失敗から学ぶ

失敗から学ぶという視点をいくつかの本を読んでいて出会った。考え方としては文字通り「失敗から学ぶ」のだが、そもそもどう学ぶかはわりと決まっていない。

少なくとも何かしら仮説やこうすればうまくいくだろうという曖昧であっても何か期待がある。その中で、「うまくいかない」ことを失敗と多分言うはずだ。

その失敗において、理屈としては学べることは、「何が問題だったのだろうか」という分析であり、「次に活かせるか」という未来への活かし方の2つになると思う。一方で、分析でも「環境が悪い」とすると、未来への活かし方が出てこないので、あまり筋がよくない。というのは、学ぶとは自身の体験から感じたことを次に活かせるかということだからだ。

同じような失敗は多分人は繰り返す。が、全く同じ状況であれば本当に同じなので「それは成長してない」ということになる。

今回は失敗からどう学ぶかということを見ていこう。

失敗から何を学ぶか

基本的に振り返りの習慣があればほぼこの記事は不要な気がするが、一方で振り返り習慣がなかったり、内省的思考が弱いと考える人は参考になるかもしれない。

僕は自身に成功しているという印象もないが、また失敗ばかりということもない。一方で、人生に不満だらけでつまらないということはなく、面白いと感じている。社会がどうというのはあるがそこは本題とずれるので割愛する。

象徴的というか、分かりやすい失敗をまずいくつか挙げておこう。ちなみに失敗とは、成功してない状態という意味でなく、誰かを怒らせたり、理不尽だったり、その時は事態の収拾のみで選択肢がなかったり、狙った通り行かなくて次の策がなかったりと様々だと思う。

失敗を振り返る話ではないので、さくっといくと、まず友人と起業をしたもののうまくいかなかったのは大きな失敗だと思う。とはいえ、正直これでうまくいくという「思惑」は正直なくて、とはいえ何かやらないとわからないという境地でやっていたので、特段失敗の塊とは思っていない。他人が僕の失敗から学べることはあまりないのだろうが、僕は僕自身の感覚として「論理的に打ち出せる何かがないならまあ無理なんだよね」という、人がどういってもスルーして、自分が「これは多分無理そうだな、というのは無理だよね」という当たり前の「無理」「できる」というのが身についた気がする。つまり、理屈で物事は決まらないし、感情も大事なのだけど、あくまで自分の中で「できないものはできない」のだし、論理でさえ出来ないなら況やという感じのことだ。

もう1つは、Webサービスとしてマッチングサービスの失敗だ。これは何回か書いていてアイデアコンペサービス「アイデアシェア」のクローズと振り返り。に詳しい。ここで敗因として集客、ニーズのなさ、宣伝等を挙げているが、これは結果に過ぎない。学べることは何かがポイントだと思う。例えば集客はできるできないでなく、どうすると解像度が高くターゲットにコミュニケーションできるか。実はこれはマーケティングであって、仕組みを作れてないなら成長はしようがないし、無理して広告してもサービスが魅力的でないなら意味がないのだ。このあたりの総合力はやはり動いてみないと学べないと思う。という意味でサービスが完成されたとか、規模が大きいとか、予算の額とかは多分関係なくて、一連の流れを経験しているかがポイントだと思う。

さて失敗を分析したところで、色々言いたいことは出てくるのだと思う。分析しない人も多いので、それだけでまず一歩抜きん出ている。さらに対策を打てる、次に活かすということであればさらに抜き出ている。思うに、これを失敗と言わなくてもあらゆることで考えていくと、成長しないわけがない状態になると考えるが、多分合っていると思う。

好みや向き不向きはあるが、僕はこの学びまくるというところにおいてアイデア発想の元があると思っている。ここで得たことをさらに次に使えるので、何も失敗とか成功という軸や評価単位は筋が悪いとすら思っている。最もラベリングとして誰かが分かりやすいという意味での形容して「失敗した」「成功した」というのはいい。が、それは本質でない、あくまで形容詞であり、掛かる体験や経験や学んだこと、分析が大事だということだ。

失敗しかしない人は存在するのか?

おそらくしない。確かにある特定の軸、時間、業務、仕事で区切って「7日で営業アポをとってきてその件数で評価する」というある種のゲームやルールがあるときは明確にわかる。が、こういう結果というのは非常に短期的であって、虫の目でしかない。長期で鳥の目となると途端に「7日で営業アポを多数取れます」というのが評価されるかは非常に怪しいわけだ。

逆も然りで、成功しかしない人もいないだろう。

失敗も成功も結果的に人生と捉えると、その間の浮き沈み、ともいえるが、成功が浮いたことで失敗が沈んだことではない気もする。つまり、学びを価値に置いている場合、失敗して学べるなら失敗こそ浮きであり、成功して天狗になって練習をさぼってパフォーマンスを出せないなら沈みだからだ。

