誰も使わないという前提から考える

世の中の不思議というように僕は考えていることがあります。それは、Webサイト、ブログ、Webサービス等とくにそれらのジャンルは問わないのですが、作る人(会社等でも)は、それがニーズがあるとか、使うだろうという想定、いやここでは「前提」があるという不思議です。

ものすごく人との関係がうまく疲れてヒーロー(笑)みたいな人で、人間関係における成功体験しかないみたいなポジティブマンであれば全くいいのですが、そういう人はまずいないというかいないと思っています。

ネガティブな話でなく、そもそも論として「なぜ他の人があなたのサービスを使うのですか」もっといえば「誰も使わないのではないか」という前提から考える有効性についてです。あくまで有効性であって、「使わないだろうからやめる」ということを繰り返すと悪循環かもという話です。

作成・開発・運営が出来ない理由

誰も使わないとかイケてないという前提で考える

例えばですが、ユーザーが投稿するタイプのものに対して「ポジティブ」なイメージがある人が多いと思います。例えばメルカリは中古品等不用品を手軽に売れます。そういうものを見て育った人は「載せれば売れる」みたいな感覚を見出しやすいです。もちろん人は馬鹿ではないのでそうシンプルなルールで動かないはずですが、少なくとも土壌ができる。

その延長で未経験であれば「作れば売れる」みたいなことになるのではないか。つまり「何かしらサイトを作れば見られる」のではないかという永久感のある話です。

これは今の話でなくインターネットがナローバンドで普及し始めた当初も同じでした。「世界からアクセスされる」からホームページを作ると良い。理屈は合ってるのですが、「なぜあなたのサイトを見るのですか?」というと、結果的にそこを解決したのは検索エンジンでした。当初はYahoo優勢でしたが、Googleになりましたね。

見られなければ意味がないという状態を解決するためのアイデアは本当に色々です。今でこそ見かけないというかひっそり生きているようですが、アクセスアップという言葉はやや古い感じがします。それは「アクセス」を相互に交換するという今では謎感が強いサービスというか仕組みもありました。つまりブログAを使っているあなたがブログBを見ると、ブログBの人がブログAを見るみたいな。よく分かってませんが(笑)アクセス数を増やすことで水増しとなり、まさに価値は相対的に落ち、結果的に信頼性がなくなり・・・あとは想像通りです。

自虐的ではないのですが、やや悲観っぽいくらいでこういう「誰か見てくれるだろう」熱を冷ませるならいいのではないかという立場です。

投稿されない

そもそもサービスや記事が投稿されないのは、ユーザーが見ないからですし、その理屈は色々あります。例えばあなたもですが、親しい人が「そこまで使う気はしないかな」とか、SNSで呼びかけて「使って!」といっても、良くわからないなら使わないでしょう。

僕はこれをコミュニケーションと捉えちゃうのですが(半分合ってて半分間違ってる)、そこが出来てないなら、期待する投稿は得られません。

最初はやはりコツコツと集まる仕組みを練ったほうが良いです。そもそも価値あるコンテンツや誰かにとって有用なものでないならまあ価値自体が怪しいのでとなります。つまりうまくいきません。

誰もみない

誰も見てくれません。今の時代は時間の流れが歪んでいるのか、集中する環境づくりみたいなものでさえ価値になります。シゴクリでいえば、アイデアそのものの価値よりも、そういうアイデアを量産する水面下での動きややり方を話してコミュニケーションすることが多分価値だということです。

ただこれは分かりづらく見えづらいので、ある程度突っ込んだ人でないと想像できない気がします。

それはおいておいて、作ったいけてるSNSだ!とか、このツールはいいんだ!というものは多くは使われません。見ないというのはコンテンツを読むという性質の場合です。ブログ記事とかもそうですよね。

ブログを書いたら見られるということ自体が実は幸せかもしれません。誰かの反応があることがとても価値があるのだということを人は理解しているはずですが、一方で何も反応がないストレスというか不安はやはり大きいわけです。ここのギャップはおそらく全ての行動を起こすこと、プロジェクトをやること、0→1でやることでも使えるので、鍛えておいたり考えることで損はなさそうです。

使う人がいない

これも2と同様です。誰も見ない、使わない。

使うかどうかの価値はユーザーが決めます。あなたが決めてもいいのですが、決めた「価値」を誰かが「いいね」といわない限り世界は変わりません(笑)

