北極冒険家の思考をトレースできる。非常に面白し。

北極冒険家なんて殆ど知らないのだが面白そうなのでというところで。結論からはめちゃくちゃ良かった。

冒険家の思考かどうかはおいておいて、荻田さんという人の考えがとても良くわかる。リスクの考え方がとても好きだなあと。

ざっくり内容としては、荻田さんの北極チャレンジが2回、南極が1回。北極点は撤退しているが、南極はそれに比べれば簡単というところで見事達成している。その時々の旅の記録の中に、回想的であったり色々な思考が入っている構成となっている。

面白いポイントは、著者自体がそもそもなにか目指しているというよりも、やる気がなかった大学生の時に北磁極への旅ツアーみたいなのに魅せられて行ってみたらそこから俄然やる気になったというところだろうか。そこから北極を意識した旅生活が始まるというのもとても面白い。

冒険家の思考を知りたいとか、少し非日常感のある物語を求めているならばぴったりだと思う。

僕は総じて旅をしている時の思考とはこうだよなあと感じた。北極とかではないけれど。

面白かったところ

社会と自分と自由の話

何も、社会との関係性を断ち切らないと自由が獲得できないと言っている訳ではない。自由を獲得するには、どれだけ自らの行為に責任を負うことができるか、そして自分の人生は誰のものでもなく自分のものである、と信じられるかどうかだけだ。

考える脚 北極冒険家が考える、リスクとカネと歩くこと、位置410

本当にそうだなあと思うんですね。自分との社会との関係性って結構考える人はいると思っているんですが、その最適な位置とか分からなかったり。この前後では、北極などで通信機器をOFFにした途端にそういう感じがするみたいな場面です。

自由とはなにかというところで、リスクがつきまとっていて、まさに自由=何でも出来るということでなく、自由=自分が設定した課題や挑戦に対してリスクを踏まえて責任を持ちその範囲で動けること、というのが自由の解釈となりそうです。

当然これは「自由の定義」を自分がする必要がある。僕がする必要がある。あなたがあなたでやる必要があるんですね。そうでないと、「人が定義した自由」ですから、当然「人の定義したリスクや責任において」となる。それはそもそも定義主体が人であり、リスクや責任も人である。そこに自由なんてないのが当然であると。

じゃあ会社員などの働き方に自由がないのか?というと、それも裁量があれば全然あるよなあと。これも考え方です。誰かが言ったとかでなく、自分が体験して違う、合っているを検証していく。少なくともその態度がなければ、自由の定義にたどり着かないし、考える事もできないって感じがします。

僕は大学生の時に自転車で日本縦断をしたのですが(これまだ公開して出せてないので流石に出しておいたほうがいいですね(笑))その時も結局色々と思考をしていました。なんでそんなことするんですか?ってのはやりたいからとしか言えなかったし、面白そうだからだったんですね。リスクとは危険もあるんですが、死ぬことは流石にないけど怪我とか、危ないところにいかないとか。そういうのも全部自分の判断ですからね。すべて判断できるまでに材料もいるし色々含めてですね。

めちゃくちゃ最適化している冒険家の動き

重い体で重いソリを引き、日が経つにつれてソリが軽くなるのと比例して体も瘦せて軽くなっていく。前半、カロリー不足で体の消耗が進み、内臓が危機感を覚えて吸収を頑張り始めたところから食料を増やし、摂取カロリーを増やしていくことで、持っている食料を無駄なく最大限の効率で使用することができる。

同上、位置661

これみてすごいなあと。そうやって最適化するし、考えて動くのだなと。体のメカニズムもですが、自分の体調と状態を客観的に把握しつつ、主観も入れる。まさにプロですよね。これだけでも垣間見えるのが面白く感じました。

自分も仕事に置き換えると、もっと高められたり、違うやり方があるのではないか。そうやって考えさせられる一文だなあと。

希望的観測との葛藤

海氷状態が良くなると、心の隅で「きっとこの先もいい海氷が続いてくれるはずだ」という希望的観測が先立つ。どうにか状況が好転してほしい、という願望が強くなればなるほど、客観的な事実よりも、頭の中で都合よく歪曲した未来を期待してしまう。そして、そんな思考回路になっていることに気づかず、自分は極めて冷静であるように勘違いしていることに、気づかない。常に冷静に、第三者的な視点で自分を客観視する、なんて、言うのは簡単だが実行するのにこれほど難しいものはない。