ここでも虫の目では、成功すればいい、失敗は駄目である。鳥の目では、成功からは学びづらく失敗から学んだことは多いということになる。

人生の目標にコミットしている人は多分少ない

同時にコミットしなくてもいいと思ってさえある。なぜなら、「私はこれこれでこうで、人生ではこれをしたいのだ」という人が本当にそれをしたいかは怪しくて、言ってるだけの可能性もあるからだ。また、仮にそれをしたところで「その人の人生」でしかない。

一番ネックなのは、この「何か明確に掲げることが良い」「公言して声が大きい方が良い」みたいになると、そうでない人が窮屈であり、ストレスになるということだ。という人は、やはり比較をしてしまうのだ。典型的には「私の夢はあまりなくて、平和でいられたらいいな」というのに対して「世界の社会課題を解決するために起業する」という人と比べてしまうのだ。が、この比較は意味がない。スケールとしても間違っているし、しかも悪いことに、後者の人は別に前者を否定してない。が、圧として出てしまっている点は留意すべきだろう。

平和の立派な夢だしとても良いことだと思う。というか、今でさえ平和なのかというところはあるわけで、どこから見るかだけだろう。

またそうやって声が大きい人が目立つならば、それはそういう人が少ないからだ。つまり、大多数の「言えない夢」と少数の「言える夢」みたいになる。夢の比較はナンセンスであることはスケールが違うから説明は省くが、なぜか比較してしまうのだ。これは心理的に嫉妬もあるが、羨ましいというのもあるのだろう。少しはいいがこれが「ある種の原動力」にならないとか、「楽しい」ことにならないなら、まあやめたほうがいい。例えば、比較することで「あーもっとやらないとな」と奮い立つならいいという意味。これが「あー上には上がいるから、やる意味ないな、やめるか」ということになるのがバッドということだ。だから比較するのが危険ということだ。

なぜ人生の話をしているかというと、成功も失敗も視点で異なるからだ。例えばある新規事業を立ち上げて組織的に判断されてリサーチをしっかりした結果参入しないとして解散したとする。これは失敗なのだろうか?成功なのだろうか?これを判断出来る人はいない。つまり、賢明な読者ならすぐに「絶対的な成功」「絶対的な失敗」がないということに気づくはずだ。

ハマりやすいのは何度も書いているが、短期的に成功だとか失敗だという言葉が誰かから出てきて(または自分から)、または世間や社会的な成功というよく分からない基準がありそこで見ているということだ。例えばWebサイトはPV1000万/月あれば成功なのかどうか。PV1万/月は成功なのかどうか。前者がそれで赤字であり、後者がそれで黒字であるとき、評価は全く異なるだろう。つまり、自分の評価軸でないもので、測っている、失敗や成功を何かで照らし合わせている時点ですでに誤っているといっていい。

つまり主観の塊である成功や失敗といえるので、目安程度でしかなく、むしろそのラベルを取って何が出てくるのかということがポイントになる。それが学びや気付きや成長ということになる。

自分の失敗は失敗だったのか?

先に挙げた僕の失敗として、起業とWebサービスがある。どちらも要因は違うものの実はどちらも共通しているのは「論理的にはいけるかは不明だし、リサーチして一定程度は考えているが、あとはやってみないと分からないか。とはいえどこまで情熱があるか分からない。失敗してもいいしやってみよう」という迷い込みでやっているのは共通している。

ではこれは純粋な失敗だと思っているかというと、僕の答えはNOだ。全く失敗と思ってない。虫の目で見れば達成したいイメージにいけてないので失敗だ。例えば友人と起業してそれで仕事をつくって事業を回して雇用するというイメージがあったからだ(笑)Webサービスも同様でそれでユーザーがついて仕事として回るイメージを持っていたからだ。だからそれは未達成という意味で失敗なだけだ。

鳥の目でみれば、次のために、つまり今または未来のために、なるほどそうやるとやはりうまくいかないのかとか、そんな人ややり方もあるのだという様々なものを見ているし体験している。それこそが糧であり学びの根源だと思う。仮に一直線に、やりたいこと、それに対して成功か失敗かみたいな2軸だけの場合、文字通り「うまくいく」ときはいいが、ほころびが出た時に脆い。具体的には事業で成功しても人間関係や組織がうまくいかないとか、プライベートが崩壊するとか様々だと思う。

分け方もポイントだと思う。僕が失敗したからといって、次へまたチャレンジするという気概みたいなものは消えなかった。というかむしろどうすればいいだろうかということを考えるようになった。そういう意味では成長したかもしれない。さて、この場合の分け方とは、失敗した人は失敗し続けるかということなのだけど、まずそれはない。多くは学習機能がある。次のときはその機能から「楽に」問題に気づけるか、「あれこれ前やったやつじゃん」と気付ける。つまり予知ができるので、余地が生まれて判断出来る。もちろん全く同じことは起こりづらいので、ある程度考える必要があるし、同じ選択でも成功することもある。だから人生は面白いのだと思う。

