妄想に意図を入れれば高められる

妄想は企画なのかどうか。

妄想が企画かどうかはあまり意味がないのですが(妄想が企画であるという人を批判したいわけでも、妄想が企画でない人に賛同を送りたいとかでもなく)、この問いによって企画とはやはり伝えることが重要ということが分かりました。

なぜ妄想と企画について考えたか

ある読み物を読んでいて妄想の気持ち悪さがあったんですね。妄想自体を否定してるわけでなくて、その妄想はどこに着地するのかという意味です。個人の妄想やあったらいいな(理解できるかどうかも多少含まれるのですが)は全然ありで、一方でその上でこれって誰に伝えたいのか、または伝える意図がないのか(いわゆる垂れ流し。これも悪いわけでないのですが、意図がない言葉、コミュニケーションってなかなかないはずです)というところを感じました。

意図がない言葉っていうのもあれですが、「ありがとう」は感謝の意を伝えています。Twitterのつぶやきは意図はないとも言えそうですが「あー」というのでさえ、ハイコンテクスト(文脈依存)ですので、他人からは分からなくても、例えば僕がこの執筆時点で、今まさに「あー」とつぶやけば、「妄想と企画の違い」について理解が進んだという意図の「あーわかった」的な意図になります。もっといえば、言葉には全部意味があるということで、メタ的にいえば意味がないことを意味したいこともあるのですよね(何も言わないでと言われても、言って欲しいこともあるわけですね)。

妄想自体を叩きたいのでなく、妄想自体がポジティブな意味にアイデアや企画の種になることもありますし、そこを否定していません。しかし、ネガティブにいえば、妄想純度を高めていくと世界観は作れても、当然世界観を理解する人がいないならばファンは増えません。ファンというと商業っぽいですが、でなくても仮に市民活動やNPOであっても、サークルや趣味であってもというある種の活動支持者=ファンって意味ですが、それが増えないということです。

これは同時に「増えなくていい」ということもあるのですが、ファンは増えなくてもいいのに見せるとは自己矛盾しています。が、自己矛盾する存在も人間であり、特段それを否定したいわけでもないですね。受け入れられるところですし、人の面白さです。

もちろん、それだと話はそれで終わっちゃうので、あくまで「妄想」をポジティブに捉える、またはネガティブになりそうなところをポジティブにするにはどうするか。となるとき、やはり社会化、他者とのコミュニケーション、ここでは企画化というところが重要となりそうです。

もう一つだけいうと、何かしら見せること、伝えることは、めちゃくちゃ伝えたい何かがある、わけでもないというケースもあります。ブログに書いたのだから強い意志を感じるかどうかは人次第です。書くのが苦手な人は、書いた言葉や書かれた言葉に対して重く感じやすいでしょう(書くのが得意な人よりも)。単に労力の話なのですが、そういう比較でも違いは出ます。

ミスリードを避けるために、単に妄想をする人、または妄想をしてそのままでいいならどうぞそのままで、というところです。こういうと怒る人がいるかもしれないのですが、ストレートにそのままで他意はないんですね。ただ社会というところでいえば、おそらく関わることはないだろうと、切り離しているとかってことでなく、接点がなさそうというだけです。

逆にいえば、僕が関わる人は、高確率で、というか僕はそういう人と関わろうとしているわけですが、「妄想をする人」と出会いたいのでなく、妄想であろうとなんだろうとアイデアを形にしていこうとする人、と出会いたいだけなんですね。それはとてもマッチョ的というか、ストイックな感じがしそうですが、そうでもなくて、「やりたいんだけど、ちょっとやれないかもなあ」と日和っている人も含めて(笑)形にしようとしている人という見立てです。つまり、妄想→実現しようとする人が好きだし、そういう人と関わるであろうということです。

もちろんこの妄想と企画化の間には色々な溝がありそうです。ただ、溝と捉えると色々遠くなるので、多分そこが本筋でないです。

一番伝えたいのは「妄想」だろうとなんだろうと、企画化というところは必須なので、そこをメタスキルとして鍛えるか、企画やリサーチとして、社会や他者を知ることがめちゃくちゃ大事というところで、ここを外すと、自己満足(自分が考えたからそれでいのだ)となります。

この文章が自己満足的と感じる人はいるかもしれませんが、意図はわりと明確で「企画」というところがあれば、妄想でさえもアイデアとなり、社会に適応できるという実に使えるってことを伝えたいわけです。とはいえ、使えるスキル=実用性があるから明日から役立つみたいな「ライフハック」みたいな話ではないです(笑)