同上、位置1,353

北極では海氷の状態が肝なので海氷の話がめちゃくちゃ出てきます。その種類も状態も認知したり経験して対応策が分かるかで全く違ってくる。とはいえ、これほどの著者の経験があっても、このような心理となるんですね。これが人間であるというか。

ここでは、自分は希望的観測をしているよな、ということすら気づかない。むしろそれが客観的であるとすら感じる。希望的観測=客観的とすら思えるのってやばくないですか?でもそうなると。これはとても人間らしいというか、状況によれば簡単にそうなるよなあと深く感じました。

その重みがあるからこそ、客観視なんて簡単に言うけど、客観視って一体どこまでなのか。僕も客観視とか主観とか、視点移動の話はなんどもアイデア出しでしていますが、その感覚や実践のズレはとても感じています。その難しさがある。とはいえ、全くできないわけではない。少しでも出来るやり方があるんだろうなと。

未知の捉え方

未知とは所詮、訪問者それぞれの未知でしかない。他の誰かにとっては既知の事実でも、自分にとって未知であれば大いに価値を感じることができる。人間一人ひとりのそんな営みの連続の中から、やがて人類としての未知を明らかにする機会が生まれ、それが人間の可能性を押し拡げてきたのではないだろうか。

同上、位置: 1,870

これはかなり大事な指摘だと思っていて。未知って人々とか人類とかっていう大きな主語ではないと。自分という一人が知っているか知らないか。そこから考えた時、知らないことを学んだって、未知を学んだことになるので面白いと。シンプルにそういうことになります。

あれは既知だからやる必要はない。本当に既知なのかと疑っても良い。自分は知らないから調べていく、考えるとなにかあるかもしれない。それが引用後半ですね。それこそフグの毒じゃないですけど、食べて毒だ毒でないとかを調べていった人がいるから今食べられるというか。

こういうのも一人の好奇心、一人の面白さから始まったのかもしれないなと思うと胸が熱くなるし、それが人間の可能性といっても言い過ぎじゃないとも思いますね。

冒険の意味は事後に生まれる

我々のような冒険者は「なぜ冒険するのか」という問いに対して「やりたいからやるんだ」としか答えられない。それは、行為の後に対自分自身であろうと対社会であろうと、いずれかの意味を見出されることを固く信じているからこそ、今この瞬間に刹那的な意味を求めないのだ。心が動く、だから冒険する。それでいい。やる前に四の五の言うな、やってみれば分かるから。それをエゴと呼ぶか矜持と呼ぶかは紙一重の差でしかない。

同上、位置: 1,876

この知見はとても面白かったです。よく冒険家の人の行為自体、冒険自体ですが意味があるんですか?って言われるんですね。言われがちというか。そんなのないですよと。世界の高い山を登ったら、そのやり方を工夫して今までにないやり方でやったから意味があるのか?というと、意味ってない。

これって研究とかもそうだなと。とくに基礎研究。地味なのでそれでなにか役立つのですか?という人はとても多い。気持ちは分かるんですけど、まあないですよね。

だから、著者もやりたいから、やってみたいからやるとしか答えられないというんですね。一方で、冒険後に、自分の中なのか、社会に対してなのかつまり内か外かはわからないけど、なにか意味はあるんだろうと直観的にあると。固く信じるとはそういうことで、意味性とかお役立ちみたいな話が今言えるとは思えない。けども、それは多分なにか意味があるんだろうなと。

刹那的というのは今まさにこの瞬間ということで、そんな超短期的な反射的な意味なんて当然ないのでそれを求めるなと。当然その態度は、エゴだねと言われることもあるだろうしそう考えてもいいし、矜持というこだわりや誇りとも言えるかは人次第だし、自分次第でもあるって捉えました。

