくことで、そこから何か生み出すことが出来なかったか。2014年から2017年までのその取り組みは分かりませんが、単に趣味であれなんであれ、長くやることで継続するやり方もありそうです。最も、時間などを投資している時点で得られるリターンと見合わなければ辞めてしまうものでしょう。

ビジネスかボランティアかというようなわかりやすい構図が、経験不足の学生には刺さりやすい。一方で社会人がそういうものではないよねと否定したり批判しても、結局それぞれをバランスよくやるか、稼いで逃げ切るみたいな(笑)発想をするか、人生レベルと組織レベルと国家レベルとはバラバラなことも多いので、僕が考えると哲学の問題だなと感じました。

正解はないんですね。そういう意味で正解が分からないまさに著者が突っ込んでいって形にしてく水面下のもがきっぷりが伝わり、読後感は結構良かったなと感じました。

おわりに

そういえばと思ったのが、学生時代に結構活発だった人も社会人になり、家族など所帯を持ったり、または仕事をして社会というものに属していくと、そのコミュニティで完結することに違和感を感じなくなるようだ、というのを昔思った。

そして、それがダメとは思わないのだけど、根源として何かやりたい、人と活動したい、自分はこんな生き方は嫌だ、著書では「自己へのコンプレックス」みたいな言葉もピュアにありつつ、それに近いのだけど、否定するという力は結構大事だなと思う。

社会に対して迎合するか、反抗するかという2択ではないのだけど、経験値が低ければ2択しかないとも思える。実はその選択自体を自分で考えているならいいが、人からの選択肢はかなり危うい。また2択だと思ってたら3,4択にもなることはよくある。

一方で今ですら、自分へのなんとなく社会に迎合してしまう部分に苛立ちを持っていて(笑)、青臭く社会なんて馬鹿野郎とか思いつつも、いやいやそうはいっても仮面として社会人を演じるのも悪くないというか、そういう二面性があることは非常に大事だと思っているというところで、基本的に著者が不器用ということは分かるけど、自分も器用ではないなあという境地での共感を得てしまった(笑)

もちろん教育であるとか社会課題をあげるときに、ピュアさとボランティアとビジネスは結構かちっとはまらないことも多く、なんというかそういうのが簡単にはまらないからこそ、お金=悪ともなるし、ボランティア=継続できないというのもあるんだと思う。どちらの考えも一面でしか見てないならやはりダメで、どちらの面からも見つつもどう動くか。そこが大事かなと思ったところ。

何かサービスを立ち上げてわっしょいしていく動きは非常にスリリング。そういうのって良いよなという人にはぜひおすすめです。

筆者プロフィール

シゴトクリエイター 大橋 弘宜
シゴトクリエイター 大橋 弘宜
「シゴクリ」運営者。アイデアの力でお客様に貢献するゼロイチ大好きアイデアマン。ビジネスアイデア相談実績等は200超を超える。好きな言葉は三方良し。詳しい自己紹介仕事実績も合わせてご覧ください。お仕事メニューお問い合わせはお気軽にどうぞ。