メタスキルとしての企画力

メタスキルとして結局各種スキルは社会力といえそう

メタスキルとは特定の業務で使えるものでなく、広く使えるスキルということです。具体的にはOfficeソフトのパワーポイントを使えるというのが具体的スキルとすると、MacのKeynoteも同様に使えたほうが幅が広がります。当然他のプレゼン的ソフトをもっと使えること、さらにいえば、「何か資料を作成し、それを端的にまとめて、伝えること」が出来ると言えます。プレゼンスキルとプレゼンソフトでの使用スキルはもちろん別ですが、習熟すればするほどそれらの境界は意図や制限がなければ消えていくはずです。つまり曖昧になっていくわけですね。なぜなら、プレゼンソフト自体はそもそもプレゼンのためにあるわけで(そうでない使い方をしてもいいわけですが)、ソフトの習熟度が上がるがプレゼンスキルが上がってないのは、単に資料だけパワポで作っているという仕事になりそうです。この場合は確かにプレゼンスキル自体は上がりづらそうですね。

人の話を聞いていて確信というか再確認したのは、ここでいうリサーチ力とは企画力にも含まれます。コミュニケーションも企画力に含まれます。何を言いたいかというと、企画力が総合力すぎて見えづらいんですよね。という話を前書きました。企画とは総合力かもは、タイトル通りですが、それぞれの要素から考えています。参考になるかなと思います。

カッコ書きにあるように、「あれ、これ全部社会につながるな」ということでした。社会とはまた大きな言葉ですが、人であれば一人でないはずということとして、集団形成をしていてその社会のルールや文化に依存しているはずです。仮に僕が自己主張をしていても自己主張を嫌う文化があることは認知しています。時代は変わっても文化ってなかなか代わりづらいですし、最中なので変化のポイントは実はとても分かりづらい気がします。

最後に社会力?みたいなメモを書いていて、「社会とは何か」を考えていくと、集団自体もですが、ソーシャル・キャピタル的なつまり社会資本、つまり人間関係やつながりなどが思いつきます。人間っぽさはここにありそうです。動物でもあるわけですけど、より人らしいという印象です。

全ては社会につながる

ここで言いたいのは、メタスキルとか企画力とか社会力とかって言葉は意味がなくて、結局社会につながるという感覚を伝えたいというところです。

例えば企画において奇抜なことをやればいいという誤解があります。なぜこうなるかというと、社会で目立つことみたいな、もちろん目立ちたい企画ならそれが「正解」ですが、そうでないものがほとんどです。

例えばきゅうり農家がきゅうりを売りたい場合に、企画としては売上を上げるのが目的であり、目立つのはひとつの選択肢にすぎません。また仮に目立ったところで「きゅうりコスプレをした農家」がいるのは面白いですが、「面白いからきゅうり買おう」という人がいなければ、企画としては意味がなくなります。これだけでも十分といえそうですが、奇抜なことをするのが駄目なのでなく、「リサーチ」に裏付けられた視点や状況適切でなかったりすればどんな実績がある人も成果を成し遂げられないでしょう。「コミュニケーション」として、ターゲットとするお客さん、法人に対して伝え方が違っていればやはり届きません(0か1でなく)。コスプレをして楽しくというところは伝わっても、コミュニケーションとしてどう会話をするか、きゅうりコスプレで目を引いてそこからはどうするか・・・それらの戦術が必要です。それがなくて、「目立てばどうにかなるだろう」は企画でなく思いつきとなります。

思いつきを否定しているのではないんですね。入り口となるので、思いつきは大事にしつつも、企画となるともっと総合力がいるという話です。思いつきとアイデアの違いというエントリも人気ですのでそちらも参考になるかもしれません。アイデアマンが考える「思いつき」と「アイデア」の5つの違い

思いつきでコスプレアイデアがあったらそこでそのままやらずに、どうだろうかを検証したり、他人に聞いたりターゲットと合っているかを考えることですね。また考えるだけでも駄目なので試してみる。企画自体の実行=成功しなければというのは強いプレッシャーになるので、何度もテストして失敗を積んで磨いていくほうが気が楽だと僕は思います。そういう失敗をノーカウントして、成功率が高いみたいな見せ方はどうかと思ったりしますが、それはともかく失敗の数だけ行動していると見るのは「妥当」な気がします。

脱線しましたが、奇抜であればいいという企画の誤解も、社会との接点というか社会につながってないという理解でいけそうです。後でもまとめますが、「自己」=きゅうりを売りたいから目立てばいい=そうだ、コスプレすれば目立つという考えです。これはそのままで「自己」の世界から出ていません。