世界というと大げさですが、ここでは「あなたがいいと思った世界」が何も動かず、箱庭っぽいままでリアルにはならないという意味です。止まったままの街です。それは怖さすらあります。もちろんそれを望む人もいるかもしれませんが、多くは「箱庭→人がきて動く」ということを望んでいるはずです。

ある種箱庭作って止まったままでいいというのは天の邪鬼ですが、アートですらありますよね。

自分が使わない

使う人がいないという中で自分も入ってしまうケースです。これはさすがに使ってくださいと思うのですが、作ることが目的だと「作ったら終わり」なのでよくありがちだと思います。

または「テンションがあがって一気に作った」場合に陥りやすいケースですね。

自分が使わない理由が何か、そもそも使いたくないのか。そのあたりは分析して損はしません。

自分が使わないけど人が使うということもあるわけですが、そもそも使っていったほうがモチベーションが増す、ストレスが減るわけでいいことづくめです。

ユーザーの立場とは切り分けるというのはカッコイイとは思ってなくて自分がユーザーでないなら価値は届けづらい、これもコミュニケーションですが、うまくユーザーとコミュニケーションができませんよね。

ストレスがたまる

誰も見ないし使われないし自分も使わない。ストレスです。面白いものとか、誰かのためにという「貢献欲」であったり、自分の学習のために「学習欲」がこのストレスに負けると億劫になります。そして「あーもうやめちゃうか」となって終わりとなるか放置となります。それが悪いというのでなく、そうなることをわりと普通なのかなと。

それを回避するためには、人間の心理や失敗のメカニズムもですが、どうするとやる気が出るかという深い理解と同時に行動と実践が必要でしょう。結局これらは一瞬で得られないからこそ価値なのかなと。

ストレスをためるために作ったわけではないからこそ、こういう反撃に近いものは一気にやる気を無くす気がします。これがある種義務っぽいならそこまでストレスでなく(そもそも義務の時点でストレスが多少ある。またはストレスがあるという前提なので結果的ストレスが少ないなど)やれたかもしれないというと皮肉ですよね。

無理して広告する

広告費を投じて宣伝するのはいいのですが、そもそも一方的な情報ですからこれらが価値とユーザーが感じていくかは結構難しいはずです。

勘違いしやすいと思っているのは、既存の企業広告の考え方は回っているビジネスがありその上での投資として一定程度効果があるからこそやっているわけです。これらのビジネスの仕組みは多分企業内にいても見えないはずです。最も近いのは経営者かまたは投資家のほうが見えている気がします。

つまり、ビジネスにおいて投資としての広告を打ったらどれくらいリターンがあるか、または金銭以外のリターンもどの程度あるか。それが自社または事業内にどれくらいメリットか。その解像度が高いと思ってください。

この解像度が低い人、つまり自分が作ったものについての理解、例えばSNSであればSNSで何をしたいか、SNSの価値は何か、SNSでどうなると自分が嬉しいか、そもそもSNSで良かったのか。なぜ?という問いかけの数が少なければ必然的に解像度が低いと考えています。(形式的に答えられればいいという話ではありません。本質に沿って答えているかがポイントです。)

そのような状態で広告することが「無理」して広告するということです。おそらくですが広告したことをうまく捉えないと損しただけとなるでしょう。

少なくともあなたが価値を自分で感じているサービスで、かつターゲットに近い人が想定できてそういう人が「食いつく」ものでない限りきつそうです。

楽しくない

なぜ作るか、なぜやるか。仕事だからビジネスだからというのは理由のようで浅いです。実はなぜやるかは一定程度考えると感情の動きだからです。理詰めの理由は仮面でしかないかもしれないという話です。仮面で言われてもなあというところです。全ての理屈を否定しているわけでなく、考えるのは大事です。

その上で、楽しくないとか面白くないなら続かないです。これらは断言されているのですが、そもそも拾ってきた価値観や言われたことやルールなのか、文化ということなのか「自分が面白くてやって仕事をしてそれで稼ぐ」みたいなノリが嫌な人も結構いると思います。

理由は簡単です。胡散臭いだろうが情報商材だろうが、サロンだろうが、それらに対してうまくいっている人が一部でもいれば成功事例となり、印象付けられます。それに対して嫉妬や羨望ということで、単なる嫉妬なんですね。