この後にお金、とくにスポンサー集めの話が出てくるのでそこが関連するのでそこも出してみます。

私の嫌いな言葉は努力と根性だ。私は極地を旅しているが、 俯瞰 して見れば人生という旅路を歩んでいるつもりだ。旅とは努力で行なうものではない。人生もまた努力して歩むものではなく、何かに憧れ、心躍り、主体性と好奇心を持って歩むものだ。冒険なんて、自己満足の産物であり社会的な意味は存在していない。

しかし、それをやり続けて関わる人が増えていった時に、自分だけの満足ではない自己満足に変わっていった。私の自己満足に、価値を見出してくれる人との出会いによって社会と交わり、社会に新しい未知の世界を見たのだ。そして私は、こうなることをアポなし飛び込みをやる以前から、何となくイメージしていた。言うなれば、こうなることは分かっていたのだ。

だからこそ、就職もせずに北極に通い続けていても何の不安もなかったし、自分にはそれができるという根拠のない自信で突っ走っていた。自信に根拠はなかったが、確信はあったし、それが実現していくことで確固たる自信に変わっていったのだ。人生という旅路は信じるに値するものだ。

同上、位置: 3,324、太字筆者注

痺れますね。太字のところがポイントです。

ここではスポンサー集め活動で、自分の話をするのだけど、それって「うちの会社にメリットあるんですか?」ってなる。その態度や言葉は人次第で大分違いますが、出会う中で、著者がいう冒険という自己満足活動に価値を見出す人が出てきた。それは運というよりも、その出会いがあるだろうということを、何となくでイメージしていたんですね。

本質的なものを提示するとそれに反応する人がいる。あとはどうやるかってことになる。逆に枝葉で魅せられても本質ではないので、枝葉で終わるみたいな話ですね。

根拠のない自信が、確信に変わるのはとても大きく、手応えがない間はすべて「根拠のない自信」といってもいい。それが変換されていく。

そして、その未知故に、社会の未知があるからこそ、それは人の出会いでもなんでもいいわけで、著者はスポンサー集め活動というところの具体的なところにそれを見たと。だから全然おもしろくて、苦とかって話ではないんですよね。

このあたりめちゃくちゃ面白いと思います。自分の自己満足であるがそれは事後では当然変わったり、または人によっては商品ではないですが、価値あるものとして見られるし、見ることができる。そこがあればそこにお金もですが関わる意義があるのだと。これはかなり本質的な話だなと。

旅の非日常性から、普段の日常を見直す

多くの人は、自分の生活している世界から遠く離れたところへ旅行することに「非日常性」を求めていく。しかし、旅に出た価値が生まれるのは、行った先が日常となり、本来自分がいた場所が非日常に感じられる瞬間だ。その時、自分が知っていた世界、当たり前だと思っていた日常を別の見方で捉える視点を持つ。日常と非日常ではなく「たくさんの日常」を行き来できる人は、豊かな視点を持つことができるだろう。極地への旅は、私にとって日本とは違う日常を営ませてくれる体験だと言えるのだ。

同上、位置: 3,055

これもかなり鋭いです。北極が日常となった瞬間、自分の生活が非日常になる。その瞬間色々なものが疑ったり違う視点を持つ。だから、非日常を日常化しないとその視点は得られない。

リサーチやマーケティングにおいても、このあたりはかなり大事で、顧客への憑依とかって言ったりしますがまさにこれかなと。それくらいやらないと、つまり自分の行動を「おかしいのでは?」と見えるレベルでないと、何も切り替わりがなかったりすると。

「たくさんの日常」という言葉は言い得て妙で、鋭いと。たくさんの日常とは、それだけその日常を得るために経験や体験をしたと。だから文字通り「日常」を沢山持っている。それがまさに視点なので、その視点って簡単に「はい、これね」といって得られるものではないというのも説明してしまっている気がしました。

スポンサーの集めの話

私はこれまで、何か分からないことがあれば知っている人に聞きに行くことで解決してきた。北極の情報など、日本で知っている人はごく限られている。ルートの情報や、村ごとの様子などは行ったことのある人しか知らないのだ。であれば、行ったことのある人に聞きに行く、それが普通だと思ってきた。  会社に関しても同じだ。自分は会社のことは分からない、だったら、会社に行って聞けばいいんだ、そう思った。短絡的かもしれないが、これが一番の近道だと思っていた。