一方で、「社会」とは、他者です。ここでは、買って欲しい人としてのお客さん像です。または「特定の誰か」、家族に食べて欲しい、姉がきゅうりあると嬉しいといってたな、きゅうりの味噌漬けがうまいんだなこれが、みたいな切り口はどこからでもいけます。つまり、ターゲットを考えるとは「机の前でうんうんうなってあーでもこーでもない」という状態でなく、「あの人は喜ぶだろうか?」「あれば食べるかな?」「美味しいレシピはなんだろうか」などを考えることになります。この方向性がまさに「他者」との接続です。つながりといってもいい。

社会と接するとはこういうことを意味するのだと僕は考えているのですが、この感覚や状態をわりとイメージできないと「自己」から脱せないとなります。と偉そうにいってますが、僕が全てのことで自己から脱していることを出来ているかはまた別問題です(笑)

実際にきゅうりをどうコミュニケーションするか。買ってもらうために何をするかがまさにコミュニケーションです。例えば、きゅうりコスプレでいくなら、一緒にコスプレしようというアプローチもありです。それを受け入れてくれるお客さんがいるかはおいておいて、エンタメで乗り切るのもありですし、本当にきゅうり世界観を出せばありかもしれません。きゅうりの栄養成分を訴求してもいいし、きゅうり漫画を作って実演してもいいし、ぬか漬け、漬物がうまいとアピールしてもいいし、きゅうり狩り体験でもいいし、ここはアイデア次第です。

何が言いたいかといえば、これがまさに「コミュニケーション」であり、ターゲットが喜んでくれるかなということですよね。さらにいえば、「きゅうりは一定の確率で売れる」というデータがある、または特定の層に刺さる、この地域はきゅうりのレシピや商品が売れているというロジックがあればより強固です。ここでロジックやデータというと、それがないとやらないみたいなイメージになりますし、直観や感を否定するようですが、それはないです。ただ、捉え方も含めて「きゅうりが売れている地域」では飽和かもしれないし、目が肥えているので「きゅうりは売れない」と見るか、「それだけ余地がある」と見るかは実は考え方です。データは「きゅうりが売れている地域」というだけであって、そこから読み取るのは人間であり、あなたが考えることになります。そこに正解がないので、面白いのですが、ここが面白いと感じられない人は企画に向いてないかもしれませんね。

つまり、自己→他者という流れは社会にアクセスしているということで、企画(リサーチやコミュニケーション)自体がそれをしているということでした。

実際に自己満足の企画とは言葉矛盾ですが、ターゲットが自分であれば成り立っているといえます。とはいえ、一般的に企画とは自己欲求を満たす(調べたいものを知りたいとか)のもあれば、再現性や仕組み化となっていくと、よりビジネスや経済、お金や人などが関わってきます。別に自己満足企画が駄目とかでなく、社会や人に認められるとか、またはここでは伝わることを考えていくと(価値を提供し対価をもらう、対価はお金ではなくてもいい)やはり社会に対して関心を高めていかないと、つまり他人ということですが、企画となりえません。

調べること、リサーチも同様で、自己で分からないことを調べると、他人が調べたデータや統計となっていって、やはり知へのアクセスとなりそこに膨大な人、痕跡、社会を感じるはずです。コミュニケーションも全ての人に万能な何かはないので、これもまた深いです。

留意点としては、僕の考え方自体が社会的な生き物であり、かつ社会の影響を受けるという前提があって、それで企画とは社会だという物言いになるということです。そんなことは分からないという環境も想像可能ですし、社会という定義やイメージでブレがでてきそうですね。

社会を感じるスケール(尺度)

尺度はかなり大事で、この尺度の話が分かるかどうかは、社会とどうつながるかにも影響を与えます。

一方で社会が国とか世界となると大きすぎてイメージが出来ない、そこから無力感も生じかねないということから適切な社会像を考える必要はあります。目の前のことをやるのもひとつの尺度で、世界のためといってもそれもいいというか、同じ尺度です。

度量が大きい人はスケールがデカイと言えます。一方ででかければいいかというとそういうことでもなく、というか小さいから駄目ということもないです。と僕は考えてます。何を言っているかというと、世界だろうが目の前だろうが今頭に浮かんでいる些細なことでもなんでもですが、それがあなたの、私のスケールであり、想像可能な世界、見える景色、誰かでないと動けないというだけです。そして、スケール自体を比較したい人もいますが、比較は意味がないです。