失敗は成功のもとという言葉があるが、この言葉はとても体内に染み込んでいる。成功のためには様々なことをやるのだが多くは失敗する。では細かい失敗でそこで止まっても話は始まらないのだ。次のアクセルをふかしていくことを辞めてはいけない。そもそも、そこで辞める人は問題にはならないのだ。なぜならその程度の成功イメージともいえるからで、これもスケールだ。またこの「その程度」の目安は実はない。その人で変わるからだ。

上でいえば、新規事業Aをやってみてもう新規事業はやりたくないのは判断としてありだ。しかし、本当にやりたいなら「その程度」でやめてはいけないことになる。一方でやめるやめない、続ける続けないはその人の価値観であり人生の問題だ。組織や仕事や様々な要因も実際はあるだろうが、論理的にはその程度でやめる人は実はイメージは実現できないともいえる。

間違えてほしくないのは、これがなぜか「ストイックにやればなんでも出来る」という過大な解釈につながるということだ。これは過大だと思う。「ストイック」はあくまで結果でそれを目指すものではない。またなんでもやれるかよりも、当然タイミングや企画や経験してきたことからどう仕組みを作ったり得意なところで何度もやれるかのほうが大事だと思う。それこそ回りの環境を良くする(ここでは新規事業をしやすい環境に置くこと)ほうが重要だ。比較することではないが、成功率を挙げたいならストイックでやるのでなく環境を整備したほうがいい。

もちろん環境整備もやり方や進め方も含まれる。これも優劣はなくてスケールや生き方の問題だと思う。同じやり方、再現性の高い方法、ノウハウがあったとしても、量産というのは別の話で、明確なのは人の生き方は量産するタイプの話ではない。何を言っているかというと、20代までに起業するとか、30代で結婚するとかは信条としては別にいいが、それでやると良くなるみたいなことは別に決まっているわけではない。

失敗の仕方はたまに見るが、失敗の捉え方のほうが多分大事で、認知の問題だという一定の距離感がポイントになる。

いつ学ぶか

未来はいつあるかというと実は分からない。あと、失敗から学んだのがいつ使えるかも実は分からない(笑)

これは学ぶ意味がないという理由にはならない。むしろ、学ぶとは余地や余白自体を作ることに近い。同じ失敗が出そうなことが分かるということだ。それによって同じことにならずに、または解決策を考えて実施できるということだ。

そう考えると既に失敗したとか、うまくいかなかったことなんていくらでも誰でも持っている。それは財産とするならば、そこから学ぶこともできる。

今からでは遅いとかそういうことはない。いつでも学ぶに遅いということはない。自己啓発っぽいが学ぼうと思ったときが最良のタイミングともいえる。

学びがないとどうなるか。わりと明確で、なんとなく日常が同じに見える。予定調和であり、刺激がない。口数が少なくなったり、笑いがなくなる。生きている意味が分からなくなり、ひどいと精神や心理に精神をきたす。そういう状態になると、自分もコントロールできないので、他人に何か危害を食えないか、または社会自体への興味もそもそも余裕がないので生まれない。

ソーシャル・キャピタルという人間関係資本は、人のつながりということだが、そもそも他人への興味とは違いから生まれていると思う。なぜそういったのか、なぜこんなことがいえるのか。理解できないこともあるが、理解出来ることもやはりある。そのギャップを捉えて解像度を高める、「社会の解像度が高まる」と、実に面白いと僕は考えているが、それがないとどうも人生は面白くないという結論に至った。なので、社会って面白いということを僕なりの視点で見ていくのが僕の人生でもあると言える。その中で仕事が企画というのは結果的に合っているともやはり感じるのだ。

失敗は僕の動いた証拠でもあるし、また学びの源泉ともいえる。あなたにとっての失敗はなんだろうか。あってはならないものならやはりもうちょっと視点を上げてもらったほうが多分筋が良い。次につながるからだ。どう学べるかという感覚があればそれをどんどん磨いていくというのが良さそうだ。

実は失敗から学べるという視点がある環境は、失敗への許容感と相関がある、と思う。つまり、学びだから失敗も許されるし次へのチャレンジをしようということになる。これが失敗は駄目という環境なら誰もチャレンジしないだろう。

そういう環境は簡単に作れないものの、少なくとも自分はチャレンジしていきたいのでそういう環境を個人レベルでも作りたいしそういう人たちと生きていくということとしている。そうでないと自分が面白くないし、同時に社会の発展もないだろうと考えているからだ。

失敗から学んでいけるヒントになれば幸いである。

筆者プロフィール

シゴトクリエイター 大橋 弘宜
シゴトクリエイター 大橋 弘宜
「シゴクリ」運営者。アイデアの力でお客様に貢献するゼロイチ大好きアイデアマン。ビジネスアイデア相談実績等は200超を超える。好きな言葉は三方良し。詳しい自己紹介仕事実績も合わせてご覧ください。お仕事メニューお問い合わせはお気軽にどうぞ。

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