一定の粘りが大事。それが人を成長させる。

一定の粘りは人を成長させる。そんなネタを書いてみます。

WordPressの調べ物で見えた一定の粘り

先に書いた記事でWordPressをバーチャルホストでローカル環境を作成するというのがあります。この記事自体は、Wordpress、まあITソフトといえばいいのでしょうか、HP作成ソフトのネタに過ぎません。

とはいえ、この記事を書く間、調べている時間の方が長いですが、気になったのはWordpressを知らない人にも分かるようにざっくりいえば「本来考えれば出合うであろう課題が多くの他の記事では見られなかった」ことが不満でした。特定のサイトをどうということはないのですが(実際にヒントになるサイトも山程あるし、それを批判したいのではなく)、原理や本質を考えると、課題とかつまずくのが明確じゃない?ということでした。最も環境によって起きない課題かもしれないのは言うまでもないです。

それらはおいておいて、自分の環境では上手く動かなかったりする。というか動かない。こういう時、記事にも書いたのですが2時間ほど粘ってみました。粘るとは、休憩も入れつつですが、「おかしいな、論理的にいくと何か設定をしておかないとスムーズではないはずなんだけど」というのがある種の暗闇のトンネルを進む松明だったわけです(笑)

結果的に原因は分かってとてもスッキリしました。さらにおまけとしてWordpressの内部構造もよく理解できましたし、画面やデータベースのつながりもより理解度が上がった気がします。これで次はハマることはない、いや確率が低くなるのでいいはずです。

ここでいいたいのはWordpressという特定のITスキルがどうということではないんです。「粘り」というのが超大事ではないかということです。2時間という時間をかけられるかみたいなことは表面的で、実際は「あなたはどれほどその課題を解決したいか」みたいな、時間はその結果でして、実際は質というか「どれくらい問題だと思っているの?」という問いかけに対する行動というかそういうものですね。少なくとも時間をかければいいって話ではない。

ふと思ったのは、この手の粘りは何でも必要で、この粘りがないと正確には何かしら一回でも一時でも得ておかないと「次へ」「他の方法」みたいになって、目の前の課題に対してぶつかるみたいなことがないんですね。粘ればいいってことではなく、粘らずに次や別の方法というのは「賢い」こともあります。ただ、次の方法とか他の方法って実はその目の前の課題を押さえておかないと、場当たり的になり、対処療法的になって、本質を押さえられないんですね。そうすると、他の方法でも実は本質を押さえてなかったり、何度も再現する不具合になったりしがちです。

つまり、短期的に押さえてよかったというのももちろんあります。急いでいたりなどでは有効です。ただそれらってやはり継ぎ接ぎになるのでそこが弱くなって、弱点になる。そこから次の問題が出たりしがちです。

粘りっていうのはそういう意味で、ある程度粘ると粘度が出て、そう簡単には流れない、ねっとりしたジェル状の固体に近いイメージです。粘らないと水のごとく粘性がないものというか(笑)

僕はこの粘りに近いのは、達成感だったりすると思っています。達成感が何かしらあれば、その再現性を高めたり、あの時はこうだからというあたりも見えたりする。実際は全然違うこともあるんですが、アテ感というかコツみたいなのってここはわりと明文化しづらくて、その人の経験に即した何かである必要があるんですね。その人に即した何かは実は言葉にはしづらく、近しいところはいってもやはりその人の世界を再現または近い絵をかける言葉でないときついかもしれないですね。

つまり、粘りがあるとそこで成長したり、理解が深まったり、まあ豊かになれるのだなあと感じたんですね。たかが一つの知識やTIPSですが奥が深いって思えればしめたものですよね(笑)

粘りは知識やひらめきに転化する

粘りというジェル的な何かは実は固体に近いと言いましたが、固まる何かよりも、実は知識とか使える知恵とかひらめき、アイデアに近いものに質的に転化するんじゃないかと考えています。

実際に一定程度考えたことってエピソードが生まれたり、物語が生まれます。うまくいくいかないだけでなく、様々な視点や検討が繰り広げられ、一大スペクタクル(笑)ではないですが、なんだか楽しい世界になってきます。少なくともそこを楽しめるのであればそれはあなたに向いているってやつですね。

粘って調べていくとニッチなりコアなもので、知っていそうで知らないこととか、こうしたらどうなるか、困る人もいそうとか、なんでこれがないんだろうと自分なりの視点が生まれてきます。正確には視点が生まれたという0から1というよりも、視点が様々な粘りで強化されて、自ずと見えてくる感じです。だから、視点を得ようとかはいいのですが、視点自体はあくまで結果的に生成されるのであって、強制的に視点が生まれるとかはないというか。そんなイメージですよね。

もっといえば、ある人が困っていることがどの解像度で見えるか。実は、この困り具合も人によってはすぐにでも手伝って欲しいというものがあれば、そうではないものもあります。この程度、具合って定量的に言えるものではないですよね。だからこそ、一定の粘りをこの解像度で入れていくことで、解像度が高まっていって、かなり高い解像度で困りごとが見えたり、解決策の筋の良さ(または悪さ)、本質的かどうかというのも見えるわけです。ある種悟りです。「あ、これ分かったぞ」というやつですね。