Aさんは面白い文房具に触れるのが好きでそこから文房具を仕事にできないか。メーカーでもいいし、レビュワーでもいいですし、Youtuberでもいいですよね。仕事にできるかどうかはおいておいてやろうとするのは素敵です。

Bさんは世界的文具メーカーに勤務していて世界スケールで物事を考えています。新規事業としてある国を受け持つことで商社然り、様々な貿易しかり、現地ルールを理解していくことが求められていて楽しく仕事をしています。

この時AさんもBさんもどちらも楽しいのであれば、それぞれがということですが、それでいいと思っていて、スケールの比較は意味がないということです。

企画的にいえば、Aさんはその文房具を誰に使ってもらいたいかを考える必要があります。それが企画です。Bさんも現地ローカライズするためにどう自社の立ち回りをしたりも仕事であって、その国の理解が企画となります。

規模やイメージは大分違う両者ですが、スケールとは「自身の尺度」であるので、大きな社会的成果を得たから人間的に偉いわけではないんですね。もちろん社会に大きな成果を残してそれを社会に役立てる貢献をした人は純粋に「偉い」わけですね。文字通り偉いので、何も言えないのですが、だからといってその人が偉そうにしていいかというと話が違ってくると。まあ偉そうにしていれば嫌われるというだけでしょうか。

企画としては、自身のスケール相当か、それより背伸びしたところがいいと思っています。仮に全然成長余地がない(自身のスケールにとってという意味)ならばそれはそれで問題でしょう。

問題というか、ミスリードすると、文房具の面白さを伝えるというAさんがなぜかBさんをみて、「自分も世界的に活躍する」のが良いと心から思わないのにやることですね。心からっていうのはAさんしか分からない世界です。思ったからできるわけでも、思わないから出来ないわけでもないとはいいつつも、想像や他者へのアクセスが肝なのが企画ですから、その尺度自体がそのまま出てきます。

憧れを否定するのでなく、スケール自体を比較しても生まれることってなかなかなくて、むしろここでのポジティブな考え方は、仮に比較してもその差を埋めるのでなく、そのBさん的考え方をAさんに入れていく、逆も然りですが、そういう考えの統合や組み合わせ程度なのかなというところです。

社会自体をどのレベルで接していくか。それはある種社会福祉であってもいいし、税金でもいいし、行政サービスでもいいし、市民活動でもいいし、経済活動としてのビジネスや仕事でもいいし、株価でもいいし、なんでもいいんですよね。その尺度や体験の面積、体積がそのまま尺度となり、社会って何かを測るものとなりそうです。

くどいですが、スケールが大きい小さいはどうでもよくて、自身のスケールの把握とそれでどう社会をあなたが見ているかがポイントです。社会像の把握が小さいならば、企画も小さくなります。大きいならば企画も大きいと。小さい企画が悪いとか大きい企画が良いというわけでもなく、単に企画としてターゲット、コミュニケーション、リサーチができるているかというところで、社会適用=受け入れられるかどうか、というところになります。企画としてはです。

想いがなければ意味がないといってもいいですが、成果を残さないと意味がないとも言えるので、これらの「意味がない」はあまり意味がないので、どういう視点とセットで捉えるかが肝です。そのセット感が薄いと点的になり視野が狭くなりますというところで、社会とのズレもでかくなるんですね。

そして企画としてはどんな小さなことでも、大きなことでも、誰かがやるであろうと想像がつかないとか(イノベーション的なものも、実はイノベーター自体は誰かがやると見えてるからやるのであって、自身が出来ないだろうならまあできないですよね。できたら運というだけになるだけですね)であれば、まず企画として成立しないってことです。これもまぐれで成立することもありえるわけですが、まぐれで運で成立したところで「企画者」自身が分からないのであ、誰も分からないはずです。企画者がわかっていて他に伝わらないから出来ないなら、伝えられるわけですし、仕組み化できるのですが、それがないなら出来ないということですね。

妄想を切り口にした場合の企画イメージ

今回のテーマは妄想は企画かどうか、という話でした。

ここで結論として、上に書いたように、妄想自体は切り口としては有効です。ただそれは、「アイデアを抽出」していることがポイントでです。

妄想から、社会に適用するような企画化(図右側)がなかったり、自己表現として社会に伝える(図真ん中)がないなら、やはりそれは単なる妄想で終わるんですね。伝えられない、伝わらなかったといってもいい。それが図左側です。