同上、位置: 3,108

これ面白いですよね。著者の経験から確かにその通りになると。だからイヌイットに直接情報を得てそこから自分の考えたものと修正したりして考えていく。その通りで、会社に行って聞こうという発想がそのまま出てきたのでその通りにやったと。

自分の企画書を出し、何をやっている人物で、これから何をしようとしているのかを話すのだ。 今から思い返すと、そうやって自分のやっていることを人に説明する練習をしていたのだと思う。相手から質問が来れば、なるほど人はそういうところを疑問に思うのかと知る。そこでいろいろな人に会うことができた。

同上、位置: 3,132

このあたりが著者なりのPDCAというか、実践ですよね。まず聞いてみる。そうすると何か違うなと分かってくる。北磁極ではないですが、まず行ってみる。これは危ないとかできないならまた勉強と実践を繰り返す。そうやって著者はやってきたんですね。だからこそ、ここでやり取りを通じて、まさに会社訪問→話をすることを通じて、ある種プレゼンの練習となったと。実践あるのみとはいうけれど、その通りをやってのけている。

それも事前にそう考えてではなくて、あくまで会社の人に、お金を出す最も近しい人に聴いてみればいいと。そういう思考から皮切りとしてそこから開拓していった。というわけで、後からそれが練習に近いということがいえると。やっている時はそこまで考えずに修正しつつとかですよね。

一年ほどはそんなことをひたすら繰り返していたが、実は結果的にそこからスポンサーの話に繫がったことは一度もなかった。でも、当時の自分の考えとしては、それでよかった。まさか、こんなアポなし飛び込みから協力してくれる企業が見つかるような奇跡は起こらないであろうことは分かっていた。ただ、ジッとしていられなかっただけだ。

同上、位置: 3,135

めちゃくちゃ大事なことですよね。ここで冷静というか、自分の考えとしてはそこから協賛企業が見つかるとかはないと分かっていた。分かっていただけやった。めちゃくちゃいいことだと思います。これで出来るとは思ってない。のだけどやってみないと気が済まない。くらいの行動や熱量があるからこそ、やったのだと。冒険にこれも近いことなのかなと思うわけですね。

そんな飛び込みの日々を一人で続けていると、やがて私の動きに興味を持ってくれる人が少しずつ増えていった。出会う人に「次は北極点」と言い続け、そのために毎日を過ごしていると、私の本気度やこれまで北極に費やしてきた時間とエネルギーについて正当に評価してくれる人が現れ出したのだ。

同上、位置: 3,173

これもめちゃくちゃ大事ですよね。いい続けることで、こいつは何かやるぞととか、本気度を評価してくれると。ここまでやれるやつはそんなにいないのではないかなと。

私がやってきたことは、自分がどんな育ち方をしてきた椎茸であるか、それだけを正直に伝えてきただけだ。腕の悪いシェフは、目の前に置かれた食材を見ても調理方法が分からず、仕入業者の八百屋さんに「この椎茸、どうやって調理したらうちのメニューに合うのかな?」と聞く。かつて、アポなし飛び込みをしていた時に「あなたを支援したらうちにどんなメリットがあるんですか?」と私に聞いてくるようなものだ。食材に聞くんじゃない、それを扱いきれないシェフの腕が悪いんだろう、ということだ。

同上、位置: 3,297

これは確かにそうだなあと。素材は良いと思うんですよね。あとはうまく調理できるかどうかと。そういう話となると。まあそれを直接言われたら結構トゲがあるんですけど(笑)とはいえ、実際はそうで、その検討確率というか、シェフ度や調理レベルが高いところに持っていて、かつ想定していないこと、まさにここは創発っぽいですが、それが生まれるような人と組みたいと。でないと、多分普通に考えても使いづらいので。

みたいなことなんだろうと取れました。こちらはシェフではないのでどう調理したらいいかはわからん。生産者として松茸を育てていると。そういうことですよね。面白いなあと。