これは別にそういうあこがれの人になれとか、なれないでしょ?という煽りのメッセージではないです。むしろ受け入れないと先へ進めないという哲学に近いです(笑)

受け入れた上で、つまり「あなたはその人や誰かに憧れたり嫉妬している。その嫉妬先がやっていることを繰り返す、真似することはできない」ということを受け入れます。そのうえで「嫉妬してる」ことを認めた上で、「でも真似はやだし、そもそもそれは違うよね」という考え方が必要です。

要するにOSとしての「楽しい、面白い、稼げる」みたいなのはいいとして、ではそのやり方や実際は?というところを見える分かりやすい影響力がある情報!を具体的で見て、OSと具体的なものの思考を放棄してしまうからかと思います。

これは前から書いているOS=抽象的となり、影響されやすい情報=具体的となり、これらをつなぐものが大事、つまり自分でそこを実践して考えていくということが大事です。

それはまさに心理戦であり心理的というか、「そんなこと考えてもしょうがない」悪魔なのか天使なのか(笑)かが出てきて、「じゃあこれでやったらうまくいくよ」という情報商材というものが発生したりします。ノウハウって使う人が使えばうまくいくとは僕も思うのですが、そもそもここでいうノウハウはそれこそ今いっている「具体と抽象」を考えられる人が使ってこそ得られる果実です。

単に果実が欲しいだけで、何もしてなければ・・・そうただの青い食べられない実になります。ということをさらにメタ的に述べてるのが情報商材提供者である時、皮肉だなと感じます(笑)実際はその通りなのですが、だからといって買う理由にはならなくて、単に感情と心理を動かしているだけなのかなというところです。

脱線しましたが、楽しくないならまあ辞めたほうがいいというところで、仮に楽しくなくても他に見合う何かがあれば多分続きます。それは観察したり記録して見えるはずなので、そこを大事にしたいですね。

もっとシンプルにいえば、自分が楽しく無いと思ってるものはパフォーマンスも質も何もかも「楽しい」と思う人と比較されたら終わります。それが見えなくても見えたときが悲劇ですから、全部楽しい!は無理でも、無理は禁物ですね。

当たり前を疑う

世の中の人、周り、僕もですがここに書いてあることは本当なのか。またはどれくらい正しいのかは実は検証しようがある点もあればない点もあります。経験してないことは想像で補うしかなく、それがより細かいことになればついていけないからですね。

とはいえ、人ってそんなに違うものなのかというのもあります。叩けば痛いし、笑えば楽しい。もっとシンプルな感じもします。

上では、自分が作ったものを誰かが使うことが前提になってるけどそうでもないよね、という前提から考えると、もっと楽になったり、うまくいかないのが普通かもねと割り切れるかもという話でした。

とはいえ、成功したい、つまり何かしら狙ったことを達成したいという話であれば、あくまで踏み台にして、次へ進むべきとなります。

つまり、期待値を下げて得られる達成感を増しても意味がないみたいなことだったり、真に使われるものを目指そうだったりということです。

個人でやるレベルでいいのか(個人が悪いのでなく)、どういう規模でやりたいか、あなたの生き方とのリンクはどうか。

奇しくもなぜかそんな哲学やら、人生設計やらが、とても価値を見出す気がしてきました。ある種考えている人にとってはこれらは「朝飯前」であり、普通なのでしょうが、考えてなかった人にとっては「寝耳に水」であり、準備不足ということであり、未知的でさえあるのでしょう。

朝飯前と未知の対比はエグいです。僕も別に読者や誰かに「やーい」みたいに煽るとか野次りたい気持ちはほぼほぼないです。奥底の心理であるかもしれませんが、それほど性格は悪くないはずです(笑)

一方で、必要とされるのであれば、というかそもそも朝飯前なので、何かを考えることが億劫である、振り返る、考えるのってわりと基礎的なんだけど、「基礎的か?」みたいな人もいるわけで、コミュニケーションができるレベルであればわりとやってみたいというところですね。それが辛いならさっさと撤退という感じです。