妄想自体がなぜ気持ち悪かったかといえば、それがこの図の左側の状態といっていいでしょう。言い方が悪いかもしれませんが、いきなりマスターベーションを見せられるということでもあります。自己表現としてはあるとしても、それが伝わらない、伝えてないなら、アートもかなりそれに近いと思っています。その上で、伝えようとしたり、コミュニケーションをセットにしている、何かしら取り組みの理論や理屈や研究や狙いがあるということであればアートっぽいというところです。

つまり、妄想はそのまま妄想だとまずいというか、「拒否」されます。というか、僕は拒否しますし、不安になります。いきなり拒否ということがあるかはおいておいて、「この人は何をしたいのか」を考えるのですが、それがわからないと人は不安になります。

妄想に限らず、「やりたいこと」は分かるが、なぜやるかが分からないとか、「なぜやるか」は分かるがやりたいことは分からないというような、全部の理解、プロセスの理解まで出来る人は稀かもしれません。稀というのは、そこまで密にコミュニケーションできて伝えられるかどうかということです。例えばきゅうりを売る場合にきゅうりの話がある程度わかっている人であればより「なぜ」「やりたいこと」が分かるはずですよね。農家の苦労やマーケティングの難しさやネット知識やITの理解、今の時代の理解など様々な課題があります。

一方でそれがない、つまりきゅうり知らないという人にはきつい話です。ですから他の野菜で代替して考えることになるわけですが、これが追いつかないと結構分からない話になります。「トマトでは分かるけど、きゅうりでは分からんぞ」みたいなことです。

最後に企画化として、社会に適用と書いています。実際にこれらは文字通りで、社会について調べて、社会の人が受け入れられるようにするので、受け入れられることが多いです。自己表現よりもくらいですから、あまり意味のある比較でも、感覚でもないんですけどね(笑)妄想よりは受け入れられるという感じですかね。

一方で、受け入れられるとは社会に迎合する(笑)というとんがった考えの人もいますが、社会自体に受け入れられること自体が迎合と言ってしまうと、社会性がないことが称賛されることとなり、社会的な生き物=人でなくなるのでこれは乱暴かなということです。真意としては、特定の誰かや欲しい人に対して「寄り添って」いくことを、迎合という感覚かもしれません。ところで、迎合というか社会に適用することは素敵というかコミュニケーションにおいては、必須であって、それがないと極端ですが妄想となります。

妄想でなくても自己表現のみというだけで、「俺の歌詞はいいのだ、聴け!」となるのですが、本当にいいなら聴かれるかもしれません。「私のデザインは天才的だから見ろ」でも同じです。この場合、あなたはそう押し付けられたら見ますか?そういう高飛車な人が好きかどうかもありますが、結構辛いですよね。仮に見て、かつすごくて、評価されるなら多分社会にいる誰か=つまりファンやお客さんや評価出来る人なんらかの人が、評価します。

文字通り、「聴け」「見ろ」は聞いて欲しい、見て欲しいということであって、評価を求めています。社会への評価がないとやはり自己表現もそのまま終わります。一方で完全に伝わる表現もないものの、完全に伝わらない表現もないかもしれません。ただ明確なのは、伝えるようにしないと社会には伝わらないので、「誰かがきっと評価してくれる」はちょっと甘い感じがします。甘いとは、「あなたが評価されるように動く」ということを怠っているという意味です。それをしているなら、あとは確かに文字通り運やタイミングもあるし、継続できるか、熱意や理屈や様々な総合力、つまり企画となるかなというところです。

ここでのポイントは、妄想もですが、アイデアを社会に適用するように動くことで企画となるし、企画化が必要だということです。面白いと思ったことをそのまま出すのも妄想に近いのですが、出したところで「修正」「イメージと違う」「改善」依頼に対して「それはしない」なら、それはコミュニケーションを拒否していますし、社会的には受け入れられないかもしれません。

ところで社会的に受け入れられるとか、そういう話で「社会」とは何かですが、他者または集団というところですから、仮に1億人いる日本社会で受け入れられるかどうかですが、1億人いて一人しか伝わらないのか、100人伝わるのかは誤差にすぎないかもしれません。ここでの社会的自体はかなり曖昧な言葉で、あなたのファンが一人でもいればそれは受け入れられると考えれば、妄想→一人に受けたら企画として成り立つという指標ならそれはありです。逆に100万人が動かないといけないなら100人では全然駄目となりますが、この時点で既に妄想ではなく人からの評価を受けたり考慮する時点で企画化しているといえそうです。