こうやって、私はたくさんの企業人と会ってきた。仕事をバリバリ進める企業人は、一人ひとりが信念を持った挑戦者であると知った。そんな人たちと話していると、自分は極地冒険家として、相手は企業の一員として、選択している手段が違うだけで目指しているものは同じなのではないかと気づかされた。つまりは、行動を通して自分を高め、それをそれぞれの立場で社会に還元していくという一連の行為だ。それが見えてくると、途端に社会が面白くなってきた。私は一〇年以上、ある意味で社会から距離を置いてアルバイトをしながら北極に通っていた。全く社会と交わるつもりもなかったし、その必要もなかった。だからと言って、社会が嫌いな訳でも怖い訳でもなかった。今はまだその時期じゃないと思っていただけだ。資金集めという必要に迫られて、いよいよ社会と積極的に交わろうとすると、そこは北極と同じくらいに未知に溢れた世界だった。社会で新たに出会う人は、極地で出合う新たな風景を見た時と同じ感動があるものだ。自分の知らない世界を見る感動は、何も遠く離れた 僻地 だけにある訳ではなく、身近にも存在しているものだ。

同上、位置: 3,312、太字筆者注

いやーいいですね。スポンサー集めが、冒険と同じくらい未知だから楽しい。そして、社会に還元していくという行動や行為が共通じゃないかと思えたからこそ、そこに気づけたからこそ、俄然面白くなったと。

社会で出会う新しい人が、北極で見る新たな風景と同じ感動があるのも著者らしいたとえですが、面白いですね。

これがまさに、極地での非日常性から日常を考察し、今度は逆で、日常において非日常があったという発見だと。どちらも機能しているのがいいですね。

自分の思考を深めていくと見えるものがある

総じて感想としては、冒険家の思考を辿っていくことで、または考えが様々に繋がっていく。今回でいえば、自己満足的な行動も深めると、当初は当然意識してなかったけど、事後に意味づけができる。当然あと付けなんだけど、自分向けなら自己理解が深まる。

そして対社会向けならそこで何か社会還元となるのではないか。著者はその後、子どもたちだったりそうやって旅をしたり非日常性をやってみるということをチャレンジしているんですね。

N=1分析とかもそうだなあと。一人の人から社会はわからないっていうのは、多分社会学でいう口伝とか、インタビューから個人から見るライフヒストリーみたいなのを知らないとかもありそうで。そういう分野があるんですね。だから絶対ではないんですよ。ただ時代にあったことを網羅的にいわゆる演繹的に見て行って、仮説が成立するありきではなくて、もっと一人の営みから見ていくことでみる。マクロであれば、こちらはミクロだと。そういう見方も出来る。どっちが正解とかではなく、どちらもある。

自分がやってきたことが何かしら他者に喜ばれる瞬間はめちゃくちゃ面白いと思っていて、商売とかの醍醐味ってそうじゃないかなあと。メルカリの少額販売が自己承認欲求を満たすではないですけど、そういうのはかなり強い力なんじゃないかなと。多くを稼ぎたい人はいなくて(生活はしたいレベルでは欲しいけど)、そういう満たすことって確かにあって、内在、潜在的にもあって、うまく出せるやり方がなくてみつからないと嘆く人もいるんだろうなあと。

総じて面白い本でした!

そういう意味で少し書いた自分の旅行記も多分自己満足だったんですよね。本当に。自分ってできるか?って挑戦ですから。自分にとってのですよ。そしてやれたらことで自信はめちゃくちゃ持てた。最初やれるかは分からなかったので。でもペースつかめば学習して走れば進むし、進めば近づくし、近づけばそのうち到達するということが見えたと。

その自己満足の塊が、実は誰かを励ますかもしれないし、ヒントになるかもしれないなあと思うとやらなきゃいけないよなあと(笑)

筆者プロフィール

シゴトクリエイター 大橋 弘宜
シゴトクリエイター 大橋 弘宜
「シゴクリ」運営者。アイデアの力でお客様に貢献するゼロイチ大好きアイデアマン。ビジネスアイデア相談実績等は200超を超える。好きな言葉は三方良し。詳しい自己紹介仕事実績も合わせてご覧ください。お仕事メニューお問い合わせはお気軽にどうぞ。

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