つまり考えていくトレーニングみたいな、考える練習みたいな本があった気がしますが、考えるブログみたいな、考えることは前提にあるのでそこは推していくだけですね。

色々言うけど、批判的に考えたり、斜めに見て考えたりは大事で、考えていくことで見えるものってもっと大きいのかなとまさに「考えて」見てくださいというメッセージとなります。

成長と学びなど自分なりのフィードバックループを作る

やや自己啓発的ですが、Webサービスだけでなく、ブログ運営も新規ビジネスを作るなども全部僕は抽象化していて一緒と捉えています。個別の作業や知識があるのは当然ですが、そこは具体的なので省きます。

例えば、Webサービスを作るときになぜやるか?というのと、ブログをやりたいけどなぜやるか?と、新規ビジネスをなぜやるか?は、ほぼ問いかけとしては必須です。ただ、その問いかけとして出てくるアウトプットはわりとバラバラでしょう。またそもそも個別の専門性がなければ見えないことも多い。けれど、常に専門家圧勝でもないので、そこは余地があると。

そんな考え方でいくと、あるところで学んだことが他でも使えるよねとか、これってデジャブ感があるけどまたやるのだろうかとか、様々な気付きが生まれます。それこそが成長や学習かと思います。

シゴクリ的にあえて寄せれば、仕事のヒントからビジネスやアイデアを作り出しそれで実践する、調べる、試す、考えるから何かヒントが生まれないか。一つでも見つかれば良くて何度もやっていれば些細な気付きでもものすごいヒントになるはずです。

そうすると、試すこと、考えること、やることが面白くなる。また次もやりたくなる。これが成長のフィードバックループです。毎日でやってることは小さな気付きをアウトプットするくらいなんですけど、これが非常に価値がある。

これを難しく感じて馬鹿にしてしまってやらないとか、そんな高い意識がないといって諦めるとか、なんでもいいのですが、小さいことをやらないと一生行動出来ない感じになります。しかもこれは短期の話でなく長期または永遠くらい重いんですね。心理的にもこれらは超ストレスです(笑)

つまりこれは悪循環ってやつです。やろうと思うけどやっぱりなんか引っかかるから出来ない→打席に立たないから何も起きない→良いフィードバックやきっかけがうまれづらい→というかないのでモチベーションが上がらない→というか下がる→またやるの?ってなって終わる。

そして新たな刺激でこのブログかもしれないですが(笑)でやろうと思ってもまた諦める。ぶっちゃけそういうのが人間ですからといえば終わりなのですが、三日坊主で得られることを最大に高めてサーフィンのように乗り換え続けるのもありです。このたとえは好きなんですけど、これできる人見たことないですね。3日で飽きても大丈夫なものって、結局抽象化すれば本質的なものを掘れてないだけで、本質OSからいけば具体的な3日とか1年とかも「誤差」かもしれませんから。三日坊主やサーフィン的思考が駄目なのでなく、抽象化が強いって感じですね。

楽しくかつモチベがあがり人が喜び、社会も喜ぶのって難しいと思いますか?多分ここで難しいとてもむずかしいと考えようが、難易度云々でなく行動できる人もいるし、むしろ簡単だからやらない人もいるんですよね(笑)

だからこそ、「いい感じでやれること」って魔法じゃない。考えてやれば多分最適なものはあるよということは僕はそういうスタンスでいきたいし、そう考えているという話でした。

自分が作ったものは誰も使ってくれないのは悲観的ですがそれは最初でしかなく、次にすぐ、その瞬間に「どうすればいいか」を考えていく、試すというのがすぐに紐づく、または「そこでぼーっとせず考えていく」ことで「悲観に浸る」というのをしない感覚やコツが大事な気がしました。

ずっと哀しみに浸るってやはりできません。怒りもそうです。それによってストレスとなりますから、馬鹿らしくなります。自分にとって良いこともですが、社会にとっても良いことを考えた方が笑顔になって多分ハッピーです。そっちでニコニコして楽しい方が僕は好きなのでそうしてください(笑)

筆者プロフィール

シゴトクリエイター 大橋 弘宜
シゴトクリエイター 大橋 弘宜
「シゴクリ」運営者。アイデアの力でお客様に貢献するゼロイチ大好きアイデアマン。ビジネスアイデア相談実績等は200超を超える。好きな言葉は三方良し。詳しい自己紹介仕事実績も合わせてご覧ください。お仕事メニューお問い合わせはお気軽にどうぞ。

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