妄想は企画にもなるけど、妄想のままだと何もなりづらいということでしょうか。くどいですが妄想そのまま出したいだけなら全くそのとおりでそのまま「妄想ですよね」という評価なのでしょう。妄想を出したいだけの人は多分いないと思っていて、いても「気分転換」とか何か違う刺激を得たいということでしょう。それは分かります。

また妄想→妄想はそれはそれでよくて、ここで問題としているのは、「妄想」っていうけど、実は企画化したいのではないか。つまり、沢山とはいわないが、人に伝えて動かしたい、または何かこういう考えがあることを伝えたいのではないかというある種「叫び」を聞き取った(僕が勝手に(笑))から考えてるんですね。

そういう叫びがあるならば、妄想は企画化しますし、切り口やアイデアになります。ポイントは社会とコミュニケーションをそれでできるか、するか、したいと思うか、直していけるか、すり合わせとかできるかということですよね。本人が苦手だと終わりでなく組織やチームや徒党ということが可能ですから、個人だけで考えなくても良いと思います。

犬小屋を妄想してみる

ざっくりな例でこれが良いとは思ってないのですが、犬小屋という妄想をしたとします。

妄想として「こんな犬小屋あったらいいなあ」という話です。スマートロック付きの犬小屋があるとします。でもこれって犬が戸締まりする前提です。訓練すれば出来る犬もいるかもしれませんが、基本できないとすると、飼い主が戸締まりすることになりますから実用性はなさそうです。

これは妄想です。実現性がないから妄想ということでなく、逆に「このスマートロック付き犬小屋があったほうがいい」と考えて、またはある程度強く欲しいとして、この考えを「他者に伝えたいかどうか」だけかなと思います。人知れずこっそり開発したいとかもありかもしれませんがそれがあろうがなかろうが、社会に示す、誰かに伝える、そして実現するように動くかどうか。

で、仮に僕に相談が来たならば(来ないと思いますが)、「いやこれって誰が戸締まりするんですか?」で、妄想から目覚めるはずです。思い込みといってもいい。これはアイデアでも一緒です。自分のアイデアとして「スマートロックは時代に合ってるし、カギもおしゃれ、費用も高くない、欲しいはずだ」というのを固辞すれば、相手の批判や改善やアドバイスも意味がありません。

もちろん、妄想犬小屋としてスマートロック付き犬小屋があったらいいなという無邪気なアイデアや妄想を否定してるわけではないです。思いつきもこんなレベルです。といってレベルが低いから駄目ということでなくて、レベルとして完成された企画と比較する意味もないというほうが強いです。フェーズが違うものを比較しても意味がないということですし、むしろ悪影響ですらあるということですね。

犬小屋としてスマートロック付きのものをやりたいならばそれを実現するようにしていくよねということです。仮にイラストで「妄想イラスト」というのでこの「犬小屋」があってもそれは妄想自体をイラスト化しているので完成されています。「妄想」のままではないってことですね。さらにいえば「妄想イラストである犬小屋」は、意図が感じられるかどうかです。つまり、イラストとして犬小屋にスマートロックが付くことで何を伝えるかです。「風刺として犬は戸締まりできない」ことで何を意味するかとか、それは作者の力量ですよね。「ありえない、自己矛盾した世界観を示す」という犬小屋なら「あり」というか、企画としてありです。

ここで何が起きているかといえば、企画化がされているということです。妄想→妄想だと、何も変化がないんですね。アイデアもそのままだと変化がないのでひねり、うねりを入れています。

別のアイデアとして、高級素材や原料を使った贅沢な犬小屋があるとしましょう。ダイヤの犬小屋とか。実用性は知らないのですがこれはアートっぽいです。何を表現するかによりますが、アーティストや作成者がその意図を言えなくて「なんとなくダイヤだと面白いと思って」ならば、社会的に伝わることはないでしょう。後付けでもなんでもいいので、意図がなければ、社会に伝播することはほぼないでしょう。あるとすると、それで汲み取ったものを出す、ということなのですが、それをその人がするか、あとはミスリード(作者の意図とは違う形で使われる。失敗すると、断絶につながりますが、誤読とは割とよくあることですよね)にもつながります。

妄想との違いは実際にダイヤの犬小屋を可視化して作ったことであったり、実際に「スマートロック付き犬小屋」でなく、「高級素材の犬小屋」かあという「そうなんだ」くらいで理解されるかもしれません。僕も書いていてよく分かりませんが(笑)言いたいことは、意図がなるからこそ、伝えたいものがあるからこそ「ダイヤ」なのでしょということです。それがないならアートではないですよね。そして、そういう苦労やものすごい労力をかけてやることは感動しますし、面白いです。ただそれは一瞬は感情は動くしマニアックやニッチで面白いので「おお」となりますが、企画かというとやはり自己表現に近いですよね。ちなみに僕はそういう「感情や衝動の塊」みたいなのは好きな方だと思っているので、妄想自体は好きなんですよね(笑)