これが見えた時、ある種のフローでありゾーンですが、どうすればいいだろうかを相手に対してパスやコミュニケーションも明確になります。またどこで悩んでいたかを明確にできるので、その打ち手や対応策もわりと簡単に出来ます。まさに鬼に金棒状態ですが、これって集中していって見えてくる世界で、粘りと似ているなあと感じたわけです。

こういう粘りを何度も繰り返すと強靭な知識や知恵、アイデアになっていって何度も使えるし、簡単に忘れないし、また応用が利くものになるんだろうなあと感じました。

3年同じことやればいいとかって話じゃない

粘ればいいみたいな話ではないので、くどいですがそれについても書いておきます。

今こそ何を粘ればいいかがわからない時代です。とはいえ、粘ればいいかがわからないから、何もしなくてもいいとか、粘らなくていいはちょっと初心すぎます。そうでなく、例えば自分は集中していられるかとか、粘られるかとか、楽しめているか、その発見や気づきは豊かさをもたらすかみたいな視点が超大事です。

これがないと多分ものさし、尺度があなたのものでないから、簡単に比較され奪われます。比較されるってことは、違うところで勝手に判定され、それだけでなく下に見られると奪われるんですね。例えば仕事を年収で決めてしまうとか、社会的地位みたいなものが良いとか高いものだからという理由とか。結果的にそれであってもいいのですが、それ一義はつらく、カウンターとして常にあるのは「年収が高いことを誰かが幸せといったかもしれないが、あなたがそう思ったか」というあなたのストーリー、これってナラティブってやつだと思いますが、それになるとき超弱いんですね。弱いというのは、耐えられないので論理が破綻したり、考えたくない、一言でいえば逃げたくなる。

人は弱さはあるのですが、あえて目をふさいで考えないのもまあかなり精神的にまずいです。問題なのはそういう態度が、まさに尺度を自分で作らず放棄した結果ということになります。ここでいう尺度って、独自の誰も持ってないみたいなユニークネスみたいなことでなく、「ご飯が美味しかった、なんか良い日だったな」のほうが、幸せじゃないですかというくらいです。稀にこれを馬鹿にしているという人もいますがそこはスルーしつつ、やはり幸せの閾値は低く、なんでも楽しめる、学べる、笑える人のほうが、そういう人生のほうがいいに決まっている、と僕は考えています。でない人がいてもいいわけですけどね。

ここで大事なのは、他人のものさしや尺度として、3年だとか、時間をかけて粘ればいいとかってことにしちゃうと意味がないってことです。あくまで僕の話はヒントにしか過ぎないので、本当かな?と疑ってみて、粘る機会があればやってみるとかくらいでしかないですからね(笑)

粘ったらなんか成果や結果になりますか?みたいなことが一番辛いわけです。何かを保証を求めたり、やる前に何かというのが最もチャレンジしないタイプの人なので、どこかでコミュニケーションで失敗しているか、タイプや前提が違うということが多くあります。このミスコミュニケーションが面白いというのもあるのですが、批判的に考えてもらって、ヒントになればそこを活かすのが多分割と筋が良いです。全部良いこといってる人ってまあいないですからね。ココロのメンター、師匠なんてのもそうですし、誰でも欠点があるし弱い点がある。そこは踏まえつつ良いところを見ていくしかないですからね。

これをやったとか、長時間長期間やったからいいってのも一つありです。ただその時間を誇ってもまあ価値となるかは見せ方とか、持っていきかたもあるので、全部それでいいとかでもないですしね。くどいですが、やれば大丈夫とか、時間をかければ誰かがきっとみたいなのは幻想としてもらってオッケーです。残るのは、そういう期待値や想像でなくて、それによって出来た行動や動いたワクワクとかそういうことですね。期待とか想像とか妄想がだめでなく、それ自体が何かにはならないので、それによってあなたが手を動かして示すこと、アウトプットすること、考えること、それが粘ることだったり(笑)というわけですね。それが出来る原動力としての妄想、好き、ニッチはめちゃくちゃ価値があります。

原動力→アウトプット→し続ける=粘りとすると、原動力自体を評価されなくてもアウトプットが評価される、または粘りが評価される。その評価も、他人尺度よりも、自分が用いている尺度であればより細く長くなる気がします。他人に認めてもらうなってことでなく、他人はそれこそ自分勝手(笑)なので、安定しません。それよりも、自分に対して自分はよくやった、ここまでよくできた、少しでいいから成長できた、学んだ!豊かだ!といっているほうがいいわけですね。

原動力自体は誰も違って誰もいいみたいな感じで、コミュニケーションできる、見えたり分かるのはアウトプットとその粘りってことです。原動力を見て欲しい人がいるかもしれないのですが、そこは別に人のストーリー、ナラティブ次第なので、それって色々あって面白いでいいのかなと。それ以上にアウトプットを磨いたり、粘ることで成長してくのがいいですよね。

ぜひ自分ものさしをコツコツ作ってそれを磨いてみてください。粘りが質に転化した時には、また違うステージが見えると思いますよ!

筆者プロフィール

シゴトクリエイター 大橋 弘宜
シゴトクリエイター 大橋 弘宜
「シゴクリ」運営者。アイデアの力でお客様に貢献するゼロイチ大好きアイデアマン。ビジネスアイデア相談実績等は200超を超える。好きな言葉は三方良し。詳しい自己紹介仕事実績も合わせてご覧ください。お仕事メニューお問い合わせはお気軽にどうぞ。

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