最後に、お犬様のための快適空間みたいなコンセプトで、リラックスBGMやふかふかの布団がついた犬小屋があればいいなあという妄想です。これって推測に過ぎないのですが、「快適空間」を犬が求めているかは判断しづらいので飼い主判断となります。つまり人間がそのようなものをペットである犬に提供するか、家族に提供するかってことですよね。それを考えたり調べた上でのアイデアならこれは企画です。そして、企画ですので自己表現とは違うし、社会とコミュニケーションしているといえるのですね。

ポイントとしては、犬小屋の妄想であれば、多分妄想して楽しいか、妄想したのを描いて面白いか、それせっかくなら形にするところが面白いか、多分人にって面白いポイントが違うのだと思っています。くどいですが、妄想が駄目とか、スマートロック付き犬小屋は妄想だから駄目なのでなく、スマートロックもダイヤも快適空間も全ての妄想犬小屋は妄想に過ぎません。そのうえで、妄想のままでないのは、どういう意図や社会とのコミュニケーションやリサーチや考えが入っているかということです。なぜなら、その妄想を出して終わりなら自己満足で終わりですが、こういう意図があるのだ、伝えたいのはこういうことだ、であれば自己表現になりえます。さらに、より伝えたい方向性やベクトルを見出すために継続するとそれは企画となります。

また企画かどうかという「判断」自体が意味があると思われる方もいそうですが、企画をしたいなら意味がありますが、そうでないなら全く意味がないです。妄想が自己表現だろうが企画だろうが、妄想のままだろうと特に世界の変化はないからです。

ここまで考えてきて見えてきたのは、自己から脱せられるかどうかということでしょうか。自己を脱するとそれはほぼ自己ではないです。企画も一緒でそれは自分が考えたアイデアだが、形作られるときには様々な人や社会に揉まれて別のものになっている。仮に同じであっても介在する要素が「その企画者」でしかないなら、やはり全く違うという認識です。脱したいかどうかもあります。妄想を妄想のままでい続けられる人もなかなかいないですし、それはアウトプットした時点でより社会化=企画化します。

自己を乗り越え他者とつながる

大分固くなってきましたが、最後にここで整理をしてみます。

まず妄想が企画かどうかということから問いを発しました。これはある読み物から感じた違和感でした。妄想は企画ではない。でもなぜだろうか?というところを考えていくところで見えてきたものがあります。

妄想自体はアイデアや企画の切り口にもなるが、それを拾ったり抽出したりしなかったり、意図がなくそのまま出せばそれは妄想のままとなりそうです。そして、ぱっと見は(とくに他人からということ)、妄想も自己表現も企画も一緒です。しかし、意図を伝えたり、社会に伝えるとか、何かしらメッセージを伝わるようにする意図性があることで、妄想でなくなるということでした。何を意図しているのかを考えるだけで妄想から自己表現になり、どういう人に届けたいかを考えるだけで自己表現から企画になるという感じでしょう。

最後に、犬小屋の例を示してみたのですが、アイデア自体のレベルや粒度はどうでもよくて、やはり意図や伝えたいか。ここらへんで迎合や自身と社会との関係性がモロに出るわけですね。

さてさて、最後は自己と他者の関係性です。これこそが社会だと僕は考えていますが、妄想や自己表現やアイデア(企画)はそれぞれリンクしていて、僕のアイデア活動がある人にはアートに見えるかもしれないし、ビジネスに見えるかもしれないし、自己表現に見えるかもしれません。僕の意図はそれらを含めて企画として考えているという感覚です。色々やったところで、しっくり来るのが企画であって、自己表現やアートは面白いとは思いつつも不安要素が大きく、やはり見える形で役に立つというのがいいというところでした。

これらの話は自己の世界です。つまり内省や自分の話、あなたの世界だけの話です。一歩も動いてなくても出来るし(実際はできないのですが)、社会に触れてもいません(実際は触れてはいるのでしょうが)。

他者とは社会です。違う誰かです。他人でもパートナーでも、子どもでも誰でもいいのですが、社会ですね。伝えること、コミュニケーションすることで、妄想は企画化しますし、自己表現も意図があるだけでなくより伝える形を考えれば企画です。アイデアもリサーチで固めたり、困っている人や自体を冷静に分析して解決策を考えて試すこと自体が企画と言えます。つまり、全ての自己の概念や社会を通してなのか、社会があることでなのか、企画化するということです。

この企画化とは、あなたの仕事というものでもいいし、家事でもいいし、社会との接点です。社会とは、政治とか経済とかそういうのももちろんですが、あなたがコンビニ店員と何気ない話をすることが社会であればそれが社会ですし、鳥を観察して面白いと思えばそれも社会です。自身でないものや人との接合が社会って感じですね。

これって違和感や他者や異文化との融合であり未知との遭遇と言っても良いわけです。完全にわかっている何かはありません。また企画化できるからいいとか悪いとかでもないです。ただ、自己→他者というわりと基本的な社会的な生き物である人間であれば、多分ですが、他者や社会の意図を得ています。それが文化やルールや習慣かもしれません。世間は死んだかもしれませんが、そういう感じですよね。漠然とした社会の代表例というか。雰囲気とかも。

自己の世界で留まると駄目なのかというといやいやそうでもないです。心理的にも肉体的にも疲れていれば、つまり不健康であれば他者とのコミュニケーションは疲れますし、非コントロール性の高い会話になりがちでしょうからそうなると、さらに疲れるでしょう。対人恐怖というか分かりませんが、ひどければそうなるでしょう。だから、自己か他者かの二択ではなく、妄想ありきやアイデアや自己表現ありきとして、そこから揺らす(他者に伝えるように当初の概念を違う視点から説明する、変化させる意)ことが重要となりそうです。これは迎合でなく、ある種のプロトコルであり、「あいさつ」に近いという感覚です。だからこそメタスキルとしての企画、コミュニケーション、リサーチなどを挙げたともいえます。

揺らすとはアイデア出しの話でも書いた(アイデアを揺らして企画を作り出す)のですが、概念自体を具体→抽象というように切り替えることを指しました。実際に妄想が具体的であるとき、社会に受け入れられるようにするには抽象化であったり、より違う具体的視点が求められます。これが面倒とかやりたくないなら、違うアプローチか企画化しづらいとなって終わることが多いでしょう。

たまに本当にやりたいか、本気でやりたいかみたいな話が出てきますが、こうやって自分の概念、自己の話をどう伝えるかみたいなことでも簡単に練習というか分かりそうです。「なんで自分の話を人に伝えないといけないのか」というのはとてもシンプルな問いですが、答えはないとは思いつつも「人はそういう思いのプロセスに反応する、共感する。それを理解すると信頼になるから」というのが答え的ですが、実際はどうかは分からないです(笑)

今回妄想をネタにしてみましたが、妄想であれ、自己表現であれ、何かのアイデアあれ、やはり「社会」に対して何かしら関わりがあれば企画化するという感覚はかなり整理できました。企画化していく「概念」といってもいいでしょう。なぜかといえばシンプルでして、「人が社会で生きているから」です。あなたが社会活動を全くしないのであれば、一人で文字通り生きていれば社会化できないです。関係ないですから。そうでなく、あなたの言動の一部でもなんでも、社会に還元する、影響を与えている、一人でも何か変わっていくということがわかっている、または想像できるのであれば、社会ってめちゃくちゃ面白いと思うんですよね。それくらい社会って、人って面白いのですから。

今回ヒントとなりそうなワードは、自己と他者、企画化、社会とつながろうとするというところでしょうか。アイデアを実現するのも、リサーチが面倒というのは分からなくないのですが、冷静に考えると社会化するためには必須で、仮にやらないと「実現」してみてテストしてどうかとなるので、よりコストがかかる感じですよね。というのも理屈なので面倒という場合、カンに頼ることになりますが、それで動いて回れば問題ないのですが、一人かごく少数に限られるので広がりが欲しい場合はきつそうです。これもコミュニケーションの話につながります。

何度も書いていますが、企画というと何か特殊スキルな感じかもしれませんが、そうではなくて、物事の捉え方そのものであったり、社会性そのもの(あなたの社会との接合点はどこか)であったり、他者とコミュニケーションしたいかどうか(仕方を含めたもの)などが問われる、想像力という感じがします。総合力なので全部優れているなんてまずなくて、強い部分で補いつつって感じですよね。

今回の考察でより企画化が、つまりコミュニケーションやリサーチなどのメタスキルが求められるだろうなあと思っていて、企画ってやはり大事だし、社会に必要なものだなあと感じた次第です。

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